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からしだね第81号

からしだね  十
二〇一九年 五月 第八十一号
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心の貧しい人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。(マタイによる福音書五・三)

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イエス・キリスト

 人間の知恵や分別では届かない領域がある。それは神にゆだねるしかない。キリストが私たちと同じ人間なら、その御言葉や御業を信じることはできない。この世の現実や歴史が示すとおり、いくら優れた人でも罪があり、誤りを犯すからである。しかるに、キリストは神の御子である。神と本質を同じくするお方である。私たち人間とは本質的に異質のお方である。そのお方を信じるのである。そのお方の御言葉と御業を信じるのである。救いと啓示を信じるのである。つまり、福音を信じるのである。これがキリスト教である。少しも無理はない。


願い

 父なる神は、主イエス・キリストの願いなら何でもかなえてくださる。ゆえに、私たちも、主イエス・キリストのみ名によって御父に願うのである。イエス・キリストにあって願うのである。そのとき、私たちの願いはキリストの願いとなる。ゆえに、神はその願いをかなえてくださるのである。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」(ヨハネ一四・一三)。「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ一六・二三~二四)


言(ことば)

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ一・一~三)。ヨハネ福音書の初めの部分である。難解である。というより、考えて分かることではない。神の啓示だからそのまま受け取るしかないのである。ヨハネ福音書、特にその序文は啓示そのものである。これを理解し尽くすことは人間にはできない。おおよその意味を把握できればそれでよしとすべきである。この先在の「言」が肉体をとって、私たちの世界に現われてくださったのが、イエス・キリストだとされている。神の御子、キリストは神と同質のお方なのである。ところで、初めの聖句に戻って、「言(ことば)」を例えば「神の御意志」として理解してはどうか。私たちは神によって造られ、保たれ、生かされている。神は私たちの命(の源)である(使徒一七・二四~二八参照)。その私たちを成り立たせている命そのもの(神)を、私たちは対象として客観的に知ることはできない。それは眼がその眼を直に見ることができないのと同じである。よって、私たちは神(命)を啓示(または自覚)によって知ることができるのみである。私たちは神を、神が御自身を啓示してくださった範囲内においてのみ知ることができるのである。私たちは神(の御手)の中にあって生かされているのであるから、そして一瞬一瞬が神の創造であるから、私たちは神の御意志を現実生活において知ることができる。私たちを取り巻くあらゆる物事や生起する事件は、神の言である。沈黙もまた神の言である。人間の言葉は言(ことば)のほんの一部に過ぎないのである。


復活問答

 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」(ルカによる福音書二〇・三四~三八)
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 復活についてのイエスの説明である。あの世に入って復活する者は、地上の原則に支配されない。この世の者とは本質的に違ったものとして復活させられるのである。もはや死ぬことがない。地上では死が支配しているため、結婚によって子供を残す必要があるが、あの世は永遠の命。従って子を産む必要がない。イエスは聖書に基づいて、さらに復活について説明される。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」という出エジプト記(三・六)を引用し、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」から、先祖のアブラハムもイサクもヤコブも復活して今生きていると結論される。旧約聖書では復活信仰は必ずしも明らかではないが、イエスは復活を信じられた。信仰をもって死んだ者は復活して生きており、今地上で信仰をもって生きている者も、神によって生きている。つまり、人はこの世でも次の世でも神によって生きるのである。あの世に入る資格を与えられた者は、すでに永遠の命をいただき、神によって生きる生涯に入っている。
 死者の復活の根拠としてイエスは出エジプト記の『柴』の個所を挙げられたが、イエスにはその記事よりも先に、永遠の命を今すでに生きているとのご自覚があり、ご自分の命がこの世限りのものではなく、死んでおしまいではない、必ず復活するとの確信がおありだったのである。イエスは旧約聖書の記事を読んで復活はあると確信されたのではなく、復活の確信が先にあって、その根拠となる個所を提示されたのである。これは我々も同じで、その証拠に、この記事の解釈をいくら読んでみても、この言葉をいくら暗記しても、自分が復活するとの確信は出てこない。そのためには、まことの信仰を賜るより他はないのである。私たちは主イエス・キリストの十字架の贖いを信じさせていただくことによってのみ、永遠の命を賜るのである。
 「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」(ヨハネ五・二四~二五)

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 いかに幸いなことか
 主を畏れ、主の道に歩む人よ。
 あなたの手が労して得たものはすべて
   あなたの食べ物となる。
 あなたはいかに幸いなことか
 いかに恵まれていることか。
 妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木
 食卓を囲む子らは、オリーブの若木。
 見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。(詩篇一二八・一~四)

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死者の復活

 パウロは、復活のことをあれこれ心配する者に対し、Ⅰコリント十五・三五~三八で次のように述べている。「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」。パウロは死者の復活について、自分の考えを力をこめて書いている。しかし、いくらパウロが天才でも、人間の思弁には限界がある。復活について説明し切れるものではない。復活は人間の理解を超えた出来事である。だからこそ、信仰なのである。キリストに罪を贖っていただいた者、キリストの復活を信ずる者は、己が地上の人生も復活も、すべて神におまかせするのである。それがキリスト者の自由であり、平和であり、安心である。律法や罪はもとより、様々の疑問や煩いからの自由である。信仰者は日々、目の前に来たことを処理して生きればそれでよいのであって、死後のことをとやかく心配するのはキリスト者ではなかろう。


鉛の十字架

 主イエスは私たち一人一人のために十字架を負ってくださった。中でも、私の十字架が一番重かった。私のそれは、石の、鉄の、鉛の十字架だったから。お互い、いつまでもイエス様の十字架であるのをやめて、イエス様と共に世の十字架を負う者とさせていただこう。それは、多分、自ら進んでというわけにはゆかず、キレネ人シモンのように強いられてという在り方であろう(ルカ二三・二六)。しかし、それは神より賜る栄光の人生である。


灰よせ

 ばあばの骨揚げの時、アオちゃんが、「ばあばは骨と灰になったん?」と聞くでもなく一言つぶやいた。私は、六才になったばかりの幼児がそちらの方へ駆けて行かないように、その手をぎゅっと握りしめた。大人たちは総じて無言で竹箸でお骨を拾い集めている。余りにあからさまな現実に言葉がないのである。次は自分の番なのだ。否も応もない。信仰を持たない者は、特に焼き場は、身にこたえるのである。家内などは翌日も元気がなく、一日中家でごろごろしていたほどだ。こう言うと、「信仰していても結局は同じではないか」と反問する人がある。何か色好い返事はないかと、内心淡い期待を持っているのである。「答えるものか」。てっとり早く、労せずに知りたいと思っても、虫が良すぎる。答えを知りたければ、信仰、求道の道に入ることである。


その日、その時 

 私事ですが、去る二十三日に親戚の女性の葬儀があり、焼き場でお骨を拾わせていただきました。これまでにも何度か経験はあるのですが、今回は、自分がだいぶ歳をとったせいか、しかも亡くなったのが自分より年下の方であったので、より重い経験でした。死はもはや他人事ではなく、自分の足元にまで来ていることを実感させられました。「朝(あした)には紅顔あって夕べには白骨となれる身なり」これは真宗の蓮如上人の言葉ですが、真実だと思います。聖書には、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マルコ一三・三三)という、主イエス・キリストの御言葉があります。「その時」については、普通は「終末」つまり「世の終り」と解釈されていますが、私たちの「死」と捉えるともっと具体的で、切実感があります。「世の終り」などと言うと、観念的で他人事になってしまい、今日の私たちには銀河の果てのようなどうでもよい話になってしまいます。それよりも、「一日一生」の覚悟で今日を悔いのないように生きるべきではないでしょうか。

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 おとめたちの中にいるわたしの恋人は
 茨の中に咲きいでたゆりの花。
 若者たちの中にいるわたしの恋しい人は
 森の中に立つりんごの木。(雅歌二・二、三)

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今月の祈り

 天にまします御父さま、あなたとあなたの御子主イエス・キリストの福音が世の多くの人々に宣べ伝えられますように。このたび新たに立ち上げた神恩キリスト教会があなたの栄光を輝かすものとなりますように。そのために、この小さな機関誌「からしだね」を用いてくださいますように。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一愛媛県伊予市下吾川四八八―三
[電話]080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
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《読者の皆様へ》  
 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストを信じさせていただきましょう。まことの信仰による喜びの生活を求める方のご入会をお待ちします。神恩は無量です。キリスト者
は神のめぐしごです。
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(解題)「からしだね」は「くろがらし」の種子。主イエスは極めて小さなものから偉大な成長をとげる譬えとされています。

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