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からしだね第100号

からしだね ✞ 二〇二〇年 十二月 第一〇〇号
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 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。(ルカ二四・三〇~三一)

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†召しに応える

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、すこし進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。(マルコ一・一六~二〇)
         *
 信仰とは神の呼び声に応えることである。だから、本来、何も難しいことではない。素直に「ハイ」と言いさえすればそれで良いのである。また、信仰とはイエスの弟子になることである。シモン(ペトロ)とその兄弟アンデレは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけられたイエスにすぐに従った。ヤコブとヨハネの兄弟も同様である。四人とも無学で素朴なガリラヤ湖の漁師であったが、イエスが並の人間でないことを直感したのであろう。イエスの方もまた、彼らの純真を見抜いて声をかけられたに違いない。二〇〇〇年前のユダヤの片田舎のこの小さな出来事から、キリスト教は始まるのである。
 
 貧困や病気や悩みなどいろいろの動機や契機から、人は信仰の道に入るのであるが、やがて自分の十字架を担ってイエスの御跡に従う道へと導かれる。人生の根本的解決が与えられ、苦難の人生が喜びと救いの人生へと転換するのである。生きる知恵と力が与えられ、一日一日を導かれて平和のうちに暮らすことができるのである。金や地位や権力など、この世の宝をもはや求める必要はない。本当の高価な宝を見出したら、そんなものは「ちりあくた」とは言わないが、欲しくなくなるのである。今いただいているもので「足るを知る」のである。こういう結構な身にしていただいたからには、それを他の人々にもお勧めするのは当然である。お裾分けである。おのずから「人間をとる漁師」になるのである。それが伝道である。ところが、人々はそれに決して耳を傾けようとしない。家族や友人、知人など身近な人こそまさにそうである。聖パウロは言っている。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(Ⅰコリント二・一四)と。「自然の人」とは生まれながらの人、信仰を賜っていない人のこと。この世の大多数の人々は、神について、イエス・キリストについて、信仰について、いくら話を聞いてもアタマから信じる気がない。その人々にとって、それは実に馬鹿らしいことなのである。

 信仰は、賢愚、学歴、家柄、貧富などに全く関わりがない。信仰とは自分の知恵や教養によって信じることではない。一所懸命努力して信じ込もうとすることではない。自分が何かを信じていると思い込むことでもない。そうではなくて、信仰は神から恵みとして賜るものなのである。聖パウロは、「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊に教えられた言葉によっています。」(Ⅰコリント二・一二~一三)、と言っている。「神からの霊」とは「聖霊」「みたま」のことである。まことの信仰者とは、この聖霊を賜った人のことである。満足の人である。信仰イコール聖霊と言ってもよい。その人は、これ以上ないものをロハで戴いたのである。
 聖ペトロは言っている。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒言行録二・三八)。しかし、信仰者はうぬぼれてはならない。聖パウロは釘を刺している。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(Ⅰコリント一・二六~二九)
 
 信仰とは、概略、このようなものである。その神髄は信仰の道に入って、自らが体験するしかない。信仰を賜った人、聖霊を戴いた人は、見た目は昔と変わらない。以前と同じく貧しい愚かな凡夫であるが、内面は神によって切開の大手術を受け、全く新しい人間に生まれ変わっているのである。その彼が人間をとる漁師となって、神の口となって信仰をお勧めするのである。聞く耳のある者は聞いて欲しい。主イエスは言う、「『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである。」(ヨハネ七・三七~三九)。キリスト者は、次のような奇跡の日が来ることを待ち望んでいる。
         *
 その日には、耳の聞こえない者が
 書物に書かれている言葉をすら聞き取り
 盲人の目は暗黒と闇を解かれ
 見えるようになる。(イザヤ二九・一八~一九)


†神との通信

 パソコンやスマホの発達で、人間同士のコミュニケーションや情報通信はこの上なく便利になった。しかし、その反面、人間は神とのつながりをすっかり失ってしまった。それは、人間が人生の目的を見失い、いつの間にか手段と目的を取り違えたからである。人生の究極の目的は神を知ることであるが、そのことを忘れてしまった。情報通信技術はいかに高度に発達してもこの世の手段にすぎない。しかるに、全体はこの世とあの世からなる。私たちは、天上とのつながりを回復しなければならない。


†老後と信仰

 人は何のために生きていくのだろう。若いときは、遊びや勉学、仕事、子育てなどやりたいこと、やらねばならないことが目の前にたくさんあって、人生について考えるヒマがなかった。大方の人はそうであろう。しかし、定年退職や子育てを終えて、もはや若くない自分、社会的に用済みの自分に気づいたとき、どうするか。何を頼りに長い老後を生きていくのか。新たな仕事や趣味、ボランティアを見つけるか。才覚のある人にはそれも可能であろうが、それにも限界がある。早晩、老いと病と孤独に苛まれることになる。これは、誰にも避けることができないのである。しかし、まことのキリスト者はいかなる困難、苦境にも耐えることができる。少なくとも耐えようとする意志を失わない。カネがなくても病弱であっても生きていけるのである。信仰の力である。信仰は生きる力を賜るのである。生きる目的を与えられるのである。苦難に耐える力を付与されるのである。信仰なくして、人生を、特に長い老後をどうして生き通すことができようか。


†究極のインストール
 
 行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ一〇・八)
         *
 パソコンソフトをインストールしながらこう考えた。信仰こそは究極のインストールであると。優れたパソコンソフトは有料であるが、神が飢え渇く人々の魂に注ぎ入れてくださる信仰、つまり聖霊は無料である。しかも、それは無価(むげ)である。価値をはかることのできないほど貴重この上ない宝である。しかし、それはこちらからは手を出せない、賜るしかないものである。聖霊を賜ることは永遠の命を賜ることである。この高価な真珠をただで戴かないのは、まことにもったいないことである。(マタイ一三・四五~四六)


†驚くべき恵み

 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。(ロマ八・二八~三〇)
         *
 「ローマの信徒への手紙」は聖パウロの最晩年に書かれた書簡であり、パウロ神学の最高峰とされる。パウロが私たちに開示するのは、驚くべき神の御計画、つまりイエス・キリストの贖いによる私たちの救いである。ここに掲げた三節の短い言葉の中にも、驚嘆すべき事柄が記されている。「神を愛する者たち」は、神によって「御計画に従って召された者たち」であること。その者たちには「万事が益となるように共に働く」こと。そして、その者たちは神が「前もって知っておられた者たち」であること。神はその者たちを「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められ」たこと。それは、御子イエス・キリストが「多くの兄弟の中で長子となられるため」であること。「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し」、その「者たちを義とし」、「義とされた者たちに栄光をお与えになった」こと。平易な言葉の中に、この上なく深い真理が書かれている。
 
 キリスト者はこのパウロの言葉を聞いて欣喜雀躍すべきである。何の取り柄もない、罪深い私たちが、私たちの知らない世界において神に選ばれ、召し出され、もはや罪を問われることなく、キリストの末弟としてキリストの御後に従う者とされ、キリストに似たものに変えられていくのである。これ以上の奇跡、そして喜び、栄光があろうか。こんなウマイ話があろうか。あなたはこれを信じられるか。パウロの言葉は、パウロが啓示によって神から直接知らされたものであるから、人間の理性では証明できない性質のものである。真理は人間が考え出すものではない。私たちのアタマで論証しようがないのである。要は、私たちが信じるか否かということである。私は信じる。神の一方的な驚くべき恵みと福音を。語ることも書き尽くすこともできない自分の内的・外的体験に照らし、パウロの言葉を肯い、信じ、喜ばせてもらう。この数行のパウロの言葉に、キリスト教のエッセンスが示されている。あなたはこれを信じるか。

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 民の愚かな者よ、気づくがよい。
 無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。
 耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。
 目を造った方に見えないとでもいうのか。
 人間に知識を与え、国々を諭す方に
 論じることができないとでもいうのか。
 主は知っておられる、人間の計らいを
 それがいかに空しいかを。(詩篇九四・八~一一)

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
℡080・6384・8652
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からしだね第99号

からしだね ✞ 二〇二〇年 十一月 第九十九号
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 だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(マタイ六・二四)

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†信仰とは

 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。(ヘブライ一一・一~二)
         *
 信仰とは神の呼び声に応えること。ある意味で、賭けである。冒険である。しかし、これは魂の底からの欲求であり、とどめることは出来ないのである。何故なら、不遜な言い方が許されるなら、神は至高の価値だからである。
 
 主よ、人間とは何ものなのでしょう
 あなたがこれに親しまれるとは。
 人の子とは何ものなのでしょう
 あなたが思いやってくださるとは。
 神よ、あなたに向かって新しい歌をうたい
 十弦の琴をもってほめ歌をうたいます。
 いかに幸いなことか
 主を神といただく民は。(詩篇一四四・三、九、一五)


†うろたえるな

 お前たちは、立ち返って
 静かにしているならば救われる。
 安らかに信頼していることにこそ力がある。(イザヤ三〇・一五)
         *
 アッシリアの侵略に怯えるユダの王に対する神の御言葉である。しかし、ヒゼキヤ王はこの御言葉に聞き従わず、エジプトを頼った。このためユダ王国は、主によって災いがもたらされた。このイザヤの預言は、二七〇〇年前のものであるが、今日の私たちへの言葉でもある。神の言葉は生きており、いつも新しい。私たちは何か心配事や困難に出遭うとすぐうろたえるが、そんな時、この神の御言葉に思いを致し、神に依り頼むべきである。そして、神のお働きになられる時節を待つのである。神は、良き時に良き仕方をもって、必ずお助けくださる。「主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。」(詩篇三三・九)のである。これは自ら体験するしかない事柄である。


†二つの終末論

 からしだね第九十七号において、白井きく女史に短いオマージュを献げたところ、会員の一人から感想が寄せられた。「かつて、からしだね誌に二十回にわたって女史の短文(抜粋)が連載されたが、それほど感銘を受けなかった」との趣旨である。察するに、「私は素人ゆえに、誰にはばかることもなくここに記すのであるが、女史の信仰は、内村、塚本両師を超えた境地に達せられたと信ずるものである。」との私の文章に賛同できない、というより異議を唱えられたのであろう。そこで、なぜ私が女史の信仰を高く評価するか、そのわけを以下に弁明したい。
 
 確かに、内村鑑三は、無教会のみならず我が国キリスト教界にあって、燦然と輝く巨星である。高質の厖大な著述(全集四〇巻)と倦むことのない広範な伝道活動からみて、宗教的天才であったことは間違いない。預言者・詩人としての才質にも恵まれ、起伏の多い人生と相俟って、今や伝説的存在である。また、その高弟塚本虎二は、東京帝大卒の高級官僚であったが、職を辞して伝道者になった超エリートである。新約聖書の個人訳という偉業を成し遂げた。聖書を敷衍という独特の方法でわかりやすく翻訳したもので、他に類がない。彼もまた、名声嘖々たる存在である。両師からは、帝大出の聖書学者や優秀な伝道者が輩出した。かるがゆえに、世間的には無名に等しい白井きく女史の信仰の境地がこの両師よりも高いなどということは、無教会においてはあってはならないし、あるはずもないことなのである。彼女は優れたキリスト者であったにしても、塚本虎二の弟子の一人にすぎないではないか、というのが大方の評価であろう。内村、塚本両師は、後に袂を分かったけれども、無教会にあっては全く別格の絶対的な存在であり、比較や批判はもってのほかなのである。内村師に至っては神格化する向きさえある。それを批判する塚本師側も、同様に偶像崇拝化が進みつつあるのではなかろうか。こうして、無教会は初期の革新性を喪失し、生命力を失いつつある。これが田舎の無学な一キリスト者の抱いている印象であるが、杞憂であれば幸いだ。前述の、私に対する会員の異議には、こうした背景があるのである。
 
 さて、白井女史の信仰が内村師よりも高い境地に達しているとする理由であるが、それは復活、再臨、つまり終末に関する考え方の相違に起因する。私は、内村師の『一日一生』『続一日一生』の愛読者であり、毎朝その日のページを読むのを日課としている。それは内村師の文章の中から選りすぐりの箇所を、聖句と並べて一頁に納めたものである。それを読むかぎり、内村師は復活、再臨についての説明が揺れている。聖書学者や神学者というよりも詩人としての感性で、その時、その時、ひらめいたことを記されているようで、確たる定まった考えには至っていないように思われる。また、終末については、例えばマルコ十三章のような黙示文学的なこの世の終わり、つまり新天新地を伴う宇宙終末劇、そしてキリストの再臨、最後の審判を文字どおりに信じておられたようである。なお、私は内村師の全集を所持しているが、視力・体力の衰え等もあり、師の論文を精査しているわけではない。(塚本師については、今は、『塚本虎二訳 新約聖書』のほか著書を所持していないため、ここに述べるのを省略する。)
 
 これに対し、白井女史は、ヨハネ福音書に基づいて、救いの現在性の立場に立っておられる。イエスの再臨と世の裁きはイエスの使信を聞くとき、換言すれば、聖霊(弁護者)の到来によって実現するのであり、時間的な未来のことではない。つまり、御子を信じる者は今、永遠に生きているが、信じない者はすでに裁かれているのである(ヨハネ三・一八~一九)。黙示文学的な再臨も最後の審判もないのである。キリストの再臨運動を提唱した内村師とは全く異なるのである。なぜこのような相違が生じたのか。内村師と白井女史の違いは、共観福音書・パウロ的終末論とヨハネ的終末論との違いである。この二つの終末論は全く別ものであり、折合いのつけようがない。キリスト者は、真剣に救いを求める限り、いずれかの立場に立たざるを得ない。カトリック教会はもとより、プロテスタントの教会も、共観・パウロ的終末論に立っている。その方が教会という組織体にとって都合がよかったからであろう。無教会の内村師も、終末論については教会と同じようである。

 どちらの終末論が正しいとか間違っているとか言うのではない。それは立証しようのないことである。自分はどちらを信ずるか、これは啓示によるほかない。私が言いたいのは、ヨハネ的終末論は共観・パウロ的終末論を超えているということである。そして、白井女史はこちらの終末論に立っているのである。私がかつて属していた無教会の小さな集まりでは、こんなことを問題にする人はいなかった。ましてや、一般の教会のキリスト教信者はそうであろう。しかし、共観・パウロ的終末観とヨハネ的終末観をごっちゃにすると何が何やら分からなくなるのである。キリスト者はどちらかの終末観に立たざるを得ないのではなかろうか。終末論を曖昧にしている人は、本当の信仰もまことの救いも知らない人である。なぜなら、終末とは救いのことであり、終末を曖昧にすることは救いが曖昧であるということである。私は浅学非才の信仰の薄い者ながら、ヨハネ的終末論を真理と信ずるものである。なお、誤解のないように言っておきたい。私は白井女史の方が内村師や塚本師よりも偉大だと言っているのではない。女史の達した信仰の「境地」が、ヨハネ的終末論のゆえに、両師を超えていると言うのである。社会やキリスト教界に与えた影響の面では、内村、塚本の両師は極めて大であり、一方、白井女史は小さな存在である。女史の真価は、これから世に認められるであろう。

 なお、白井女史の考えは、『ブルトマンと共に読むヨハネ福音書(上・中・下)』に詳しい。この著書は彼女の信仰と伝道活動の総決算と言っても過言ではない。女史も共観・パウロ的終末論を経て次第にヨハネ的終末論を信ずるようになり、原書でブルトマンのヨハネ福音書を研究するなかで、最終的にその立場を確立されたのであろう。結婚せず、家庭なく、家なく、財産なく、世に認められず、天涯孤独の身ながら、彼女は無一物にして無尽蔵の恵みの中に起居し、真に平和で自由な、そして軽やかな人生を送られたようである。ヨハネ的終末論の真理を、九十余年の生涯をもって、身をもって私たちに示してくださったのである。


†思い悩むな

 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。(マタイ六・三四)
        *
 毎朝のように山鳩が我が家の近くで鳴く。山鳩に空腹はあるだろうが、悩みは恐らくあるまい。空腹が満たされるまで餌を探し続け、餌が見つからなければ力尽きて死ぬまでのことである。彼は明日のことを心配して餌を貯め込んだりはしない。山鳩は自然と一枚である。一方、我々人間は自意識があって、本能のまま、自然のままに生きることはできない。人間は自然の一部でありながら、自意識によって自然と分離した存在である。そこに人間の価値があるのであるが、そこから悩みや苦しみも出てくる。考えてもどうにもならないことを考え、思い悩む。明日のことを取り越し苦労するのである。これは金持ちも貧乏人も、学のある人もない人も、同じではなかろうか。

 このような私たちを、イエスは掲出の言葉でもって導いてくださる。実に偉大な言葉である。自分の足元が瓦解するような挫折を味わい、今日をどう生きるか、明日はどうすればいいのか、と悩んだことのある人なら分かるはずである。私たちが思い悩むのは、天の父を信じないで、自分の力に頼ろうとするからである。しかし、自分ほど当てにならぬものはないことを、神は教えてくださる。悩みの根本原因は、不信仰である。私たちはもともと神の御手の中にあって、神から命を授かり、神の恵みによって生かさせていただいているのに、自分の力や甲斐性で生きてきたように錯覚しているのである。その私たちに、明日のことまで思い悩むな、自力を捨てよ、と教えてくださる。私たちは今日できることを懸命にやりさえすれば、それでよいのである。後は明日のことである。なるようになるのである。神が善きように計らってくださるのである。それを信じて、早く寝ることだ。朝の目覚めに山鳩の声を聞いて、こんなことを教えられた。


†神の貸与
 
 人間にとって価値があるもの、たとえば地位、権力、名誉、金、健康、美貌などは、それ自体では、神の御目には何ら価値のないものであろう。それらは神が、ほんの短い間、人間に貸し与えてくださったものに過ぎない。しかし、大方の人間はこれらを誇り、不善をなすのである。自分に何が求められているか、何をなすべきか、神の御心に気づくことは至難のことである。

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 わたしたちではなく、主よ
 わたしたちではなく
 あなたの御名こそ、栄え輝きますように
 あなたの慈しみとまことによって。
 なぜ国々は言うのか
 「彼らの神はどこにいる」と。
 わたしたちの神は天にいまし
 御旨のままにすべてを行われる。(詩篇一一五・一~三)

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からしだね第98号

からしだね ✞
二〇二〇年 十月 第九十八号
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 どうぞ、聖なる天から知恵を遣わし、
 あなたの栄光の座から知恵を
 送ってください。
 知恵がわたしと共にいて働き、
 あなたの望まれることが何かを
 わたしに悟らせるために。(知恵の書九・一〇)

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†中風の人をいやす

 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床をかついで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。(マルコ二・八~一二)
        *
 古代ユダヤの人々は、因果応報の考え方により、病気はその人の罪の結果であると信じていた。だから病人は身体的苦痛はもとより、精神的な苦しみも大きかった。現代では、病気や障害と罪との関連は根拠なきものとして否定されるべきであるが、中風の人のいやしの奇跡は、当時の社会的背景が前提となっているのである。イエスは、中風の人を担架で運んで来た四人の男の信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。これに対し、そこにいた数人の律法学者たちが、イエスの言葉は神を冒瀆している、と心に思うのである。彼らはイエスが神の子、救い主であることを信じていないからである。
 イエスは、彼らの考えを見抜かれ、掲句が続く。口先だけで「あなたの罪は赦される」と言うのは、「起きて、床を担いで歩け」と言うより当然たやすい。内面のことは人の眼に見えないからである。しかし、まことの信仰者なら、中風の人が立って歩くよりも、罪が赦される方がむつかしいことを知っている。なぜなら、中風は医学や生理学の進歩によって、つまり人間の知恵や力でいつか治療が可能になるかも知れない。しかし、罪は、神の赦しを得るほかないもので、人間の力が及ばない事柄だからである。これは、イエスの十字架によって罪を赦された真の信仰者には自明のことである。私たちは、普通このことを逆に考えがちである。そして、イエスは言われる。「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と。その人は皆の見ている前で起き上がり、床を担いで出て行った。中風の人は、内面の深いところで罪を赦され、重い病気も治ったのである。神の子イエスのみがなしえた神の業、奇跡である。


†神の内に安らぐ

 人の魂は究極のものを見出すまで安らぐことはない。究極のものとは、神であり、キリストであり、聖霊である。三位一体の神である。別の言葉で言えば信仰である。アウグスティヌスは言っている。「われわれの心は、あなたのうちに憩わないかぎり、安らぎを得ません。(『告白録』一・一)」。神は、私たちによって捕まえられるお方ではない。有限なものが無限なものを捕まえることはできない。私たちの方が神によって捕らえられるのである。私たちは、無限なお方、生きて働いておられるお方を、「神」という言葉でピン止めし、固定しようとする。言葉とはそういうものであるが、神はいかなる概念や言葉でも規定されない。固定され、規定されるのは、私たち人間の方である。私たちは、神によって造られ、生かされ、保たれている被造物に過ぎない。私たちは、神から啓示を賜った範囲において神を知ることができるのみである。私たちは、自分の罪悪を照らされ、懲らしめられ、思い上がりや有限性を知らしめられることによって、神の存在を知ることができる。すべて神の愛と慈しみから出ることである。


†主の栄光

 モーセが「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」(出エジプト記三三・一八~二三)
         *
 この短い節に、神御自身について驚くべき事柄が啓示されている。神は私たちにあらゆる善い賜物を与えてくださる方であること、神の御名は「主」であること、神の恵みは一方的なもので、神が「恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」のであること。つまり、神の恵みは人間の努力や善行に対する報償として与えられるものではなく、人間側から手を出して請求できるものではないこと。恵みはすべて神の御旨、御計画によるのであること。また、私たちは神の姿を見ることができないこと、神を見た者は生きていられないこと。つまり神は、私たちの小さな頭で理解したり、規定したり、捉えたりできないお方であること。そして、神の後ろ姿は見えるが、お顔を拝見することはできないこと。つまり、この世への神の介入、その御業については、それがなされている最中には私たちには分からないのである。私たちは、後で振り返ったとき、神の導きや助け、懲らしめを悟ることができるのである。


†信前信後

 信仰とは奇跡の事柄であり、神学や聖書知識ではない。また、信仰個条を唱えたり、讃美歌を歌ったり、教会に熱心に通うことでもない。信仰を賜ると、それまで自分にとって存在しなかった神が存在するようになるのである。自分が神の道具となり、神が自分をお使いになって活動を始めることになる。このため、人は信前と信後はまったく異なった生き方をするようになる。一言でいえば、生まれ変わるのである。「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」(ヨハネ三・三)。また、パウロは言っている。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ二・二〇)。このようなことが起こるのである。人は、信後は命果てるまで神と共に生き、肉体の死後は神の御許へ帰らせていただくのである。彼の信後の生涯は、ある意味で、神のこの世への顕現であり、彼の言動や事業は神がこの世に記されたメッセージである。まことの信仰とは驚くべき事柄なのである。


†信仰に生きる

 信仰とは神によって生きることである。己が知恵や才覚ではなく、神に導かれ、神に信頼して生きることである。有限な自己や他人を当てにせず、全能の神に任せまいらせることである。だから、何の取り柄もなくても大丈夫。ただ信仰によって生きるのである。それが神によって義(正しい)とされる道である。次のパウロの聖句が証文である。「正しい者は信仰によって生きる。」(ロマ一・一七)


†骨の骨、肉の肉

 主婦は魔法使いである。あまりに当たり前のことなので普段何とも思わないが、主婦はそのままでは食べられないものや美味くないものを料理して御馳走に変えてくれる。乏しい家計をやり繰りして一家を切り盛りし、夫を支え、子を産み育て、パートで働きにも出る。老親の介護も担う。よく考えてみると、これは魔法使いよりもすごい業である。それだけ女性に負担がかかっているのである。感謝の他ない。こんなことを書くと、お追従を言うな、男女共同参画に反する、役割分担意識そのもの、などと目くじらを立てないでほしい。現在は男女共働きが多いから、なおさら男は頭が上がらない。ソクラテスの妻、クサンチッペも恐らく悪妻ではなかったであろう。ソクラテスの方が変わり者だったのだ。
 閑話休題。ごく普通の主婦のすごい能力に今さながら驚かされる。それは石をパンに変えたりする「奇跡」より素晴らしい。私たちの暮らしは、平凡の中に非凡が、普通の中に奇跡が、当たり前の中に神の祝福が、隠されているのではなかろうか。刮目すれば、私たちは驚くべき恵みの中に生かされている。そのことに気がつく人は幸いである。不平不満を言っては申し訳ない。私たちの眼は、サタンに目隠しされて、何か大切なものが見えなくなっているらしい。主なる神が連れて来てくださった「骨の骨、肉の肉」に感謝である(創世記二・二三)。


†とうごまの木

 ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。(ヨナ書四・五~六)
        *
 朝食後、近くの農道で十分ほど自己流の体操をする。そこに小さな木陰があり、夏の朝はそれがありがたい。とうごまの木を喜んだヨナの気持ちが分かるというものである。ところが、「翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせたので木は枯れてしまった。」(ヨナ書四・七)とあり、ヨナは太陽の熱射でぐったりとなるのである。もとより、これは神の深慮による。幸い、我が方の木陰はその心配はなさそうだが、朝起きるのが遅いと陰はなくなっている。とまれ、稲の青さと時折吹く風が心地よい。

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今月の聖句

 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。・・・すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。(ロマ書一一・三三~三六)

 *入信の前は、自分が世界、宇宙の中心である。いわば自分が神の立場に立っているのである。その自我が打ち砕かれて、ちっぽけな真実の自己に目覚めるとき、人は神を信ずるようになる。もともと神の御手の中にあったことを知るのである。


 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ一七・三)

 *永遠の命とは、どこか遠い未来を眺めることではない。今ここに、神を、イエス・キリストを、知るところに永遠の命がある。その時、あなたはもう永遠の命を生きているのだ。「知る」とは、知的な知り方ではない。信じ知ること、啓示によって知ること。

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からしだね第97号

からしだね ✞
二〇二〇年 九月  第九十七号
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 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイによる福音書一七・二〇)

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†光あれ!

 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創世記一・三)
         *
 神を信ずるとは、「光あれ!」という神の御言葉が聞こえたことである。信仰は、理屈や研究や知識ではない。神のこの御言葉によって、私たちの暗い眼が開けるのである。暗闇が光となるのである。闇であった心に光がさすのである。信じる心を賜るのである。聖パウロは言っている。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(Ⅱコリント四・六)。「光あれ!」という言葉が、魂の深奥に届いたとき、神を信ずるということが起こるのである。神がこの御言葉を私たちの耳もとに吹き込んでくださるのである。また、「神は言われた」というと、「神」と「言(ことば)」は別々のように思われるが、そうではない。神=言なのである。ヨハネ福音書の巻頭に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とあるとおりである。信仰は神の言葉によって起こる奇跡なのである。


†盲人バルティマイをいやす

 イエスと弟子たちの一行は、ヨルダン川を西へ渡り、オアシスの町エリコに着いた。目指すエルサレムはもう三〇キロほどの道のりである。一行が大勢の群衆と一緒にエリコを出て行こうとしたとき、バルティマイという盲人の乞食が「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びだし、人々が叱りつけても叫ぶのを止めようとしなかった。「ダビデの子」とは、イスラエルの人々が長い間待ち望んでいた救い主、キリストのことである。救い主が来られると、目の見えない人は見え、耳の聞こえない人は聞こえることが、古来、預言されていた。盲人は、イエスを救い主と信じてすがったのである。イエスは立ち止まって彼を呼び、「何をしてほしいのか」と言われた。彼は「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスが、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われると、盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従う身となった。(マルコ一〇・四六~五二より)
         *
 この盲人いやしの奇跡は、エルサレム入城を間近に控えての、大切な箇所に置かれており、私たちに重要な事柄を伝えようとしている。イエスは、この数日後、エルサレムで十字架につけられるのである。私は、このエピソードを単なる奇跡物語の一つとしてではなく、次のように読みたいと思う。つまりこの記事は、バルティマイの開眼という奇跡の形で、不信の私たち(つまり盲人)に信仰の眼が開けるという出来事を記しているのである、と。信仰とは霊眼が開けることで、神の奇跡なのである。イエスを神の御子、キリストと信じる眼を賜って、十字架に向かって歩まれる主の御後に従う身としていただく。盲人のいやしの出来事は、キリストの復活後、いつでも、どこでも、誰にでも起こりうる可能性と普遍性を秘めているのである。「あなたの信仰があなたを救った」という御言葉は、私たち一人一人に向けられている。    
 投書を一つご紹介したい。六月二十九日付けの朝日新聞に掲載された、五十九歳の男性のものである。この人は、昨年、再三の手術の甲斐なく全盲となったのである。詳しい経緯は省略させていただくが、彼は投書の末尾にこう記している。「全盲となったのに、私は最近見えるものがある。今まで見えなかった人からの優しさが見えるようになってきた。それは大きな希望である。」と。この人は、肉眼は失ったが、心眼が開けたのである。苦難を経ての奇跡がここにある。


†シェバの女王

 また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てか来たからである。ここにソロモンにまさるものがある。(マタイ一二・四二)
         *
 シェバの女王はソロモンの名声を耳にし、その知恵を聞くために地の果てから訪ねてきた。本当に知りたいことがあれば、特に、道を求めるときは命がけである。遠いとか、危険とか、金がかかるなどと言っておられない。我が国においても、『歎異鈔』に貴重な例が記されている。親鸞聖人の弟子数名が板東からはるばる京都の聖人のもとへ、身命を顧みずして訪ねてきた。何のためか。「往生極楽の道を問い聞かんがため」、今日の言葉で言えば、「どうすれば救われるか、永遠の命を得ることができるか」疑義を問いただすためである。それだけのためにである。鎌倉時代のこと、まだ東海道はなかったであろう。求道の真剣さには、宗教の如何、洋の東西を問わない。昔も今も変わりがない。こうであってこそ、道は開けるのである。神は、私たちに求めさせ、御憐れみくださるのである。


†希有の花―白井きく

 「白井きく 珠玉のことば」というブログを始めた。白井きく女史の著作の中から、私がメモしておいた文章を少しずつ世の中に紹介したいのである。なぜ私がそんなことをするかというと、女史の信仰に教えられるところ、共感するところが極めて大であるからである。キリスト教、特に信仰に関心をお持ちの方にはぜひ彼女の著作を読んでいただきたい。とは言っても、私が女史について知るところは、その著書を通じてのみであり、極めて少ない。ちなみに、一九九五年に発行された『神の国はどんなところか』の奥付にある略歴は次のとおりである。
 
 「一九〇五年。横浜に生まれる。一九二七年、旧制東京女子高等師範学校理科卒業、旧制埼玉県女子師範学校教諭。一九二九年、青山学院高等女学部(旧称)へ転勤。一九三一年、塚本聖書講演会に出席して聖書およびギリシャ語原典を学ぶ。一九四三年、教職を辞任、一九六一年、塚本聖書講演会解散後、独立して聖書集会をはじめ現在に至る。著書に、『ルカ福音書(上)(下)』『ローマ人へ』『使徒行伝の読み方』『マルコ福音書』『みんなで生きる』『いのちの泉をたずねて』『ヨハネの黙示を読む』『訳本・ヨハネの黙示』『聖書のこころ』『ピリピ人への手紙を読む』『夕暮れの頃に明るくなる』『ヨハネ福音書の原形』『ブルトマンと共に読むヨハネ福音書(上・中・下)』などがある。」
 
 要するに、女史は今日のお茶の水女子大学を卒業後、教職に就かれていたのであるが、十六年ほどで退職し、内村鑑三の高弟塚本虎二に師事。約三十年間、師の新約聖書の翻訳、機関誌「聖書知識」の編集等の事務を無給で手伝われた。生計は、数学の家庭教師をして立て、生涯独身で間借り暮らしだったそうである。塚本聖書講演会が解散の後は、ご自身で小さな聖書集会を持たれ、伝道を続けられた。また、塚本の元でギリシャ語をマスターし、ドイツ語にも堪能であったので、略歴にあるように聖書の翻訳や註解書、信仰書の発行にも力を注がれた。女史は一〇〇歳近くまで生きられ、『神の国はどんなところか』を出版されたのが九十歳のときであるから驚く。女史は世間的には殆ど無名であり、私も松山聖書集会の先輩が持っていた彼女の註解書によってその存在を知ったのである。私は素人ゆえに、誰にはばかることもなくここに記すのであるが、女史の信仰は、内村、塚本両師を超えた境地に達せられたものと信ずるものである。
 私は彼女の著書によって、新約聖書の要を学ぶことができた。これからも教えていただけるであろう。世の学者、専門家の註解書は難解、厖大、晦渋、煩瑣で結局何が言いたいのかはっきりしないことが多いのであるが、女史のものはそうではない。「一人びとりが自分の生活をもって神からの啓示に接して理解したものが、聖書註解につながる」と前掲書に書いておられるとおり、ご自身の信仰体験に裏打ちされた簡明、率直な、まさに珠玉のような書ばかりである。彼女に私淑するゆえんである。「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」(ヨハネ四・三八)というイエスの御言葉のとおり、私は彼女の蒔いた種を刈り取り、永遠の命に至る実を集めているのである。

  前述の通り、私は彼女のことを、その著書を通じてしか知らないのであるが、小柄で上品で知的な、名前のとおりのお綺麗な方であったろうと勝手に想像している。それで十分である。生前のイエスと面識がなかった聖パウロは、「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」(Ⅱコリント五・一六)と言っている。私も同様に、女史が著書の言葉を通じて私に語りかけるのを、聖霊の働きを介して聞くのみである。純粋な彼女の霊に出会うためには、現世の彼女の姿や暮らしぶりを知っていることがかえって邪魔になることもある。それはさておき、生涯独身であった彼女は、「天の国のために結婚しない者もいる」(マタイ一九・一二)というイエスの御言葉のとおり、神に特に選ばれ、イエス・キリストの花嫁として一〇〇年近く生き抜かれた。私のブログは、彼女がどのような信仰を持っておられたか、その精華のほんの一端をご紹介するにすぎないが、一度覗いていただきたい。どなたかこのブログをご覧になって、もっと女史の人となりなどについてご紹介いただけることを期待したい。私に力があれば、後世のために彼女の全集を発行したいものだと密かに願っているのである。


†神の領分

 先日、お隣の奥さんが亡くなられた。まだ六十代後半である。がんセンターに入院されてから容態が日に日に悪化し、二週間で急逝された。御本人も御主人も、まずは検査からのおつもりで、まさかこんなことになるとは、夢にも思っておられなかったであろう。残された御家族の悲しみはいかばかりか。うかつにも隣家の大事に全く気づかなかった私は、御逝去の翌日、御主人の口からそのことを告げられ、絶句してしまった。善い人が長生きするのでもなく、悪い人が早く死ぬのでもない。現実は、まったくその逆かもしれない。というよりも、生と死は神の領分である。人間の思いや知恵、力を超えたものである。私たちは神の命を私たちのものと思い込み、薄氷の上を大盤石のように錯覚して、その上を歩いているのだろう。
 とまれ御婦人の死は、私たちにはまだ早すぎると思えるけれども、今生の使命を十分に果たされたので、神がお取りになったと受け取るべきなのであろう。私としては、「からしだね」を一年余りお読みいただいたことに希望を持っているのである。主イエスが必ずや良きお計らいをしてくださると信じている。死は決して他人事ではない。「次はお前の番だ。覚悟はよいか」との神様の御促しである。「別に覚悟はありません。ただおまかせいたします」。信仰者は自分に恃むところは何もないのである。

*******************
 
 いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の道にとどまらず
 傲慢な者と共に座らず
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。(詩篇一・一~三)

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からしだね第96号

からしだね ✞
二〇二〇年 八月  第九十六号
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 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。(マルコによる福音書九・四一)

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†突風を静める 

 ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。(ルカ八・二二~二五)
        *
 奇跡物語である。イエスが突風や荒波という自然現象をも支配する力をお持ちの方であることが記されている。しかし、イエスが神の御子であることを信ずる者は、この記事を文字どおりの史実として受け止めねばならない、ということはない。むしろ、いつでも、どこでも、誰にでもあてはまる信仰的事実として受け取りたい。イエスが、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われたことに着目したい。人生は平穏な日ばかりではない。私たちは、思ってもみないときに、病気や事故、災難に出くわす。そんな時、うろたえ、嘆き、その状態から一刻も早く逃れたいとあせるのである。信仰者とて例外ではない。しかし、私たちが少し落ち着きを取り戻し、イエスが共にいてくださることに目を向けると、事態はそれほど悲観したものではなく、相応の解決策があることに思い至ることが多い。それは、単に心の持ちようということではなく、私たちを神が支えてくださるからである。また、私たちが気がつかなくても、実際に神の介入によるお助けを賜るのである。仮に最悪のことを覚悟しなくてはならない場合でも、イエスにすべてをお任せすることが出来るのである。イエスは、外界を変え、内界を静めてくださる。イエスをキリストと信じ、その生き方に従うとはこのようなことである。


†なりゆきまかせ(特別寄稿)  暮天子
 
 古希間近になって人様から「これまでの人生を振り返り、信念を述べよ」と問われ、語るべきものを持たないことに、いささか唖然とする思いです。
 ただ最近の新聞紙上で、年下の正岡子規を俳句の師と仰いだ内藤鳴雪翁の号が、「なりゆき」をもじったものであることを知り、また樹木希林さんの「一切なりゆき」が多くの人の共感を得て、ベストセラーになっていることを聞くと、昔から多くの人が「なりゆき」で満足して生きてきた気がします。確かに、「なりゆき」の人生では、人に誇れる生き方ではないかも知れませんが、そもそも信念を貫いて一生を強く生きられる人が、どれ位いるものでしょうか。
 私自身これまで、ほとんど「なりゆき」で生きてきたし、これからもそうでしょう。もともと信念とか信条とかは、好みではありません。守れないことが分かっていますし、押し通せるほどの充実した気力・体力を持ったこともありません。
 人生の一つの分岐点と言える高校受験は、単に、兄と同じ学校だと面倒がないと母親が希望したから。大学の選択は、アルバイトで生活費を賄う必要から、学生寮が大きな大学で求人が多そうな都市を選んだに過ぎません。そもそも大学に行けることが、当然とは思っていませんでした。中小企業の社宅に住まわせてもらっている両親は、高齢でいつクビになってもおかしくない立場。その時は、私が就職して支えるしかありません。未来があちらに行くかこちらに流れるかは、自分の思惑の外でした。それならば、何ごとにも執着せず、無理にでも「この世の一切は空なり」とか「世間はみな虚仮」と自分に言い聞かせた方が、少しは楽に生きられます。ただ幸にも、社長が「もうそろそろ、よかろ」と両親に告げたのは、私が就職して二年目。数年間もの猶予をもらえたのは、とても有り難いことでした。
 両親を連れ、何とか新しいアパートに目処がついた時、一つの山を越えた感とともに、これから先は両親の面倒を見ることで、一生独身もありうると覚悟していました。ところが、今振り返ってみれば、いつの間にか子供にも孫にも恵まれ、おまけにマイホームを手に入れて、質素だけど穏やかな老後まで過ごせています。こうした人並みの人生が得られたのは、四十年近く仕事を勤め上げたことも重要ですが、何と言っても日本の高度経済成長の波と自分の働き盛りがうまく重なったことが大きいでしょう。運悪く、いわゆる「氷河期」に遭遇して、就職に恵まれなかった世代がいます。今まさに新型コロナ禍に巻き込まれ、途方に暮れている世代もいます。彼ら彼女らに比べ、私はただ幸運だったとしか言いようがありません。
 人生は、結末の多くが「ドボン」に至る巨大なアミダくじかも知れません。いろいろな所に岐路が潜み、そこを踏み誤れば崖下に落ちる。病気、事故、災害、不況、悪意などの様々なアクシデントがいつ襲ってくるのか、普通の人では予測がつきません。私の一生がどうにかなったのは、信念の強弱や善し悪しではなく、ただ「なりゆき」に恵まれたせいでしかないと思っています。
 さて、人生の残りも少なくなってきましたが、これからの「なりゆき」もラッキーが続くのか、それともアン・ラッキーに遭遇することになるのか。どちらになるにせよ、一日一日を「それなり」に生きていこうと思っています。

―編集者から―
 今号は旧友の暮天子さんに特にお願いして、「我が信念」というテーマで寄稿していただいた。順風満帆ともいえる半生が、軽快な才筆で綴られている。ご同慶の至りである。ところで、福音書では、人生は湖を小舟で渡るのに譬えられている。平穏な日々も、いつ突風に襲われるか分からない。巻頭のルカ福音書の記事は、私たちにそのことを教えてくれる。暮天子さんは、いわば「なりゆき」を神としておられるわけであるが、私は、いずれまことの神の導きにより、氏の信念が信仰に昇華される日が来ることを信ずるものである。
        *
 知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら
 あなたは主を畏れることを悟り
 神を知ることに到達するであろう。(箴言二・二、五)


†神恩キリスト教会への道

 新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。(マタイ九・一七)
        *
 私たちが教会や信仰グループに近づくきっかけは、聖書について学びたい、キリスト教について知りたい、信仰に興味や関心がある、人生の悩みや苦難から救われたいなど、人それぞれであろう。しかし、求道と言えるほどの真剣な信仰は、ごく少数の人々に許された恵みである。大抵の人は信仰と言っても、表面的で、形だけのきれい事に終始している。齢五十を過ぎた私が最初に戸を叩いたのはカトリック教会であったが、そこは聖書を学ぶことよりも、日曜毎の聖日礼拝が中心で、信徒はいわば檀家である。信徒はローマカトリック教会という上意下達の体制に所属し、ミサに参列することで満足する。聖書はあまり読まない。それが彼らの信仰なのである。私にとって信仰とは救いを求めることであったから、これに飽き足らず、洗礼を受ける直前になって教会を離れた。
 次に私が訪ねたのが、無教会である。これはプロテスタントの一派で、内村鑑三が創始したものである。信者の集まりを集会と呼び、洗礼の必要はなく、「信仰のみ、聖書のみ」である。司祭や牧師はいない。会議室の一室で聖日礼拝を行う。礼拝は聖書の学びが中心で、信仰歴の長い者が分担で聖書講話を担当する。その点は私の好みにあったが、結果的に、この集会からもすぐに退会した。講話の内容に今ひとつ満足が得られず、先輩方の「信仰」に若干の違和感を持ったからである。無教会とはこれで縁が切れたはずであったが、それから数年後、二度目の退職を機に、集会に復帰を認めてもらった。他に行くべき教会がなかったからで、私もずいぶん勝手なものである。すると、「おまえも講話をやれ」と言われ、隔週毎に素人なりに聖書講話を担当させてもらった。また、私の提案で小さな信仰誌「からしだね」を発行することになり、編集を任せてもらった。こうして約十年が経過した。
 
 しかるに、昨年三月、この集会と再び別れることとなった。その原因は、信仰に対する考え方の違いが次第に明らかになってきたからである。私は、「真の信仰には自己変革が求められる、微温的であってはならない、形だけのきれいごとの信仰なら無教会の存在理由はない。特に、集会の指導的立場にある者は、自らの信仰を常に問い直すべきである」と信じており、それを近年、機会ある毎に発言してきた。信仰は、信仰歴の長さや聖書知識の多さではない。熱心や真面目でもない。何よりも、悔い改め、回心の有無を曖昧にしてはならない、と思うからである。私は、各自の自主的な信仰刷新を求めたつもりだが、先輩たちからは、「それは他人の信仰を批判するもの、裁くもの」として断固斥けられた。私の考え方は確かにラディカルであり、若い時に無教会の先輩から受けた教えを後生大事に守っていこうとする集会の体質とは、どうしても相容れなかったのである。このようなことから、私がこの集会を出た方が双方のためによいと確信するに至った。思えば、私と聖書集会とは、最初から最後までいわば同床異夢だったのである。異質の私が無理な要求をし、彼らの平穏を乱したのである。長きにわたり、棘の多い私に寛容に接してくれた聖書集会の面々には、深く感謝を表したい。
 とまれ、以上のような経緯から、私は自分の信ずる道を行くこととなり、無謀にも神恩キリスト教会を立ち上げた。新しい信仰の息吹には新しい革袋が必要だからである。教会という名称は使うものの、内村鑑三の精神を受け継ぐものであることに違いはない。笑う人は笑うがよい。「七十歳をとっくに過ぎたお前に何ができる」と。私にも成算があるわけではない。ただ神の導きを信ずるのみである。古いぶどう酒を飲みたい人には古い革袋がある。新しいぶどう酒がいい人はこちらへ来ればよい。神はそれぞれを良き方向へ導いてくださるであろう。


†Kさんからの葉書

 「からしだね」を郵送してしばらくすると、高齢のKさんから葉書が届く。私は、いつも彼の文面を、イエス様から私に対する励ましの言葉として受け止めている。イエス様は、彼の筆を借りて、私を力づけてくださるのだ。主は生きておられる。イエス様は「からしだね」の真実の執筆者であり、最も厳しい読者でもある。心を神に向け、熟慮して書かなければならない。神のご催促である。


†花菖蒲

 五月の朝、切り花の花菖蒲の莟から二つ三つ清楚な花が現れた。私はそこに咲ききろうとする花の意志、命の力を感じた。そうでなくては、花瓶の水だけで咲くはずがない。そして、信仰を思う。信仰も命である。信仰者は、神から賜った小さな信仰の花を生涯咲かせるのである。

*******************
 
 神は羽をもってあなたを覆い
 翼の下にかばってくださる。
 神のまことは大盾、小盾。
 暗黒の中を行く疫病も
 真昼に襲う病魔も
 あなたの傍らに一千の人
 あなたの右に一万の人が倒れるときすら
 あなたを襲うことはない。
 あなたの目が、それを眺めるのみ。(詩篇九一・四、六~八)

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今月の祈り

 父なる神よ、新型コロナによる肺炎がこのまま終息しますように。六月初旬の今、我が国における感染は、なんとか山を越したようです。これは、国民の賢明な予防や活動自粛によるもので、自治体間の競争も功を奏しました。経済が活力を取り戻し、日常生活が徐々に戻ってきますように。

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からしだね第95号

からしだね 十
二〇二〇年 七月  第九十五号
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 悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(ルカによる福音書一五・七)

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救われるには

 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」看守は明かりを持ってこさせて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。(使徒言行録一六・二五~三二)
         *
 パウロとシラスはローマの植民都市フィリピ(ギリシアの北方地方)で伝道していたが、讒言によって官憲に捕らえられ、牢に入れられた。この記事は、その夜の出来事である。不思議なのは、大地震が起こって牢の戸が開いたことよりも、看守が、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」との問いを発したことである。この問いは、そう簡単に出るものではない。自分が罪深い、救われねばならない哀れな存在だということは、中々自覚できることではないからである。神の力が看守を促したのであろう。パウロとシラスは看守に答えた。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。」と。簡明この上ない言葉である。キリスト教が一言で言い表されている。ここで注意すべきは、パウロたちの言葉は、一見、信仰が救いの条件のように表現されているが、真意はそうではない。文章や言葉ではこのように表現することしかできないが、信仰は救いの条件ではなく、信仰が救いなのである。信仰して何か別のものを賜って救われるのではなく、信仰即救いなのである。信仰を賜った者は救いを賜ったのである。これは信仰を賜った者には自明のことである。さらに言えば、「自分が救われるにはどうすればいいか」という真剣な問いが或る人に起こったとき、その人はすでに救われたのも同然なのである。


悔い改めと救いは同時

 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
 主よ、この声を聞き取ってください。
 嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
 主よ、誰が耐ええましょう。
 しかし、赦しはあなたのもとにあり
 人はあなたを畏れ敬うのです。

 わたしは主に望みをおき
 わたしの魂は望みをおき
 御言葉を待ち望みます。
 わたしの魂は主を待ち望みます
 見張りが朝を待つにもまして
 見張りが朝を待つにもまして。(詩篇一三〇・一~六)
         *
 神は、闇の泥沼で苦しむ人の魂の叫びを聞きたまい、御憐れみくださる。御手をさしのべて、御子主イエス・キリストによって救ってくださる。真の悔い改めと救いは同時である。


先なるもの

 我より先なるもの、根源的なものがあって、そのお方(神、キリスト)が私という「土の器」を用いて事をなされるのである。私の人生における近年の内的、外的な出来事を顧みれば、すべて私以上の大きな意志、力が働いていることを感じずにはおられない。神(根源的な力、意志、愛)が私を突き上げ、導き、原動力となり、愚鈍な私に行動を起こさせるのである。私の意志が主ではなく、私は従である。私は自分の考えで事を起こしているようであるが、真実はそうではない。私は迫られ、為さしめられるのである。神恩キリスト教会の設立も、一見、私の恣意による企てのように見えるが、決してそうではない。この無謀な企ては、神の御決意なのである。ゆえに、為されなければならず、必ず成就するのである。教会は信徒が造るものではない。教会はキリストの体であり、キリストがお働きになるために、自らがお造りになるのである。決して人間の業ではない。人間の造った教会なら永続せず、成長しないであろう。私はキリストの御意志によって働かされ、実行させられるのみである。
 信仰にかかることは、すべて先なるもの、根源的なお方の御意志によるのである。私たちが信仰の道に入るのも、決して人間の考えや決意によるのではない。それは神の御決意、御決断、御決定によるのである。ゆえに、これほど確かなことはない。救いは明らかである。今さらながら、信仰とはこのようなもの、つまり、上からのものであると気づかせられる。朝の目覚めに、このようなことを覚らされたゆえにメモしたものである。これもまた、神のお知らせ、御啓示である。


神の導き
 
 平凡な一日などない。「平凡だ」と思うのは、その人の感度が鈍っているのである。一日一日が、一瞬一瞬が神の創造であり、私たちもその中に在って、神の創造の一部を担っているのである。眼を転換すると、新型コロナに災いされている一日ですら、冒険に満ちたスリリングな一日へと変わるのである。創造は生き生きしており、変化であり、発展であり、喜びである。感受性が鋭くなると、神が聖書を通して、また、それ以外の様々な形で、私たちに語りかけていることに気がつく。例えば、家人のつぶやき、隣人の挨拶、新聞のベタ記事はもとより、その日の体調や天気、食べ物、庭に来る小鳥、道を横切る毛虫、路傍のスミレや犬ふぐり、スーパーマーケットの特売など、要するに身の内外の大小無数の出来事すべてが神の言葉である。神はこれらの出来事を通して私たちに語りかけ、導いてくださっている。信仰のない人には偶然としか受け取れない事柄も、信の眼には神の良き導き、御業であることが分かるのである。世の中の情報に惑わされず、受信機の感度を良くし、神のメッセージを聞き逃さないようにしたい。イザヤは神の導きについて、次のように預言している。
  
 あなたを導かれる方は
   もはや隠れておられることなく
 あなたの目は常に
   あなたを導かれる方を見る。
 あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。
 「これが行くべき道だ、ここを歩け
 右に行け、左に行け」と。(イザヤ三〇・二〇~二一)

 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え
 まだ語りかけている間に、聞き届ける。(イザヤ六五・二四)
         *
 神の導きは、体験するしか仕方がないものであるが、驚くべき事実である。最近の個人的な出来事を記せば、次のとおりである。二月初めから、プロバイダの変更、パソコンの買い換え、エアコンの修理・クリーニング、広報委員の当番など、閑居の私にしては生活に多くの変化があった。パソコンの立ち上げ、ブログの開設等では旧友のSさんに手助けをいただき、ファイルの追加、エクセルやスキャナーの使い方など広報関係ではご近所のTさんにご教示をいただいた。理解・習得はこれからの課題であるが、これらに関連して、多くの気づきやヒントを得ることができた。導きは、文章に記すと平板になってしまうが、実のところ不思議としか言いようがない。すべて、主イエスの導き、お助けであると信ずる。
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ七・七~八)
         *
 主イエスの確かな御言葉である。信じて行動を起こそう。主は生きておられる。


終末のしるし

 中国の武漢に発した新型コロナが今や世界中に広まり、毎日、多くの新たな感染者と死者が報道されている。我が国においても緊急事態宣言が出され、様々の場当たり的な対策が打ち出されているが、コロナは一向に収まる気配がない。私が住んでいる四国の片田舎も例外ではなく、いつ誰が感染してもおかしくない状況である。武漢の悲惨な有様を対岸の火事として眺めていたが、気がつけば自分の尻に火がついている。呆気にとられる他ない。世界経済もリーマンショックの時以上の、未曾有の不況に陥りつつある。世の終わりが始まろうとしているのか。各国の政治家や学者、専門家はもとより、タレントや素人が硬軟様々の発言をしている。
 聖書には、終末の徴や出来事が黙示文学的に、つまり天変地異やドラマチックな表現で象徴的に記されているが、どこまでも暗示や警告に止まっている。イエスも、「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」(ルカ二一・七)という弟子の質問に対して真正面からは答えておられない。世の終わりは、父なる神のみが知りたまうことだからであろう。私たちは、無責任なデマに惑わされず、杞憂に陥らず、自分ができる用心を怠らず、一日一日を神の導きに従い、主イエスの御跡をたどっていくばかりである。必ず良き出口が見つかるであろう。むしろ、今回のパンデミックを機会に、新たな時代が始まることを期待したい。私たちは、不安や恐れに捕らわれず、希望に生きたいものである。


マイタウン
 
 四月から地域の広報委員を務めさせていただいている。当番が回ってきたのである。これまで地元のことには全く無関心であったが、事務を引き継いでみて、自分が地域のことを何も知らないことに驚いた。三十数年前、この地に住み着いたころは、大方が田圃で、ご近所は四、五軒しかなかった。今は、戸建てやコーポが建ち並び、すっかり住居地域に変わってしまった。若い家族が多いから子供も多く、伊予市では活気ある地域の一つであろう。とまれ、一年の任期である。たいしたことはできないが、町内会の下僕として仕えさせていただくのみ。これも神のご用命である。新たな出会い、新たな発見もあるはずだ。老若男女、皆共に生きる人たちである。

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 神がわたしたちを憐れみ、祝福し
 御顔の輝きを
   わたしたちに向けてくださいますように
 あなたの道をこの地が知り
 御救いをすべての民が知るために。

 神よ、すべての民が
   あなたに感謝をささげますように。
 すべての民が、こぞって
   あなたに感謝をささげますように。(詩篇六七・二~四)

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今月の祈り

 父なる神よ、地域の若い人たちを祝福してください。それぞれ仕事や子育てに励みながら、地域社会を支える中核として大きな役割を果たしています。新型コロナが一日も早く終息し、若い世代が存分に楽しみ、安心して活躍できる世の中になりますように。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
℡080・6384・8652
E‐mail masa73@gc5.so-net.ne.jp
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《読者の皆様へ》 
 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。


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からしだね第94号

からしだね 十
二〇二〇年 六月  第九十四号
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 あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。(マタイによる福音書五・一三)

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 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(マタイ一六・二六)
         *
 「命」とは、肉体的に生きているという意味ではあるまい。イエス・キリストの御言葉は、「命あっての物種」などという俗諺ではない。御言葉の言う「命」とは、私たちがこの世に生を享け、存在している理由、本分、真実であろう。それを失ったら、たとえ一国の宰相になろうと、莫大な富を手に入れようと、生まれてきた甲斐がないのである。良心をなくしてしまえば、たとえ高位高官に任ぜられようとも、生きている意味がない。これは神に指弾されて、初めて気がつく事柄である。大事なのは世間の評価ではない。神に真向かい、神から与えられた各自の小さな使命を果たすことである。キリストの御言葉に耳を傾け、その御跡に従うことである。これ以上の務めはない。


長血の女

 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。(マルコ五・二五~三〇)
         *
 この物語は、長いあいだ婦人病で苦しんでいた女性が、主イエスに救われた奇跡である。当時のユダヤ社会においては、生理中の女性は汚れた存在と見なされていたから、十二年間も出血の止まらないこの女性がいかに苦しんだかは、察するに余りある。この女性は多くの医者にかかって、ありとあらゆる治療法を試みた。財産も使い果した。しかし、病気は悪くなる一方で万策尽きたような状況にあった。そんな時、イエスの噂を聞いたのである。女性は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思い、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。汚れた身で後ろから触れるということは、社会的には非難されるべき企てであるが、女性は必死の思いでそうしたのであろう。すると、すぐ出血が完全に止まって病気がいやされたことを体に感じた。血の源(もと)が涸れて、病気が治ったのを感じたのである。

 さて、このイエスによる奇跡的な治癒の物語はいったい何を語っているのか。長血の女とは誰のことなのか。私は、ある初老のキリスト者のことを思うのである。彼は平凡な勤め人で、多くの男性と同じように仕事中心の人生を歩んでいたが、四十代のなかば頃から急に生活が乱れ始めた。仕事や昇進が順調なのをよいことに、家庭を顧みず、老親の介護を妻に丸投げし、女遊びにうつつを抜かしたのである。そのあげくに、天罰であろう。彼は、親の死に目にも会えず、大病を患い、仕事は左遷、家庭は崩壊という状態に陥った。気がつけば、お先真っ暗、何の拠り所もない。今日明日をどう生きていけばよいか分からない。そこから彼の求道が始まったのである。当時の彼には知る由もなかったが、これが神の導きだったのである。彼は長血の女のように、藁にもすがる思いでいろいろの教えを聞き歩き、あちらこちらと救いの道を尋ねたが、もとよりコトはそんな簡単には運ばない。彼が自分の罪と悪を深く知らされ、悔い改めに導かれるまでには、なお十年余を要したのである。「わたしはいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします。」(詩篇一四三・五)

 「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」(詩篇三四・一九)。彼が救われ、立ち上がることが出来たのは、御子イエス・キリストが彼の罪を償ういけにえとして十字架におかかりくださったことを、啓示によって知らされたのと同時であった。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリ五・二一)。

 イエスは救いを求める者を探してくださる。私たちが身を隠さず御前に出てくるのを待っていてくださる。このお方には何も隠すことはない。何もかも知られているのであるから、何もかもありのままに話すのである。長血の女のように、御前に進み出てひれ伏し、懺悔する彼に、イエスは言われた。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。主イエスに出会い、その愛によって彼は生まれ変わったのである。「もうその病気にかからず」という主イエスの御言葉が彼の胸に深く響いた。ひとたび主イエスの救いを賜った者は、二度と罪の虜(とりこ)になってはならないのである。私たちは、この世に肉の身をもって生きている限り、信仰の道、聖化の道を辿りつつも、どこまでも不完全な存在である。しかし彼は、自分の力によってではなく、キリストによって罪が贖われ、すっぱりと罪の根を断ち切られた。長血の女性に起ったごとく、罪の源が涸れて、病気が治ったのである。これが救いである。


神の御前に

 神の御前に生きる身とならせていただければ、他のことはどうでもよいことである。来世があろうとなかろうと、世界の終わり、キリストの再臨、最後の審判がどうであろうと、この愚身が復活しようとせまいと、さらには幸も不幸も、短命も長寿も、願いが叶おうが叶うまいが。その他何であれ、神の御心のままに、神におまかせである。私たちは神の内に、神によって生き、活動し、存在するのである。


迫害

 世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。(ヨハネ一五・一八~一九)
         *
 キリスト者に対する迫害は今日でもある。もとよりそれは、キリスト教初期のような、あるいは我が国のキリシタン弾圧のような凄まじいものではない。キリスト教が世界宗教となったおかげで、今ではキリスト者は十字架につけられたり、焼き殺されたり、投獄されたりすることはない。世界史はキリスト教の勝利の歴史である。しかし、迫害は時代と共に形を変えて続いている。例えば、ある人がキリスト教の信仰生活に入ろうとすると、まず家族が猛反対する。友人や職場の同僚、隣近所の人々からいわれなき悪口、雑言、侮辱のみならず、誹謗、中傷さえ浴びることがある。よくて変わり者として敬遠されるという具合である。「わたしは彼らの幸いを願うのに、彼らは敵対するのです。」(詩篇三八・二一)。彼らは自分が迷信や因襲に捕らわれていることに気がつかず、自分こそが正しいと信じているのである。そのくせ、彼らはクリスマスやバレンタインを祝ったり、結婚式を教会で挙げたりする。信仰が伴わないのを恥と思わないのである。その一方で、隠れキリシタンのテレビを見ると、幕府の不義と愚かさ非難するだけの見識は持っているのである。

 要するに世間がそうだからそうするのであって、彼らにとっては、「世間」つまり「世」が「神」なのである。そして、この世を支配し、人々の目をくらましているのが「世の神」つまりサタン(悪魔)である。サタンは福音に巧妙に抵抗し、あらゆる手を使ってキリスト教の邪魔をする。神とサタンは絶対に相容れないからである。誤解のないように言うが、キリスト教に反対する人々がサタンだというのではない。その人たちは自分が気づかぬ内にサタンの道具として使われているに過ぎない。キリスト者から見ると、迫害はこの世の神、サタンのなせる業である。従って、迫害されることは真の信仰の証であり、信仰が本物になってきた証拠である。悪魔と神(信仰)との戦いである。しかし、迫害にもメリットがある。迫害は信仰を試し鍛えてくれる。これを克服できなければ本物の信仰とは言えない。そして、信仰は決して負けることがない。負けているようで負けていないのである。御子イエスは十字架上に死して負けたように見えるが、復活によって死に打ち勝たれた。サタンに打ち勝たれ、天にあって父なる神と共に世を統べておられるのである。神は人類をその罪から救済するという大業を御子によって完遂されたのである。すべては神のご計画である。私たちもいろんな形で迫害を受ける。しかし、主イエスは言っておられる。「義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ五・一〇~一一)と。また、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ五・四四)と。負けるが勝ちである。私たちは、負けることを学ばねばならない。聖パウロの言のごとく、キリスト者は弱いときにこそ強いからである。主が共に戦ってくださるのである。


ブログ

 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。(ヨハネ二一・六)
         *
 このほど、旧友Sさんの指導と助けを得て、「からしだね」のブログを立ち上げることができた。感謝である。これで小さな伝道の窓が一つ開けた。細い道が通じた。これは、主イエスの言われるように、舟の右側に網を打ったことになるのかもしれない。私は取るに足らぬ者ながらも、ガリラヤ湖の漁師であったペトロやアンデレと同じく、人間をとる漁師にされているのである(マルコ一・一七)。急がずに少しずつバックナンバーを掲載し、充実していきたい。旧友のように、神に用いられて自分が気づかぬうちに神の御用をさせられる人は幸いである。その人は、知らずに神の御意志に仕え、知らぬうちに天に富を積んでいるのである。これも、わが神恩キリスト教会に対する主イエスのみ恵みである。

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 悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 主に信頼し、善を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
 あなたの道を主にまかせよ。(詩篇三七・一、三~五)

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今月の祈り

 父なる神よ、新型コロナウィルスによる肺炎が世界を席巻し、予防や医療が追いつかなくなっています。また、生活や経済が破壊されつつあります。人々は恐怖に怯えています。どうか、私たちがこの未曾有の危機を乗り越えることができますようお助けください。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
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からしだね第93号

からしだね 十
二〇二〇年 五月  第九十三号
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 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録三・六)

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受胎告知

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
(ルカ一・三〇―三五)
         *
 処女懐胎。これは人知では絶対に納得できぬものである。自然科学(医学・生物学)と神学の断絶である。神にできないことは何もないのだから、と処女懐胎をアタマから信じるしかないのか。無理やり受け入れるしかないのか。私の場合、キリストの十字架によって自分が救われるという体験がまずあって、この事実からイエスを神の子、キリストと信ずることができた。そこから処女懐胎を受け入れることができたのである。いかに優れた人でも、人間には他者の罪を贖うことはできないからである。ましてや、全人類をや。イエスは単なる人間ではなく、神の力、聖霊によって生まれた神の御子なのである。罪の贖いも処女懐胎も、キリスト教の根幹は人知を超えた事柄である。全能の神の御計らいである。よって、これを信ずることができるのも、自分の力ではなく神の力による。神とは、十字架とは、救いとは、啓示の出来事であって、もともと人間の分別を超えたものである。


弱いときにこそ強い
 
 コリントの信徒への手紙(Ⅱ)の第十二章に大変興味のある記事がある。パウロは十四年前に、第三の天つまり楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたという。それは、おそらく幻を見た経験であろうが、すばらしい啓示であった。「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」という。「とげ」は、パウロを痛めつけるために、「サタンから送られた使い」であるという。それが具体的に何を意味しているかはっきりしないが、パウロの肉体的な弱さや病気のことと考えられる。そこで彼は、この「使い」を離れ去らせてくださるよう、三度主イエスにお願いをした。ここから、次の本文が続く。
         *
 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
(Ⅱコリント一二・九~一〇)
         *
 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と主イエスが言われた具体的状況は記されていないが、察するに、これは主の御言葉を聞いたというよりも、パウロの「気づき」であろう。「啓示」といっても差し支えない。パウロは、サタンの使いである「とげ」のもたらす痛み、苦しみ、困難について何度も主に祈る中で、次のようなことを「はっと悟った」のであろう。信仰生活や伝道生活は、自分の力に頼ってやるものではない。自分は弱くてよいのだ。無力でよいのだ。自力に頼むからこそ行き詰まる。他と競争する必要はない。弱さのままでよいのだ。伝道や宣教の主体はイエス・キリストなのだ。自分は土の器にすぎない。自分は主に用いられるままにおまかせすればよいのだ。強くなって、自力で何事もやろうとすることが、主イエスのお力を妨げていたのだ。自分というものが空っぽになればなるほど、主がお働きになるのだ。パウロはそのことに気づいたのである。そして、「わたしは弱いときにこそ強い」と自分の弱さを喜び誇ることができたのである。自分の無知、無力を思い知らされ、自分がまったく頼りにならない、当てにならない存在であることが分かった時、つまり、自分が無になった時こそ、神の御働きが十全に現れるのである。これはパウロにとって、ダマスコでの回心後の大きな経験であったろう。またそれは、今日の私たちをも慰め、力づけてくれるものである。私たちは何か事をやろうとしても、すぐに行き詰まり、自分の無能、無力、弱さを嘆くが、自分の力によって事が成るのではない。善きことはすべて神が私という土の器を用いてなさるのである。伝道は神の御業である。私たちは弱いままでいい。行き詰まったときこそ、神がお働きになられる。何がどうなろうと、神にまかせまいらせるのである。


神の導き

 「わたしが、先祖に与えると誓った地、イスラエルの土地に導き入れるとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分を汚したすべての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる。お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」と主なる神は言われる。(エゼキエル書二〇・四二~四四)
         *
 エゼキエルは、紀元前五九八年の第一次捕囚でイスラエルからバビロンに連れて来られた捕囚民の一人で、祭司であった。彼は捕囚地バビロン(現在のイラク中部)において主の顕現に接し、預言者としての使命を与えられた。預言者とは、神によって召され、国家や民族の危機に際して、神の警告やメッセージを支配者や民に伝えた人たちである。しかし、王や支配階級はもとより民も預言者の声に聞き従わなかった。いつの世も、真実を語る者は敬遠され、嫌われるのである。前掲の聖句は、預言者エゼキエルがイスラエルの長老たちに告げた主なる神の言葉で、紀元前五九一年のことである。捕囚民の長老たち数人が主の御心を問うためにエゼキエルを訪ねてきたのである。イスラエルの民は出エジプト以来、主なる神に導かれてきたが、パレスチナに定住するや主に背いて偶像を礼拝し、掟を守らなかった。主はこれを憤られ、ついにバビロニアによってエルサレムを攻め滅ぼされた。しかし、主は後に、御自分の民への愛ゆえに、先祖への誓いのゆえに、イスラエルの民を赦し、捕囚から解放して再びパレスチナに導き入れてくださるのである。
         *
 主よ、あなたは御自分の地をお望みになり
 ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。
 御自分の民の罪を赦し
 彼らの咎をすべて覆ってくださいました。
 怒りをことごとく取り去り
 激しい憤りを静められました。(詩篇八五・二~四)
         *
 捕囚からの解放、そして故国への帰還、そのとき民は彼らの主を、導きの神を知るようになる、と主なる神は言われるのである。イスラエルの民のパレスチナへの帰還が適ったのは、第一次捕囚から実に六十年後のことであった。
 この預言をここに取り上げたのは、二六〇〇年前の神の言葉が、現在の私たちにそのまま当てはまるからである。御言葉は永遠であり、現に生きて働く力である。私たちは信仰の道に入って後、それが神の御手による導きであったことを悟らされる。神がましますことを信ずるようになるのである。自分が賢かったからでも、立派だったからでもない。愚かな、悪の塊であり、つまらぬ、取るに足らぬ自分が、人生の行き詰まりの果てに、神の憐れみによって一方的に救われたことを知らされるのである。新約の民である私たちは、旧約の民とは異なり、イエス・キリストの十字架を体験することによって救われる。そして、過去の自分の罪や犯した数々の悪を思い知らされ、自分を嫌悪するようになる。悔い改めである。ここから信仰生活が始まる。


サマリアの女

 イエスはサマリアのシカルという町に来られ、旅に疲れて一人で井戸のそばに座っておられた。そこへ、わけありの女が水をくみに来た。イエスはその女に「水を飲ませてください」と声をかけ、そこからイエスと女との対話が始まる。イエスは御自分の言うことを信じさせるため、女の素性を言い当てる。
         *
 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたはありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」(ヨハネ四・一六~一九)
         *
 この井戸端において、イエスは、「永遠の命に至る水」について教えを語られた(今回は省略)。しかし、サマリアの女はその事よりも、恥ずべき過去を図星されたことに驚き、水がめをそこに置いたまま町へ行って人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」(ヨハネ四・二九) 
 私たちは、イエスの御言葉や詩篇の聖句などによって、サマリアの女のごとく自分の罪や悪を暴かれ、恥ずべき過去を思い知らされ、丸裸にされてしまうことがある。否、自分が知らずに犯して来た数々の悪や、無意識のゴミ箱に捨てたはずの恥辱さえ示される。神は、頑是ない子供を諄々と諭すように、聖書の読むべき個所を次々にお示しになり、私たちの罪、過ちを明らかにされる。まさに神の指、聖霊の御働きである。そんな時、聖書は神の言葉であり、私たちは神の御手の中にいるのだとつくづく思わされる。神の御言葉によって打ち砕かれ、そこから回心へと導かれる人は幸いである。聖書は他人事ではなく、自分のことが書かれているのである。また、そう読まなければ、聖書を読んでも詮方ない。

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 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
 主よ、この声を聞き取ってください。
 嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
 主よ、誰が耐ええましょう。
 しかし、赦しはあなたのもとにあり
 人はあなたを畏れ敬うのです。
 
 わたしは主に望みをおき
 わたしの魂は望みをおき
 御言葉を待ち望みます。
 わたしの魂は主を待ち望みます
 見張りが朝を待つにもまして
 見張りが朝を待つにもまして。(詩篇一三〇・一~六)

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今月の祈り

 主よ、私たちがお互いに、他の人々の罪や間違いを責めるのではなく、自分の罪やおごり、至らなさに気づくことができますように。かたくなな私をどうかお導きください。

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からしだね第92号

からしだね  十
二〇二〇年 四月  第九十二号
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心の清い人々は幸いである、
その人たちは神を見る。(マタイによる福音書五・八)

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ロトの妻 (創世記一九章)

 神は堕落と背徳の町ソドムとゴモラを滅ぼす決断をされた。しかし、神はアブラハムを御心に留めておられるゆえに、彼の甥のロトをソドムから救おうとされた。ある夜、ロトの家に泊まった二人の客人、実は、彼らは御使いであった。彼らは、自分たちがこの町を滅ぼしに来たことをロトに告げ、身内の者を連れてこの町からすぐ逃げるようにと言った。ロトは嫁いだ娘たちのところへ行ってそのことを話したが、婿たちは本気にしなかった。夜が明けるころ、御使いたちは、「さあ、早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町の巻き添えになってしまう」とロトをせきたてた。彼らが町外れまで来たとき、御使いたちは言った、「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。さもないと、滅びることになる」。ロトたちがやっと目指す小さな町まで逃れたとき、神はソドムとゴモラの上に天から硫黄の火を降らせ、町と住民をことごとく滅ぼされた。そして、何ということか。ロトの妻は後ろを振り返るなという神の戒めに従わず、途中で後ろを振り向いたので、塩の柱になってしまった。
 旧約聖書のこの物語は、信仰生活をいとなむ今日のキリスト者への教訓でもある。罪に染まった町、ソドムとゴモラとは他でもない、今日の我が国である。原発の重大事故を一向に反省するでなく、ギャンブルなら何でも揃っているこの日本に更にカジノを作ろうとする。人々は損得と享楽の追求に走り、政府は腐敗して無責任極まりない。マスコミも批判精神を失った。このような国に神が審判を下さぬはずがない。天から硫黄の火が降らぬはずはない。
 このような曲った世にありながら、キリスト者の生活は、一日一日が神の国への旅路である。神の御旨に沿い、主イエス・キリストの御跡に従う生活である。信仰とはただそれだけなのである。ロトの妻は、残してきた財産であろうか、この世に未練があって振り返った。悪徳の町は、それに引かれる者には美しく見えるのである。キリスト者は、損得、強弱、美醜といったこの世の価値にもはや惑わされることなく、永遠の命の国を目指して歩んでいるはずである。お互い、執着心を捨て、塩の柱にされないようにしたい。
 「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ五・四~五)


真の幸い

 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ十一・二七~二八) 
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 子や孫がもっと元気であったら、優秀であったら、美しくあったら、と願わぬ人はいない。しかし、これが欲というもので、ないものねだりである。そこには感謝の心がない。他との比較の世界にいる限り、いくら恵まれていても相対的満足しか得られない。「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」というイエスの御言葉は、比較や差別や分別の世界を超えている。ただ「神の言葉を聞き、守る」、他の一切を顧慮しないところに出たときに真の幸いがあるのである。神を信じる以外に絶対的満足はないのである。主イエスは有名な「マルタとマリア」の記事で、「必要なことはただ一つだけである」(ルカ一〇・四二)と姉のマルタに言われた。人生において大事なことはあれやこれやではない。それは、ただ一つ。妹のマリヤのように、主の御言葉に耳を傾けることである。


ヨブの苦難

 型どおりの美しい信仰から、神に選ばれたまことの信仰へと導かれる。義人ヨブは突然襲って来た災難によって悲惨な境涯に陥れられた。これは神の黙許の下にサタンが為した試みであったが、人間には知りようのない世界の消息である。ヨブは全財産とそれまでの確たる地位とをあっという間に失い、息子、娘を亡くし、妻にも見放される。さらに、全身を重い皮膚病に侵され、灰の中に座って素焼のかけらで体中をかきむしる。
        
 わたしの生まれた日は消えうせよ。
 なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
   死んでしまわなかったのか。
 せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。(三・三、一一)
        
 彼は自身に対する不当な扱いを神に訴え、神にあらがう。自分は正しいと確信していたからである。慰めるために訪ねてきた三人の友人たちは、ヨブの苦しみを理解せず、「罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあろうか。全能者の戒めを拒んではならない」と神の側に立ち、因果応報の論理でヨブを責める。ヨブの不慮の災難に同情し、憐れんでくれるはずの親しい友、その彼らが慰める振りをして苦しめる。ヨブが罪を犯したからそのような目に遭うのだ、自業自得だ、との厳しい見方をするのである。苦しみや不幸や災難は、所詮、当人以外には他人事。ヨブは自分がこのような苦境に陥ったその不条理をどこまでも神に問うのである。しかし、「神がわたしに非道なふるまいをし、わたしの周囲に砦を巡らしている」(一九・六)とあらがいつつも、神への信仰を貫き通すのである。
        
 わたしは知っている。
 わたしを贖う方は生きておられ
 ついには塵の上に立たれるであろう。
 この皮膚が損なわれようとも
 この身をもって
   わたしは神を仰ぎ見るであろう。
 このわたしが仰ぎ見る。
 ほかならぬこの目で見る。
 腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。(一九・二五~二七)

 ヨブは友人たちと重くかつ果てしのない議論を重ね、互に反論し合い、語り尽くした。そして最後に、ヨブは苦しみのどん底で神に出会うのである。嵐の中に神が顕現し、神はその御言葉の力と権威でもってヨブを圧倒する。神の御業は人間の理性や知性をはるかに超えた驚くべきものであることを、ヨブは改めて思い知らされ、その御前にひれ伏す。

 主は嵐の中でヨブに答えて仰せになった。
 
 これは何者か。
 知識もないのに、言葉を重ねて
 神の経綸を暗くするとは。
 男らしく、腰に帯をせよ。
 わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
 
 わたしが大地を据えたとき
   お前はどこにいたのか。
 知っていたというなら
   理解していることを言ってみよ。
 誰がその広がりを定めたかを知っているのか。(三八・一~五)
        
 神に選ばれるということは、このようなことである。神を愛する者、否、愛される者は、神に徹底的に打ち砕かれるのである。「地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを、すべての罪のゆえに罰する。」(アモス書三・二)とあるとおりである。神を求めること、神に選ばれることは恐ろしいことである。何よりもキリストの十字架がそれを表わしている。まことの信仰の道は安易にたどれるものではない。それは神に選ばれた者のみが歩む道である。だから苦難は当たり前である。しかし、その苦難は神がお引き受けくださり、神が忍耐してくださるのである。この論理は通常の論理ではない。ゆえに信仰者は世に理解されなくて当然である。

 ヨブは主に答えて言った。
 
 あなたは全能であり
 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
 「これは何者か。知識もないのに
 神の経綸を隠そうとするとは。」
 そのとおりです。
 わたしには理解できず、わたしの知識を超えた
 驚くべき御業をあげつらっておりました。
 「聞け、わたしが話す。
 お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
 あなたのことを、耳にしてはおりました。
 しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
 自分を退け、悔い改めます。(四二・一~六)
         
 ヨブは神の顕現によって、その圧倒的な御言葉と御力によって、ぺしゃんこにされ、頭の上げようがなくなった。己の無知と分限を知らしめられた。これが救いである。彼は塵と灰の上に伏し、自分を退ける。友との論争の中で自己の義(ただしさ)を主張し、神にあらがったことを悔い改めるのである。しかし、痛悔は最も甘美なる瞬間でもある。ヨブはもはや何も要らなくなった。全能なる神にまみえることができたのだから。救いは逆説である。安易な考えで信仰に手を出すべきではない。まことの信仰とは美しい、きれいごとではない。神に強いられ、導かれて歩む苦難の道である。ヨブは神に選ばれた者であり、また最も神に愛された者である。ゆえに最も重い苦難に遭わねばならなかったのである。真理は逆説であるばかりでなく、因果応報の論理を超えている。神の顕現、神との出会いにおいて、ヨブはそのことをはっきり自覚せしめられたのである。

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 主に向かって歌い、ほめ歌をうたい
 驚くべき御業をことごとく歌え。
 聖なる御名を誇りとせよ。
 主を求める人よ、心に喜びを抱き
 主を、主の御力を尋ね求め
 常に御顔を求めよ。
 主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を
 主の口から出る裁きを心に留めよ。(詩篇一〇五・二~五)

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自主返納

 昨年末に運転免許証を自主返納した。五十年間無事故無違反である。今年一月に七十三歳になったばかりなので少し早いのであるが、実は、もう二十年近く車を運転しておらず、運転すれば事故の元であるので、免許を返納したのである。退嬰的なようではあるが、遠くへは汽車か電車で、日用は電動アシストの自転車で事足りる。いろんな家庭の事情に加え、近年は視力も衰えるなどして、自ずからこのような暮らし方になってきたので、これも神のお導きであろう。唯一の資格もなくなり、老躯の始末の他にもはや残るものはない。
 体は正直である。老いによる体の衰えはまぎれもない現実である。アタマはいろいろと別の理由をさがし、言い逃れをしようとするが、事実はごまかせない。病も老いも、体の方から教えてくれるのである。それによってやっとアタマが気づく。神は事実をもって教えてくださるのである。

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今月の祈り

 父なる神よ、あなたのみ光によって私たちは自分の罪を知らされます。私たちをまことの悔い改めにお導き下さい。主イエスよる救いの恵みをお与えください。アーメン。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
[電話]080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。
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からしだね第91号

からしだね  十
二〇二〇年 三月  第九十一号
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 祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。
 そうすれば、そのとおりになる。(マルコによる福音書一一・二四)

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カナの婚礼

 ヨハネ福音書の第二章に、瓶の水がぶどう酒に変わった奇跡が記されている。それはガリラヤのカナという村で婚礼があった時のことである。イエスは母や弟子たちと共に婚礼に招かれていたが、宴の途中でぶどう酒が足りなくなった。イエスは、母のとりなしに応え、召使いたちに百リットルも入るような大きな水瓶六つに水を満たさせ、それを世話役のところへ運ばせた。すると、瓶の水はすべて良いぶどう酒に変わっていた。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」と聖書は語る。 
 この奇跡は何を物語るのであろうか。いろんな読み方があってよいのだが、私は次のように受け止めたい。すなわち、大きな瓶の水とは私たちのことであり、イエス・キリストを、特にその十字架の罪の贖いを信ずる信仰によって、何の変哲もない私たちが聖なる者へと変えられていく。この不思議が、神の業がここに記されているのである。これ以上の奇跡はない。変わるはずのないものが変えられていく。自分の力や努力によってではない。信仰の力によるのである。これは信仰者の実体験であり、真のキリスト者は傍目には分からなくとも実に奇跡的な人生を送っているのである。
 イエス・キリストは御言葉による教えのほかに、数多くの奇跡をなされた。それらの伝承はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書に記されている。詳細は省くが、それらの出来事は、当時においてもまったく驚くべき出来事であった。「それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた」(マルコ五・四二)とある。しかし、最大の奇跡は、私たちがキリスト者となり、主イエスのみあとに続く者とされたことである。まさに、瓶の水がぶどう酒に変わりつつあるのである。このことは、キリスト者となった誰もが抱く実感ではなかろうか。
 
 上記のぶどう酒の奇跡に関連して、思いつく断片を記してみたい。仏典の言葉と錬金術についてである。これらはキリスト教とは異なった領域にありながら、人間の聖化、変容という点で通底するものがあるからである。
 周知のとおり、中世には錬金術が盛んであった。卑金属を金や銀などの貴金属に変化させようと様々の実験がなされ、もとより成功はしなかったのだが、これが後の化学の発達を促した。この錬金術に新たな意味を見つけたのが、分析心理学で有名なユングである。ユングは深層心理、つまり人間の無意識を研究する中で、錬金術師は単に物質的な金を作ることではなく、自分の精神を変えることにも関心を向けていたのだと洞察した。より高次の人間への変容である。ユングはそれを個性化や自己実現という彼独自の理論へと発展させていったのである。
 仏典には能令瓦礫変成金(のうりょうがりゃくへんじょうこん)という言葉がある。瓦礫(がれき)のようなつまらぬ物を、この上なく高貴な金に変えしめる、という意味である。つまり、取り柄のない私たち、石、瓦、礫(つぶて)のごとき我らが仏力によって高貴な人間に変容せしめられることを言う。これもまた、人間の聖化を表わしている言葉である。


アスペルガー

 二〇一九年六月、七十六歳の父が四十四歳の長男を包丁で刺し殺すという悲劇が引きた。父親は元農水次官という超エリートである。長男はアスペルガーという発達障害で、中学時代からいじめを受けて社会にうまく適応できず、大学時代までの七年間にわたり家庭内暴力を続けていた。十年以上前に長男は実家を出たが、事件前の五月下旬に実家に舞い戻り、両親と同居したばかりであった。この間、父親はこの長男の自立のために、献身的な世話や支援をしてきたのであるが、息子はひきこもり状態で、父や母にひどい暴言や暴力を繰り返していた。妹はこの弟のことが原因でいくつも破談になり、数年前に自殺した。また、母親はうつ病となり二〇一八年十二月に自殺を企てたが、未遂に終わった。父親は、同居を再開したものの、その翌日に息子から暴行を受け、恐怖感から殺害を考えるようになった。事件の日、この長男は隣接する小学校の音がうるさいと激昂し、父親は長男が何かしでかすのではないか、また、自分が殺されるのではないかと非常な恐怖をおぼえ、とっさに包丁を取りに走った。以上が報道等から知り得た事件の概要である。
 
 八〇五〇問題という現代日本を象徴する事件である。父親殺しはギリシア神話のオイディプス王や仏説観無量寿経の阿闍世王の物語が有名であるが、今回の子殺しは現代の悲劇である。父親と同世代の私は、この出来事をとても他人事とは思えない。発達障害、ひきこもり、家庭内暴力、いじめ、虐待など、人の目につきにくい、解決困難な事柄が一見普通の暮しに隠れているのが、豊かなはずのわが国の高齢社会の実態である。
 十二月十六日、被告は東京地裁の裁判員判決で懲役六年(求刑懲役八年)の実刑判決を受けた。判決は「被告の犯行は体格の大きい長男を三十カ所以上傷つける一方的なもので、被告の『殺すぞと言われてとっさに包丁を取った』という話は信用できない」とし、ひきこもる長男を長年支えてきた事情を考慮しても、弁護団が求める執行猶予にはできないとした。何しろ殺人事件である。医療機関はもとより福祉事務所や警察など関係機関にもっと相談すべきであったという裁判官や裁判員の意見もあった。もっともな意見であり、立場上そう言わざるを得ないのであろうが、精神の発達障害やひきこもりの実態を知らない人の、常識的な見解のようにも思える。この長男のようなケースの場合、公的機関や医療機関がどの程度機能するか、頼りになるか、経験者ならよく知っている。
 
 今回の事件のように、ひきこもりや発達障害に家庭内暴力が伴うのは最も解決困難な問題の一つである。アスペルガーにも程度の違いがあって、一概には言えないが、当人は、社会に適応できない被害者意識でいっぱいの、いわば手負いの獣のような存在である。欲求不満や生き難さからくる攻撃性を、自分を支えてくれている家族に向けるのである。暴言を吐き、暴力をふるい、癇癪を爆発させるのである。それがどれほど家族を傷つけ、苦しめるか。自分が家族への加害者であり、不幸の原因であることを彼らは理解できないのである。このような「大のおとな」を抱えた家族の苦難、悲惨、忍耐は、体験した者でないと到底分からない。これが父親の限界を越えたからこそ今回の事件が起こったのである。アスペルガーやひきこもりの実態を知らないで、被告をさらに鞭打ち、裁き、責めるのは酷というものであろう。この問題の遣り切れなさは、有効な解決策が見出せないところにある。精神障害は病気と違って治らない。言い聞かせたり、なだめたり出来る相手でもない。本人も家族も共に助かる道はないのであろうか。
 
 今回の事件の予備軍は、身の回りにもいっぱいいるのではなかろうか。被告は、私たちを代表してこの恐ろしい罪を犯したのではなかろうか、とさえ思うのである。とはいえ、被告の罪はあまりに重い。被告に同情はしても、殺人は決して赦されるものではない。「殺してはならない」は「モーセの十戒」の第六戒である。被告の長男にも当然ながら生きる権利がある。彼は彼で、健常者よりもはるかに生きづらい世の中を必死で生きていたのである。長男も被告も私たちも、神がお造りになった神の命を共に生きているのであって、だれもその命を奪うことは許されない。
 十二月二十日、被告は裁判確定までの間、保釈が認められた。地裁には退けられたが、被告が高齢であること、逃亡の恐れがないことなどから、東京高裁によって認められたのである。殺人犯の保釈は異例のことだという。情状酌量の結果であろうが、せめてもの慰めである。
 なお、十二月二十五日、被告は懲役六年の一審判決を不服として控訴した。被告の弁護団の出したコメントの要旨は次のとおりである。「判決には事件に至った経緯・動機について、量刑に大きな影響を及ぼす事実誤認がある。事実に基づいた適切な判決に服することが本当の償いになると申し上げ、本人の了解を得て控訴に至った」(二〇一九年十二月二十六日の朝日新聞)。控訴は、本人の意志というよりも弁護団の主導のようだ。確かに、この事件の審判は、一審のみで終わらせるべきではない。事件の背景を国民一人ひとりがよく考え、議論を尽くすべきであろう。「裁判は神に属することだからである」(申命記一・一七)。
 
 私たちは、アスペルガーのような発達障害者との共生の道を探さなくてはならない。しかし、その道はまだ見出せていない。ここで、私は神に頼らざるを得ない。キリスト教は愛の教えである。「神は愛」(Ⅰヨハネ四・八)だからである。主イエス・キリストは、「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ一二・三一)と教えられ、さらに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである」(マタイ五・四四~四五)と言われた。まして、家族ならなおさらである。たとえ、それが家庭を破壊するような者であっても。キリスト者は、自分が傷ついても愛を貫かなければならない。神に祈りつつ、うめきつつ、神の導きを信じ、一日一日を耐え忍んでいく。イエスは言われた、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ九・二三)と。苦難の道であろうと、それは主が共に歩んで下さる道である。しかし、信仰のない人たちはどうすればいいのか。


聖家族

 聖家族とは、幼児イエスと聖母マリアおよび聖ヨセフの三人の家族をいう。美しいキリスト教絵画のテーマでもある。私たちは聖家族という言葉から、ガリラヤの田舎のつつましい、平和な家庭を思い浮かべ、一つのあこがれを抱く。それで間違いはないのだが、私は戦後まもない我が家を思い出すのである。父は貧しい左官職人で、母はその足らざるところを呉服物の行商で補った。みすぼらしい場末の借家で、私たち兄弟姉妹四人を養ってくれたのである。貧しくとも幸せであった。キリスト教徒ではなかったが、そこにこそ聖家族が実現していたのだと、今にして思うのである。私がこのように言うのを、その僭越を、神はお赦しくださるであろう。聖家族はどこか異国の話ではあるまい。王侯や富者の宮殿や豪邸ではなく、親子で囲む一家団らんの小さな食卓こそ、聖家族のあかしであろう。そこに神の祝福があるのである。だからそれは世界中、至るところにあるはずである。神はその規範をナザレの家族でもってお示しくださったのである。

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 天は神の栄光を物語り
 大空は御手の業を示す。
 昼は昼に語り伝え
 夜は夜に知識を送る。
 話すことも、語ることもなく
 声は聞こえなくても
 その響きは全地に
 その言葉は世界の果てに向かう。(詩篇一九・二~五)

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今月の祈り

 御父様、若い夫婦が互いに相手を大切にし、子供たちを慈しみ、虐待やDVのない愛の溢れた家庭を築くよう、お導き下さい。貧しくとも平和で温かい、小さな家族を祝福して下さいますように。主イエス・キリストの御名によってお願い申し上げます。アーメン。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
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《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。
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