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からしだね第90号

からしだね  十
二〇二〇年 二月  第九十号
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 貧しい人々は、幸いである、
 神の国はあなたがたのものである。
 今飢えている人々は、幸いである、
 あなたがたは満たされる。
 今泣いている人々は、幸いである、
 あなたがたは笑うようになる。(ルカによる福音書六・二〇~二一)

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イエスとトマス

 ヨハネ福音書によると、イエスは十字架刑に処せられ死にて埋葬された後、三日目の朝、空虚になった墓の外で泣いていたマグダラのマリアにまず最初にお現われになった。復活されたのである。また、その日の夕方、弟子たちがユダヤ人を恐れて家に鍵をかけて閉じこもっていると、どのようにして入って来られたのか、イエスが部屋の真ん中にお立ちになり、弟子たちに言葉をかけられた。弟子たちは主を見て喜んだのであるが、トマスはその時いなかった。次の記事はこの場面の続きである。
        *
 十二の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」(ヨハネ二〇・二四~二九)
        * 
 疑い深いトマスは、主イエスの復活を信じられない、信じようとしない私たちの代表である。しかし、その私たちもいつの日か、「わたしの主、わたしの神よ」と叫ぶ時が来る。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と復活の主に言われたトマスのごとく。それは、慚愧の時であり、それ以上に歓喜の時である。一切の疑いが晴れたのである。
        *
 わたしたちを造られた方
   主の御前にひざまずこう。
 共にひれ伏し、伏し拝もう。
 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民
 主に養われる群れ、御手の内にある羊。
 今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。(詩篇九五・六~七)


臨死体験

 いささか旧聞に属することで恐縮であるが、二〇一四年九月のNHKスペシャル「立花隆 思索ドキュメント 臨死体験」について考えてみたい。寝つきが悪い時などに時々見る録画の一つである。
 この番組は、著名な評論家の立花隆氏が臨死体験者をはじめ、世界的な医学者や科学者、研究者を訪ねて対話を重ね、臨死体験について様々の角度から思索を進めていくという趣向である。御覧になった方も多いだろう。しかし立花氏はもとより、人はなぜ臨死体験に深い興味を抱くのであろうか。それは、臨死体験という特異な体験、つまり「死に瀕してあの世とこの世の境をさまよう体験」(広辞苑)を調べることにより、死後の世界が在るか否かを知りたいという根源的な欲求があるからであろう。ちなみに、臨死体験者は魂が肉体を離れる体外離脱などの体験によって、皆一様に死後の世界を確信し、死を恐れなくなると報告されている。それでは、肉体は死んでも、心(意識)は死なないのだろうか、という古来からの大きな問題が残る。また、臨死体験とは一種の脳内現象に過ぎないという科学者の見解も有力である。「知の巨人」といわれる立花氏は、人は死んだら心は消えるとの科学的な立場に立ちながらも、なおこれらの事柄を考え、答えを見いだそうとしている。彼は用心深く、信仰や宗教に立ち入ることを避けているようだ。

 しかし、この問題は、死ぬ時どんな体験をするかもさることながら、要するに神の存在、死後の世界があるかないか、の問題に帰するのであり、結局、医学や科学からのアプローチでは解決できないのである。人間の知恵の限界である。そして、答えはすでに何千年も前に出されているのではなかろうか。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」(Ⅰコリント一・一九)と、パウロが神の言葉(イザヤの預言)を引用しているとおりである。父なる神を信じ、主イエス・キリストによる罪の贖いを信ずる私たちには、永遠の命が約束されているのである。人は死んでもおしまいではない。これは人間の知恵ではなく、神の啓示なのである。これが信仰である。科学は万能ではない。ここが分かれ道である。そしてこれは臨死体験とは関係のない事柄である。
 臨死体験は、結局は、死に瀕したが死ななかった人のリアルな体験や記憶であり、さらに科学的に解明されればそれでよいのである。もとより、臨死体験者が死後の世界を信ずることは、私たちが言うところの信仰とは直接関係がない事柄である。


内的生活

 私はなんら為すことのない老人にすぎない。他人の眼には、私の暮しは典型的な老人の閑居にしか見えまい。確かにそうである。内的生活ということを理解しない人は、私が忙しいと言うと嗤う。外向的な人は内向的な人のことを理解できず、変人だと思うのが関の山である。私はこれでけっこう忙しいのである。しかし、説明しても無駄だからそれ以上は言わず、一緒に笑うのである。




 人生の終わりに近づいたせいか、近ごろ「道」ということよく考える。古来、人生は道になぞらえられ、宗教や哲学はもとより文学、映画、歌などで様々に表現されてきた。「道」という言葉は、私たちに 深い思いを抱かせる言葉である。そこで、いささか三題話めくが、「道」について寸考してみた。
 「僕の前に道はない、僕の後ろに道は出来る」高村光太郎の「道程」という詩の最初の言葉である。森林を鉈で切り開いていくような開拓者の気魄を感ずる。
 また、現代日本画の第一人者である東山魁夷画伯の代表作「道」は、青と緑のなだらかな野山の中を、なるい坂道が果てしなく伸びてゆく、希望を感じさせる絵である。  
 そして、芭蕉の有名な句、「この道や行く人なしに秋の暮」である。この道は、芭蕉のたたずむ夕暮れの淋しい道であり、芭蕉が人生を賭けて歩んでいる俳諧道でもあろう。芭蕉はだれに理解されなくとも、追随者はいなくとも、蕉風の確立に向けて一人行くのである。それは門弟たちには理解できぬ根源的な孤独であり、孤高の道である。
 さて、それでは今の自分にとって、「道」は、光太郎の詩と、東山画伯の絵と、芭蕉の句の、いずれに該当するのかである。正直に告白するが、老いたりとはいえ、信仰の道を拓く気概は残されており、先には永遠の命への希望の道が続いている。しかし、それは一方で、身内からも理解されることなく、ただ一人歩む孤独の道でもある。つまり、いずれも私にとって真実であり、心象風景なのである。最後に、聖書から「道」に関する聖句を紹介したい。
 
 信仰の道をわたしは選び取りました。
 あなたの裁きにかなうものとなりますように。(詩篇一一九・三〇)

信仰は生き方であり、人生であり、道なのである。そして、何よりも私たちには、イエスの御言葉がある。
 
 わたしは道であり、真理であり、命である。
 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ一四・六)

イエス御自身が道なのである。信仰者は、イエス・キリストという道をただ独り歩んで行くのである。あえて群れる必要はないのである。坦々とただ信じ、ただ生きて、ただ死んでいく。行く先は御父のもと、主イエス・キリストの御許である。


神の子は神の父

 神は、神の子を自覚した者によって、その存在を得る。ゆえに、神の子は神の父であり、神を生むのである。つまり、神の子は神によって生まれるのであるが、神はその神の子によって生まれるのである。この意味において、神と神の子は、同時存在、同時消滅、相互依存の関係にある。信仰は、究極のところ、一人一人の出来事である。


神の御苦労

 ささやかな伝道活動と信仰生活であっても、その背後にはその人の人生経験のすべてと、信仰に至るまでの苦難、苦闘がある。とはいっても、それは信者の功績ではない。信者は限りなく抵抗をつづけたのであるが、神に押し切られたのである。すべては無限なるお方の意志と力に帰せられるべきもの。苦難、苦闘は神にあったのである。信者の苦難、苦闘と見えて、実は神の御苦労であったのである。


告別の祈り

 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、
 地上であなたの栄光を現しました。(ヨハネ一七・四)。
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 イエスのこの世への「告別の祈り」の一節である。この祈りは、また「大祭司の祈り」とも言われるが、イエスはこの後、ユダヤ人に告発されて十字架につけられ、最後に「成し遂げられた」と言って、息を引き取られるのである。掲出の聖句は、私たちが人生の終わりに、父なる神に向かって語りかける言葉でなくてはなるまい。


山鳩の巣

 猫の額ほどの小さな庭であるが、毎年初冬のころ庭師に剪定してもらう。雑木ばかりなので、半日で仕上げるのであるが、今回は椿事があった。棟梁がオリーブの木の上に山鳩の巣を見つけたのである。卵が二つあるという。細い枝で隠れて見えなかったものが、刈り入れで顕わになったのだ。彼は、巣はそのままにして脚立を降りたのだが、家内がそのことを聞くや、卵を棒でつつき落としてしまった。鳥の糞で洗濯物が汚れてしまうというのである。主婦としてはもっともな意見で、反対のしようもなかったが、卵のポシャった二筋の流れが憐れであった。一抹の無力感と罪悪感が残る。何といっても命をつぶしてしまったのだ。主よ、赦し給え。

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 主に向かって歌い、ほめ歌をうたい
 驚くべき御業をことごとく歌え。
 聖なる御名を誇りとせよ。
 主を求める人よ、心に喜びを抱き
 主を、主の御力を尋ね求め
 常に御顔を求めよ。
 主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を
 主の口から出る裁きを心に留めよ。(詩篇一〇五・二~五)

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今月の祈り

 アッバ、御父さま。今日一日の御導き、御守り、感謝でございます。おかげさまで、家族一同、平穏無事に今日一日を過ごすことができました。どうか、今夜も、また明日も、御導きに与かりますように。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
[電話]080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。

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からしだね第89号

からしだね  十
二〇二〇年 一月  第八十九号
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 だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(マタイによる福音書六・二四)

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レビヤタン

 旧約聖書に出てくるレビヤタンという神話的な動物がいる。ワニ、竜、蛇のようなイメージの怪物らしい。とても人間の手に負えるようなシロモノではない。しかし、神はもっと恐ろしいお方である。レビヤタンの鼻に綱をつけ、顎にくつわをかけ、小鳥のようにもてあそばれるのである(ヨブ記四〇・二五~三二参照)。思うに、このような怪獣が世界のどこかにいるというよりも、私たちは皆、これを身の内に飼っているのではなかろうか。もっと言えば、信仰に入る前の私たちは、レビヤタンそのものだったのではなかろうか。深層心理学的に言うと、荒れ狂うリビドーであり、理性で制御できない肉的な欲望の力である。聖書の言葉で言うと、罪あるいは悪魔(人を罪に誘う者)の支配である。神はこのような私たちの鼻面を取って引き回し、打ち据え、懲らしめ、八つ裂きにされるのである。パウロは、ロマ書で自分に内在する罪について、悲痛な告白をしている。
 「たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは自分の望む善は行なわず、望まない悪を行っている。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(七・七~二四節)。
 
 パウロのダマスコ城外における劇的な回心の背後には、律法に束縛され、それを厳守しながらも、罪から逃れられないパウロの葛藤があったのである。パウロにとって、復活の主イエス・キリストとの出会いは、律法からの解放であり、罪の赦しであり、救いの出来事であった。福音であった。人は、律法によっては決して救われず、滅びるしかない。ただ主イエス・キリストの十字架の贖いによって救われる。迫害者パウロは使徒パウロへと激変した。このことが、この段落を締めくくる「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝いたします。」(七・二五)という短い言葉に込められている。嘆きから感謝への転換である。
 レビヤタンは、竜や蛇のイメージからしてサタン(悪魔)や人間の根源的な罪とつながっている。私たちが罪、つまり、神に背く得体の知れない暗い衝動から救われるためには、このオロチの頭をキリストに砕いていただくしかないのである。キリストは、そのために十字架にかかられ、蛇はキリストのかかとを砕いたのである(創世記三・一五参照)。


葬式考

 他人の葬式を心配する人がいる。余計なことである。死に際しても世間体を気にするのである。自分の生死の問題が解決できていないのに、人のことが気になる。愚かなことである。いかに豪華な祭壇であろうと、大勢の弔問客があろうと、大僧正の読経があろうと、あるいは高名な神父や牧師によって司式がなされようと、人は死ねば、その人の行くべき所へ行くのである。大臣であろうと、大学者であろうと、横綱であろうと、社長であろうと、映画スターであろうと、庶民であろうと、乞食であろうと、他に道はないのである。そしてそれは、その人の生前の生き方によって決まるのである。これを神の裁きという。
 大事なのは、自分が死後どうなるのか、死後どこへ行くのかを、今、解決しておくことである。このことさえ解決しておれば、葬式や墓などどうでもよいことである。私自身について言えば、家族と少数の友の讃美歌の他は何も必要ない。否、無理なら、それさえ必要ない。ただ一人で死ぬのみである。讃美歌は天使が歌ってくれるであろう。遺体は葬儀業者と焼き場の人が処理してくださる。骨灰は海に撒こうが、樹木の肥やしにしようが、土に埋めようが、それこそどうでもよいことである。骨や灰はもはや私ではなく、私には行くべき所があり、迎えてくださるお方がいる。主イエス・キリストは言われる、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ一四・二~三)これで十分である。これ以上のものがあろうか。


自明と証明

 創世記の初めは天地創造である。そこには何が書いてあるかというと、私たちが神によって造られ、神の命を生きているという真理である。私たちは、いかに賢明な人であっても、自分の意志でこの世に生まれてきたのではない。父母の営みによって生を享けたのである。誰もが知っているこの事実の背後に、というより根源に、神の創造行為があるのである。このことは、科学的・客観的に証明できることではなく、信知すべき事柄である。信仰によって、神から賜わる知恵によって、自明のこととなるのである。私たちが知らなくとも、認めなくとも、私たちは神によって創造され、神から命を賜って生かされている。これが神の啓示である。聖書は初めから終わりまで、神の啓示が記されているのである。
「わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊に教えられた言葉によっています。」(Ⅰコリント二・一二)


遺すもの

 子や孫たちに何を遺すか。財産や地位、家業など人それぞれであろう。無産階級の私は、こういったものを持たないゆえに、私の信じているまことの信仰を遺したい、継がせたいと思っている。折角この世に生を享けたのだから、各自が神より賜った能力や才能を生かしながら、分相応の暮らしを楽しみ、喜びのうちに人生を送ることが一番である。そのためには、まことの神を信じ、神の御前に正しい生活を送ることが大事である。平凡なことである。信仰がなければ、そこに様々の誘惑や迷いが生ずる。死を恐れ、邪教に乗ぜられるようなことにもなる。信仰があれば、死はいわゆる死ではなく、この体を離れて神とキリストのみもとへ行くことに過ぎない。まことのキリスト者は、すでにこの世にあるときから、永遠の命を生きているのである。このことが心底分かっておれば、死は恐れることでも悲しむこともない。よって信心はまた安心(あんじん)である。なにも難しいことはない。神の導きに従って生きさえすればいいのである。
 私はこのことを、とりあえず妻子や兄弟姉妹、有縁の人々に告げ知らせたいだけなのだが、信仰のことを話そうとすると一様に毛嫌いする。簡単なはずのことが極めて困難なのである。この世の人々は皆、サタン(悪魔)によって真実に目ざめることのないよう、目隠しされているのであろう。


御言葉を賜る

 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで,終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。(ヨハネ六・三八~四〇)
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 信仰とは主イエス・キリストのこの御言葉を、自分の言葉として賜ることである。それは信仰の究極であり、決して驕りや高ぶりではない。


義なる神

 この世の法律には時効制度があり、また、犯罪者が死亡した場合は刑法を適用することができない。適用しても仕方がないからである。しかし、永遠なる神の御前には時効はなく、私たちの罪や悪は、たとえ死んでも赦されない。悔い改めて神の赦しをいただくしかない。世の多くの人々は現世しか認めないから、死ねばおしまいとタカをくくっているが、果たしてどうか。来世の有様は聖書にも詳しくは記されていないが、神がいます限り永遠の世界があり、裁きがあるのである。義なる神は永遠者だからである。私たちは、そこを曖昧なままにしてこの世の生を終えるより、命のある間に主イエス・キリストの十字架を仰ぎ、赦しをいただいた方が賢いのではないだろうか。


無分別智

 神の国に入るのは死んでから後のことではない。今、ここで入るのである。信仰を賜ると、地上の暮らしが神と共に在る暮らしに変わるのである。生前であろうと死後であろうと、神がいますところが神の国である。これが私の信仰である。生前とか死後とか言うけれども、それは人間の分別に過ぎない。分別は合理的思考である。信仰は合理的思考を超えたものである。その意味で、信仰は分別智ではなく無分別智である。終末におけるキリストの再臨や最後の審判は、今ここにおける救いを黙示文学的に表現したものに過ぎない。


北斗星

 経済も健康も家族関係も、何ひとつ確かなものはない。あれこれ悩んでも考えても、どうにもなるものでもない。神にまかせまいらせるのみである。キリスト教に限っても、カトリック、ロシア正教、プロテスタントがあり、プロテスタントにはごまんの教派がある。新約聖書だけでも、四福音書、パウロの書簡、その他があって、よく読めば矛盾する点もかなりある。また、註解や解説書は汗牛充棟で、眼がつぶれるほど読んでも読み切れるものではない。たとえ読んでも到底理解しきれるものではなく、まして整合はとても図られない。まさに群盲象を撫でるで、御教えの林の中で道を見失うようなことになる。すべては神のお導き、お計らいにまかせまいらせるのみである。あれもこれもではなく、最も納得できる一つの福音書かパウロ書簡をベースに置き、その他の聖教はそれを補完するものとして読むべきであろう。自分の心にかなった一つの書があれば、それが頼るべき北斗星である。

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 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
 苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
 わたしたちは決して恐れない
 地が姿を変え
 山々が揺らいで海の中に移るとも
 海の水が騒ぎ、沸き返り
 その高ぶるさまに山々が震えるとも。(詩篇四六・二~四)

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今月の祈り

 「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。父なる神よ、「主の祈り」の第五願は、朝夕唱えがらも、守るに何とむつかしいことでしょう。私が心から人を赦すことができますように。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
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《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。

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からしだね第88号

からしだね  十
二〇一九年 一二月 第八十八号
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 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカによる福音書一一・二七~二八)

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カリスマ

 最近、ギフテッド(gifted)という言葉をよく見聞きする。知能や才能のずば抜けている人、天才のことである。数学、科学、語学、音楽、美術、スポーツなど様々のジャンルで、生まれつきの驚くべき能力を持っている人々が紹介されている。神から特別のギフトを贈られたごく少数の人たちである。これらの人々は、ある特定の分野において、子供の時から常人とはまったく異なった次元、レベルにある。人類に尽くすべく、神から特別の使命を与えられた人であろう。社会は彼らの能力を認め、彼らの才能が十分に発揮されるように支援していくことが肝要である。ギフテッドの働きによって、私たちは様々の分野で多くの恩恵を受けることができるのだから。彼らは神から人類への贈り物である。
 ところで、生まれつきの能力ではないが、信仰者には神から様々の霊的な賜物(カリスマ)が与えられる。使徒パウロは、その具体例として、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気をいやす力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力を列挙している。聖霊は望むままに、信仰者の一人一人にそれを分け与えてくださるとしている(Ⅰコリント一二・八~一一)。これらは代表的な賜物のカタログであり、この他にもいろんな賜物が聖書に記されている。霊の働きには限界がないからである。パウロはこれらの賜物を熱心に求めるように勧めているから(Ⅰコリント一四・一)、神は求める者に対し最もふさわしい賜物をくださるのであろう。問題は、これらの霊的な賜物が今日においても信仰者に与えられるか否かであるが、聖書の御言葉に有効期限はないことから、現代の信徒も既にいろんな形でその使命に応じた賜物に与かっているものと考えられる。但し、それを見分けるのも霊の眼によるのであって、信仰の無い人にはまったく知りようがない。私たちも、それぞれ分相応の小さな賜物を賜り、与えられた使命を果たしたいものである。これこそが、この世に生まれてきた、出世の本懐というものである。


神の存在証明

 神の存在を証明してくれたら信じます、と言う人がある。気の毒なことだ。信仰が神の証明なのである。神は人間の知性や認識を超えたものであるから、信仰の他に神の証明はないのである。この私に信仰が起こったことが神の存在の証明なのである。そして、その信仰はこちらからではなく、神の方から来るのである。人間の方から信じようとして手を伸ばしても、神には届かない。信仰は神より直に賜るゆえに、信仰が神の証明なのである。信仰が救いであり、アルファにしてオメガなのである。人間が神を証明するのではなく、人間が神によって証明されるのである。その愚かさ罪深さを。


「成長する種」のたとえ

 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(マルコ四・二六~二九)
        *
 「神の国」についてのたとえである。まず、「神の国」とはどういう意味か、そんな国がどこにあるのかであるが、福音書でいう「神の国」は、「場所」としてよりも「神の支配」という意味合いの方が強い言葉である。分かりやすく言うと、私たちが信仰を賜るということは、「神の支配」の中に入ることであり、「神の国」の住人となることなのである。
 不信仰の人は神の存在を認めないから、その人にとって神の国は存在しない。しかし、神を信ずるようになると、その人は「神の支配」の中に生きることになり、神が王である「神の国」の民となるのである。その人は、神の導きと護りの中に寝起きする身となる。私たちは、もともと神に造られ、神の国に暮らしていながら、「神などいない」と思い込んでいただけなのである。だから、信仰とは真実への目覚めであるともいえる。信仰者は今すでに神の国に住んでいるのである。
 
 さて、少し先走り過ぎたが、掲出の聖句は「神の国」についてのイエスのたとえである。「神の国」は、現世の国と違って地図には載っていない国であり、「神の支配」も人の目に見えるものではないことから、イエスはたとえをもって教えてくださったのである。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」とあり、農夫の耕し、水遣り、施肥などの労働は副次的なものとして省かれている。確かに、種は農夫の働きによって発芽し、発育するのではなく、種そのものが持つ生命力や自然の力によって成長するのである。この人間の力を超えた不思議な力を、「土はひとりでに実を結ばせる」と表現し、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができ、最後に刈り入れるとしている。この稿を書いている今、近所の稲田には黄金の稲穂が垂れており、刈り入れを待つばかりである。イエスの御言葉を実地に味わうことができるのである。
 イエスは、「神の国」はこの成長する種のようなものだといわれる。「種」は「神の言葉」であり、種蒔く人(伝道者)がそれを人の心に蒔きさえすれば、神の言葉はその人の内でひとりでに豊かな信仰の実を結ぶのである。その人が意識して努力や精進せずとも、夜昼、寝起きしているうちに、神を深く信ずる身とならせていただく。私たちの意図に関係なく、神は神のことをなさるのである。神の言葉はそれ自体が命であり、力であるから。このようにして、「神の国」つまり「神の支配」は、おのずから成長発展するのであって、すべては神のお仕事なのである。


終わりの時

 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く。(ダニエル書十二・二~三)
        *
 旧約聖書のダニエル書に、「終わりの時」について上記のような記述がある。これは大天使長ミカエルがダニエルに語った言葉であるが、素直にこれを読めば、これは決して世の終わりの時の出来事ではない。即今只今の出来事である。一人ひとりが今、目覚めて永遠の生命に入るか否かである。私たちは皆、欲にはさといが、神の目から御覧になれば、眠っているのである。私たちは、自分の努力と甲斐性でこれまで生きてきた、これからもそうである、と思い込んでいるが、それは全くの間違いである。神によって造られ、生かされ、神の御手の中にあることに早く気づくことである。これを般若心経の言葉で言えば、「遠離一切顛倒夢想」(おんりいっさいてんどうむそう)という。つまり、逆立ちしたものの見方をひっくり返すのである。そして、それは今である。終末とは、いつか分からぬ時間的な未来ではなく、今、ここにおいて起こる真実の出来事なのである。


神のお仕事

 神恩キリスト教会は無事成長できるか?もちろん、必ず成長する。私の力や才覚では困難であるが、これは神のお仕事である。ゆえに、必ず成長し、教会として、教団として必ず地歩を確立する。主体は神である。私は道具に過ぎない。この教会、この教団は神の御命である。神の命は永遠である。神は、海の中に道を開き、砂漠に大河を流れさせることのおできになる方。神に出来ないことはない。神は何でもおできになる。
 
 わたしの計画は必ず成り
 わたしは望むことをすべて実行する。
 わたしは語ったことを必ず実現させ
 形づくったことを必ず完成させる。
 わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。
 もはや遠くはない。
 わたしは遅れることなく救いをもたらす。(イザヤ四六・一〇~一三)

 これこそ神の励ましのお言葉である。


神に召される
          
 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。(Ⅰコリント一・二六~二九)
        *
 パウロは、ここに二つのことを述べている。その一は、信仰者となることは、神に「召される」という特別の恵みであること。つまり、主体は神であり、信者の方はあくまで受身であることである。その二は、神は、世の立派な人たちを選ぶのではなく、私たちのようなつまらぬ価値なき者を選んで、お救い下さるということである。だから、自分が偉い者だとか、賢い者だとか、力や金があるとか、うぬぼれている者は神から最も遠い者であるということになる。私たちは愚者のまま、無知、無力のまま、キリスト・イエスに結ばれて救われるのであり、愚直に信仰の道を歩むのである。


聖書を友に

 視力がだいぶ衰えてきた。網膜黄斑変性という診断である。もはや、聖書のほかには読みたい本がなくなった。テレビも見たい番組が殆どなくなったから、目のためにはちょうど良い。世の中の多くのことはどうでもよいことばかりである。少しずつ、ねずみのごとく聖書をかじるとしよう。素人は素人らしく、美味い所だけ。

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 神に従う人はなつめやしのように茂り
 レバノンの杉のようにそびえます。
 主の家に植えられ
 わたしたちの神の庭に茂ります。
 白髪になってもなお実を結び
 命に溢れ、いきいきとし
 述べ伝えるでしょう。
 わたしの岩と頼む主は正しい方
 御もとには不正がない、と。(詩篇九二・一三~一六)

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今月の祈り

 神よ、私が「主の祈り」さえ忘れてしまうほど老いさらばえても、どうか私をお守りください。私を離れないでください。無力な私を見捨てないでください。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一愛媛県伊予市下吾川四八八―三
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《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。

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からしだね第87号

からしだね  十
二〇一九年 一一月 第八十七号
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 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(フィリピの信徒への手紙四・六~七)

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狭き門

 信仰をお勧めしても、本気に受け取る人は希である。神を信じない人は、「私たちの命は今生かぎりで、死んだらすべておしまい」と心の底で思い込んでいるからである。健康、美容、投資、年金などこの世の話なら目の色を変え、聞耳を立てるが、自分が死ぬことや来世の有無については考えたくないのである。しかし、このような人たちも、死んで後の世界があると分かったら、おのずと生き方が変わってくるだろう。神を信じなさい、キリストに救っていただきなさい、などと伝道するまでもない。永遠の命に焦がれるのは誰しも同じであるからだ。
 ところで、ヨハネ福音書によると、「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(一七・三)とある。つまり、本当に来世がある、死んでもおしまいではない、と分かるのは、神とその御子イエス・キリストを知ることによるのである。そのためには、まず信仰の道に入ることが大事である。来世があることも、神・キリストを信ずることも、人間の理性や知性を超えた事柄であるから。分かってから入るのではなく、入ってから分かるのである。学びと求道の暮しを続けるうちに、啓示によって、イエス・キリストと神を知り、永遠の命を賜るのである。もとより、こちら側にそれを求める資格があるのではない。あくまで神の一方的な恵みによるのである。「求めよ、さらば与へられん」(マタイ七・七)である。そして、この求める心も賜るのである。恵みである。よって、信仰は狭き門である。「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ七・一四)


新生の秘密

 信仰とは、何かを堅く信じることとは異なる。信仰とは、新しく生まれることである。新生である。信仰を賜った人は、昨日までの自分とまったく違う人になっている。姿形はなんら変わったところはないが、人間の内実は百八十度ひっくり返っているのである。この新生のことを、回心、悔い改め、あるいは信仰と呼ぶのである。同一の事態をいろいろの観点からそう表現するのである。信仰は、人が自分の意志や力で起こしたりするものではなく、神の意志と力によって造り変えられることなのである。神の業であるから、人間は否も応もないのである。イエスの言葉によれば、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ三・三)のである。それでは、信仰を賜るとはどういうことか、どうなることか。これは体験しない限り到底分からないし、説き尽くすことのできない事柄であるが、事例としては、使徒言行録第九章に記されているダマスコ城外におけるパウロの回心が有名である。
 パウロは熱心なユダヤ教徒で、生まれたばかりのキリスト教を迫害する急先鋒であった。その彼が、キリスト信徒を見つけ出してエルサレムに連行しようとダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らし、彼は地に倒れた。その時、「なぜ、わたしを迫害するのか」という復活の主イエスの声を聞いたのである。パウロはそれから三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかったが、当地の主の弟子によって視力が回復し、洗礼を受けるに至った。まことに驚くべき出来事であり、使徒言行録にはこの出来事が、ほぼ同内容でこの他にも二か所載っている。しかし、パウロ自身は、「ガラテヤの信徒への手紙」の中で、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた・・」と、ごく簡単に述べているに過ぎない。復活の主イエスとの出会い、回心、新生、召命といった事柄は、内的な出来事であり、詳細を記すことが不可能な秘義なのである。しかし、その体験の真実性は、その後のパウロの三度にわたる長途の宣教旅行と七つの真筆書簡に遺憾なく証しされている。
 回心、獲信、救い、新生といった事柄は、妻や夫、親や子であろうと気づかない。たとえ話しても理解できない内的な出来事である。「一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」(ルカ一七・三四~三五)。人が信仰を得る、神の国に入るという出来事は、あくまで一人一人の真実の応答なのである。自分は神の国へ入れるのか、それとも取り残されるのか、二つに一つである。決して他人事ではない。


肉の尺度と霊の尺度

 わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。(Ⅱコリント六・八~一〇)。
         *
 使徒パウロの言葉は、キリストと共に生き、聖霊と共にある信仰者の真実を述べたものである。信仰者の賜った豊かさは霊の尺度によるものであり、世の人々の肉の尺度からは到底理解されることはない。信仰者の価値観と世の人々のそれとは真逆だからである。私は、このパウロの言葉に次の言葉を加えたい。「わたしたちは一人きりでいて、孤独ではなく、暇そうに見えて、忙しく、背や腰は曲っていても、心は若鷲のようである。神やキリストについて語るが、別に狂ってはおらず、行き詰っても、くじけない。人々の誤解を恐れず、理解されなくとも希望を失わない。主よ、導きたまえ!」


友よ!
         
 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。(ヨハネ五・二四~二五)
         *
 友よ、あなたはまだ神を信じられないのか。
 私は自分の言葉ではなく
 信仰の言葉を、神の言葉を語っている。
 あなたにはそれがまだ響かないのか。
 語らせるお方がなくして
 どうして語るだろうか。
 遣わすお方がなくして
 どうして訪ねるであろうか。
 書かしめるお方がなくして
 どうして書き続けることができようか。
 私は、促され、迫られて
 書きもし、訪ねもするのである。
 その内的な力を、見えない力を
 あるお方と呼ぶ。
 私を動かすものは
 人道や慈善や功名心ではない。
 私を足として遣わし、口として語らせ
 手として書かせ
 この土の器を用いて働かれる
 お方がおられる。
 あなたはそれを悟らないのか。
 私はそのお方の使いに過ぎない。
 そのお方こそ、神、主イエス・キリスト。
 そのお方に促され、強いられて
 私は心ならずも事を為すのである。


神の愛

 キリストは私の身と一つになり給い、罪と恥を共に耐え忍び、病も障害も共に苦しんでくださるのである。これがキリストの救いであり、愛であり、奇跡である。その究極は、十字架である。キリストは、私という罪人のために、この上なく尊い命を捨ててくださった。キリストは私にとって、そのようなお方である。もとよりキリストは、み心ならば神よりの全能の力をもって、即座に私たちの病を癒してくださるであろう。しかし、私たちが苦しむことが神の御意志ならば、キリストは共に苦しんでくださるのである。そして、このような神の愛そのものであるキリストを苦しめてきた張本人、敵が、他ならぬこの私なのである。神は、私たちがまだ罪人であり敵であったとき、私たちと和解するために、御子キリストを死に渡された。使徒パウロは言う、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ロマ八・三二)


無神論と偶像崇拝

 神を信じる信じないは、どうでもいいことではない。神を信じないことは悪いことなのである。「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからである。」(使徒一七・二五)。神を認めない人は、自分が限りない恵みの中に生かされていることに考えが及ばないのである。そのような人たちの辞書には、感謝や御恩という言葉が載っていないらしい。「私は無神論者です」などとインテリぶっているのは愚かなことである。無神論者などと称しながら、その実、世間の迷信や因習に捕らわれ、偶像崇拝に陥っている人が多い。
 我が国はことに宗教的に無節操で、なんでもありの感がある。しかしながら、神でないものを神として崇めるのは、偶像崇拝といって最も悪いことである。誰もが求める富、権力、地位、健康、若さ、美などは、信仰に関係がないように見えるが、執着すると偶像崇拝になる。この世の価値は、やがて過ぎ去るもの、その意味で実体のないもの、空虚なものである。墓場の向こうまでは持って行くことができないものである。私たちは貧しくとも、あくせくしなくてよい。生きて行くのに必要なものは、神がお与えくださるのである。主イエス・キリストは言われる。
         * 
 「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ六・二五~三三)

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 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
 わたしの助けはどこから来るのか。
 わたしの助けは来る
 天地を造られた主のもとから。
 どうか、主があなたを助けて
 足がよろめかないようにし
 まどろむことなく見守ってくださるように。(詩篇一二一・一~三)

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今月の祈り

 主よ、国と国が経済や領土について自国の利益を主張し、それが国民レベルでの争いや憎しみへと拡大しつつあります。相手を非難し、報復しあうのではなく、互に相手の立場を理解し、協力しあうことによって、平和と繁栄が保たれますように。国の指導者が大局的な観点に立って、関係を修復し、誤った方向へ向かうことのありませぬように。私たちが、「隣人を自分のように愛しなさい」というあなたの掟を守ることができますように。どうか主よ、お導きください。

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からしだね第86号

からしだね  十
二〇一九年 一〇月 第八十六号
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 人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。(マタイによる福音書一二・三四~三五)

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アイガモ

 今年も我が家の近くにある農業高校の実習田にアイガモの雛が入れられた。生徒による田植えが終わると一枚の田をネットで囲み、田の草取りを兼ねて放し飼いにされるのだ。毎年、二十羽ほどである。たまに幼児らが来て、パン屑を撒くと大騒ぎで奪い合う。その様子が面白いので子らが喜ぶのである。お盆過ぎの一日、粗末な小屋が取り払われると、成鳥になったカモはすっかりいなくなる。食肉として処分されるのだ。この話を初めて聞いたとき、人間の身勝手さに思わず腹が立ったが、腹を立てる方が甘いのである。冬になると、生協のカタログで鴨鍋用の鳥肉を注文するのは他ならぬ私ではないか。生きることは残酷なことである。
 私たちの生は、実に多くの犠牲の上に成り立っている。すべて神がお造りになったもの、神の命である。アイガモはそのほんの一つに過ぎない。それにつけても、と私は思うのである。神は、私のような罪悪深重のつまらぬ人間のために、独り子の主イエス・キリストさえ犠牲にしてくださったのである。心も言葉も及ばぬ神の恵みである。この真実に絶句するほかない。


真理とは何か

 イエスはお答えになった。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」(ヨハネ一八・三七~三八)
        *
 真理とは何か。それは神がいますことである。神は創造主にして、この世もあの世も、世界も宇宙もすべて支配されているのである。私たちはすっぽりと神の御手の中にあるのである。神は私たちの造り主であり、命の源であり、私たちのことを常に見守り、導いてくださっている。神は私たちが道に迷い、罪に沈み、悪にまみれて苦しみのたうち回っているのを憐れみ、子なる神、主イエス・キリストをお遣わしになられたのである。私たちが自力では到底救われぬことを見抜かれたゆえである。主イエス・キリストは人間の姿をとって私たちの世に降りたまい、父なる神の御旨に従い、御言葉と御業によって人々を教化し、ついには十字架につけられ、私たちの罪を贖ってくださったのである。しかるに、この驚くべき恵みを世の殆んどの人は知らないし、たとえ聞いても信じようとはしない。キリスト者といえども、真の信仰をお持ちの方は極めて希である。雨夜の星である。


イザヤの幻視

 イザヤ書の第六章には、預言者イザヤの召命の出来事が神秘的に、かつ恐るべき神聖さをもって描かれている。天にある御座におられる主なる神、神殿いっぱいに広がる衣の裾、飛び交い、呼び交わす六翼の天使セラフィム・・・。イザヤは見てはならないものを見、聞いてはならないことを聞いたのである。

 災いだ。わたしは滅ぼされる。
 わたしは汚れた唇の者。
 汚れた唇の民の中に住む者。
 しかも、わたしの目は
   王なる万軍の主を仰ぎ見た。

 古来、旧約聖書の世界では神を見た者は死ぬとされてきたのである。すると、セラフィム(六翼の天使)のひとりが飛んで来て、祭壇から火鋏で取った炭火をイザヤの口に触れさせて言った。
 
 「見よ、これがあなたの唇に触れたので、
 あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
 「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」
 わたしは言った。
 「わたしがここにおります。
 わたしを遣わしてください。」 

 これは預言者イザヤの幻視を伴った霊的体験であり、イザヤが賜った啓示である。召命と派遣命令は、神とイザヤ当人のみの秘義なのである。天上の消息、つまり、見えない世界の消息だから、その領域外にいる人々には理解できない。神の霊によって、つまり神からの知恵の賜物をいただいた者が、その真実を悟ることができるのである。主なる神はこの後、イザヤに告げるのである。

 行け、この民に言うがよい
 よく聞け、しかし理解するな
 よく見よ、しかし悟るな、と。
 この民の心をかたくなにし
 耳を鈍く、目を暗くせよ。
 目で見ることなく、耳で聞くことなく
 その心で理解することなく
 悔い改めていやされることのないために。(イザヤ六・一~一〇より)

 神は、初めからお見通しなのである。イザヤが派遣されて、預言しても、かたくなな民は決してイザヤの語る言葉を聞こうとしないことを。しかし、神はイザヤを通して民に語られるのである。これは何も、紀元前七〇〇年ころのイザヤの時代だけのことではない。神の御言葉に耳を傾けないのは、今日の私たち、現代人もまったく同様なのである。


「からし種」のたとえ

 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それはからし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(マルコ四・三〇~三二)
        *
 イエスは神の国をからし種にたとえられた。からし種は微小なものであるが、パレスチナにおいては、茎高は三~四mにもなるそうで、空の鳥が巣を作れるほどにまで成長するという。日本の鷹の爪などとは種類が違うのであろう。イエスが、神の国をからし種のようなものであるとたとえられたのは、その偉大な成長力を言わんとされたのである。神の国は場所的に考えるよりも、神の支配と考えた方が分かりやすい。神の支配は、具体的には、信徒の集りや共同体、教会などの形でこの世に現実化しているのである。神の御力によって、信者が生まれ、集り、共同体を形成していく。今はいかに小さな信徒の共同体であろうと、神の導きと恵みによってその成長発展は極まりないのである。信徒の力ではなく、すべて神の御力によってなされることだからである。私どもの取るに足りない神恩キリスト教会も、小冊子「からしだね」も、文字どおりその小さな粒の中に秘められた可能性を保有しているのである。


地図にない国

 信仰とは、神の国の住人となることである。この国は目に見えず、地図にも載っていないが、確かに存在する。まことの信仰者しか住むことのできない国である。信者は、身はこの世にあっても、魂は神の国にあるのである。これは当人のみが知っていることである。信仰を賜った者は、この世が仮の国であり、神の国こそが実在の国であることを知っている。彼は、いわば派遣社員のようなものであって、この世へ派遣されて来ているのである。派遣先の仕事は神の御命令であるから、この世の尺度とは異なって業務に大小や尊卑はない。また、脇役より主役の方が偉いということもない。いずれも神から与えられる小さな特命である。そして、彼は使命を終えると、元の神の国へ帰るのである。それをこの世では死と呼ぶのである。神の国は永遠の命の国であるから、この世での死は彼にとって使命の終了、任務完了という以上のものではない。彼は、現住所はこの世で本籍は神の国というよりも、二重国籍者のごとく神の国の住人のままこの世に住んでいるのである。彼にとって王は神であり、この世の大統領や首相や国王ではない。彼は、身はこの世にありながら天に属しており、地には属していない。従って、この世の富や地位や名誉は彼にとって何の意味もない。それらが無であることを彼はこの世の民に告げ知らせるのである。彼の魂は神の国にあり、日々、神の命に従っているのである。ヘブライ書に次のような言葉がある。「この人たちは、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです(一一・一三)」。この人たちとは、信仰者のことである。信仰者とは不可思議人間である。


ひきこもり

 イエスがナインという町に行かれたとき、やもめの一人息子が死んで、棺が町の人々によって担ぎ出されるところに出会われた。イエスは、その母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、棺に手を触れられ、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。       
(ルカ七・一一~一五より)
        *
 二十年以上もひきこもりの一人息子を持つ老婦人がいる。この息子がそうなったのは、それなりの理由があってのことだろうが、社会的には死んだも同然の状況にある。自立することができない、自分の力では働くことはおろか、外出もできないのである。母親の悩み、苦しみ、息子の将来についての不安は察するに余りある。これまでに医療機関や公的機関への相談をはじめ、考えられる限りのことはやり尽くしたが、何の効果もなかった。人間には限界がある。しかし、私たちの知恵と力が尽きた時こそ、神の出番である。神は、かたくなで愚かな私たちが、その御前にひれ伏して、助けを求めるのを待っておられるのである。神はそれまでの私たちの不信や愚かさをお怒りにはなるまい。私たちの肉の目には見えなくとも、復活の主イエスは生きておられるのである。その神の御子が、ひきこもりの息子に向かって、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と呼びかけてくださるのである。否、すでに呼び続けておられる。その御声が、縮こまっている不安な心に届いたとき、息子は即座に立ち上がることができるのである。あきらめずに、共に祈ろう!神にできないことは何一つない。主に助けを求めよう!

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 わたしの魂よ、主をたたえよ。
 わたしの内にあるものはこぞって
   聖なる御名をたたえよ。
 わたしの魂よ、主をたたえよ。
 主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
 主はお前の罪をことごとく赦し
 病をすべて癒し
 命を墓から贖い出してくださる。
 慈しみと憐みの冠を授け
 長らえる限り良いものに満ち足らせ
 鷲のような若さを新たにしてくださる。(詩篇一〇三・一~五)

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今月の祈り

 主よ、多くの人々が罪無くして様々の病で苦しんでいます。ついに、難病との戦いよりも安楽死を選ぶ人さえ現れました。どうか御父さまとあなたの御力によって、医薬の格段の発達を促してください。あらゆる病が、根本的に治る日が一日も早く来ますように。また、私たちが病に負けず、賜った命を生き抜く力と気力を与えてください。

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からしだね第85号

からしだね  十
二〇一九年 九月 第八十五号
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一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書一二・二四)

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聖書には何が書いてあるか

 これは、聖書をお持ちでない方のために書いているのであるが、聖書には、旧約聖書と新約聖書が収められている。分量は、手もとの新共同訳で見ると、旧約聖書が一五〇二ページ、新約聖書が四八〇ページで合わせて二〇〇〇ページ足らずである。一冊の書物としてはかなり厚いが、一巻のみであるから、大した分量ではないとも言える。
 旧約聖書の内容は大きく、律法、歴史書、預言書、諸書に区分され、その区分ごとに多くの書物が収められている。新約聖書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四福音書、パウロ書簡、その他の書簡等からなる。聖書は神の言葉と言われるように、一つ一つの書物が、質の高い、豊かな内容を持っており、聖書に優る書物はないと言っても過言でない。 
 では、結局のところ、聖書には何が書いてあるのかというと、他でもない。私たちの救いが記されているのである。神によって創造された私たちは、神に背いて罪の身となり、楽園を追放されているのである。創世記の「アダムとエバの失楽園」は、実は、私たちの神無き暮しを表わしているのである。他人事ではない。しかし、神は私たちを見放されたのではなかった。神はエデンの東に住む私たちに、モーセの律法(掟)を与えて養育し、多くの預言者を遣わして導き、最終的に主イエス・キリストの「死と復活」によって私たちの罪を赦し、再び神のみもとで暮らせるようにしてくださったのである。これが私たちの本来あるべき姿であり、救いなのである。聖書を読むのは、こういったことを知識や教養として学ぶのではなくて、私たちが信仰によって本当に救われ、神の子として生きるようになるためなのである。


信仰の父 

 アブラハムは、神の言葉に従って、それまで住んでいたユーフラテス川上流域からカナン(パレスチナ)地方に向けて旅立った。妻のサラと甥のロトを連れ、財産をすべて携えて、全く見知らぬ地へと向かったのである。何の保証も当てもない。行き先も知らない。ただ主なる神の言葉だけを信じてのことである。ここからイスラエルの祖アブラハムの冒険に満ちた物語が始まるのである。彼は神の呼びかけ(召命)に従順に従い、大いなる人生を送ったことから、後に信仰の父と呼ばれるようになった。このアブラハムの出来事は今から三〇〇〇年ほど前のこととされるから、現代に生きる私たちには、何の関係もない物語のようであるが、そうではない。遊牧のアブラハムの時代も、グローバルな高度情報社会の現代も、神の呼びかけは変りなく続いているのである。
 実は、アブラハムとは私たち一人一人のことなのである。神の呼び声は、神より賜る使命であり、約束である。私たちの心底に響く内なる呼びかけに「ハイ」とお応えするのが信仰なのである。何もかもあらかじめ分かってから信ずるのではない。それなら信ずる必要はない。その意味では信仰は、一種の賭けである。神の言葉を信じて、行き先も知らずに出発したアブラハムのように、ただ神の導きを信じて信仰生活に入るのである。まさに、この拙文を呼んで下さっているあなたを、今、神がイエスを通して召して下さっているのである。「わたしに従いなさい」(ルカ五・二七)と。あなたはそれにどうお答えするのか。パスカルは信仰に賭けたのである。創世記一二・一~五参照。


罪人が招かれる

 「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ五・三二)。
         *
 イエス・キリストの救いの目あては罪人(つみびと)であった。罪人とは、刑法に触れるような犯罪人のことではなく、神の掟(モーセの律法)を守らない人々のことである。イエスは、厳しく細かい律法を守ろうにも守ることのできない、無学で生活に追われている「地の民」を先ず救いの対象とされた。具体的には、ローマ帝国の下請として嫌われていた徴税人、人々から除け者にされ、虐げられていた重い病人や障害者、遊女など、弱く貧しい、社会から見放された下層の人々である。このような人々に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ一・一五)とまず呼びかけられたのである。では、自分を「正しい人」と信じていた当時の上・中流階級の人々はどうだったかと言うと、確かに表面的・形式的に律法を守りはしたが、律法の精神にかなうものではなかった。従って、彼らは罪人を軽蔑していたものの、彼らもまた神の目から御覧になると罪人であった。「罪」とは道徳的過失ではなく、「神への背き・神への反抗」のことだからである。そうすると、人はみな罪人ではなかろうか。聖パウロが、「ローマの信徒への手紙」に、「正しい者はいない。一人もいない」(三・一〇)と書いてあるとおりである。
 
 ひるがえって、今日の私たちのことを考えてみよう。世の多くの人は、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われても、「私には罪はない。悪いことをしたこともない。人にとやかく言われる筋合いはない、世間に対し立派に生活している」と思い、他人事のように聞き流してしまう。自分は「正しい人」であり、「罪人」ではないという自負があるのである。しかし、それは自分の価値判断と尺度によるのであって、神の御目にはそうは映っていない。神はこう言われる。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ四六・三~四)。不信仰の生活を送っている人は、神の恵みによって生かされていることが分からず、自分の力と甲斐性で生きてきたと思っている。いくら世間的に立派な人でも、道徳的に優れている人であっても、このような人は、自分中心の傲慢な己の姿が見えていないのである。神に造られ、守られ、育まれてきたことを認めないのである。これこそが最大の罪である。恩知らずである。

 実は、自分が罪人であり、救われない人間であることを知らされた時こそ、神の光に照らされているのである。ゆえに、罪人からまず救われるのである。パウロは、ファリサイ派という指導者階級の一員で、律法に関しては非のうちどころのない者と自負していたのであるが、その彼が、回心後は、「わたしは罪人の中で最たる者です」(Ⅰテモテ一・一五)と告白している。そして人は、自分の罪を知らされた時、「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。」(詩篇五一・三~四)ということになる。これに反し、「正しい人」は、神の光に気づかない人である。神は私たちに醜い自分の姿、つまり真実の自己を発見させ、自覚させ、その上で救ってくださるのである。自分がどうしようもない罪人、救われない泥凡夫だと知らされ、悔い改めた者から救ってくださるのである。
 自分の罪を悔い改めて、「福音」(神の恵みと救い)を信じさせていただいたとき、その人はすでに「神の国」、つまり神のふところ住まいの身となっているのである。ゆえに、「罪人」こそが神の救いの目当てであり、キリストに招かれているのである。自分が「正しい人」であると自惚れているような人は、救いから洩れているのである。もっとも、そのような人も、神の御力によって心が翻転するときが必ず訪れる。「神は愛」であるから。それは、いつか。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント六・二)。聖パウロの言葉である。


エノク

「エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年間神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記五・二一~二四)。
         *
 神と共に歩んだ敬虔なエノクについて、ヘブライ書は、「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました」(一一・五)と記している。思うに、エノクは、生きている時からすでに神と共にあって、永遠の命を生きていたのである。彼にとって、肉体の死は何の障害にもならなかったのである。信仰者である私たちも、その信仰が真ならば、今、すでに、エノクのように永遠の中を生きているのである。エノクはその信仰が神に喜ばれていたが、信仰をもって生きたことの他に、何か格別のことをしたとは記されていない。彼は、神に賜った命を、神と共に、神がお取りになるまで生きた。ただそれだけである。彼は生き切ったのである。それが特筆すべきことなのである。創世記の短い記事に、まことに掬すべきものがある。


アガパンサス

 庭のアガパンサスの青紫が美しい。アガパンサスは「愛の花」という意味で、ギリシア語のアガペーが語源である。「アガペーの愛」は自己否定的で、自己を他者に与える愛とされる。キリスト教は愛の宗教と言われるが、それはこの意味である。これに対し、「エロスの愛」は自然的、価値追求的な愛である。美しいものや強いものを愛する愛で、恋愛がその最たるものである。人間はエロスの愛は生まれながらに持っているが、アガペーの愛は持っていない。「神は愛です」(Ⅰヨハネ四・一六)とあるように、アガペーは神の愛であり、何よりもキリストの十字架において私たちに示された。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(Ⅰヨハネ三・一五)。また、イエスは弟子たちに次のように言われた。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ一三・三四)。人間はアガペーの愛を持っていないのに、どうして互いに愛し合うことができようか。イエスは決して無理は言っておられない。まことの信仰を神より賜れば、アガペーの愛も一緒に賜るからである。キリストによって罪を贖われた者は、自分が思ってもみなかった人間に生まれ変わるのである。

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 神よ、あなたはわたしの神。
 わたしはあなたを捜し求め
 わたしの魂はあなたを渇き求めます。
 あなたの慈しみは命にもまさる恵み。
 わたしの魂は満ち足りました
 乳と髄のもてなしを受けたように。
 わたしの唇は喜びの歌をうたい
 わたしの口は賛美の声をあげます。(詩篇六三・二~六)

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今月の祈り

 歳をとれば皆、体力が衰え、一つや二つは持病を持つ身になります。以前は簡単にできたことが、次第にできなくなります。しかし老人には人生経験があります。いろいろの知恵や知識を持っています。老人がお荷物としてではなく、長老として尊敬される社会となりますように。主よ、お導きください。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一愛媛県伊予市下吾川四八八―三
[電話]080・6384・8652
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《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストを信じさせていただきましょう。まことの信仰による喜びの生活を求める方のご入会をお待ちします。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。
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からしだね第84号

からしだね  十
二〇一九年 八月 第八十四号
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祝福されよ、主に信頼する人は。
 主がその人のよりどころとなられる。(エレミヤ書一七・七)

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神の恵みの福音   

 信仰とは、「イワシのあたまも信心から」というような言葉のように、無理に何かを信じることではない。教会のミサや聖日礼拝のような形式でもない。信仰とは善き人間になることである。罪人(つみびと)が善き人間に変えられることである。貪欲で好色で酒飲みで見栄っ張りで、地位や金がこの世の尺度で、自分中心の生き方をしてきた私たちが、ある時からそれと反対の生き方をするようになることである。このような転換は、人間の力や自分の意志では起こらない。驚くべきことに、信仰とは、私たちを超えたお方が私たちの魂の中で、私たちの知らないうちに、始められた業(わざ)なのである。私たちが始めたものではないから、私たちはそのことに後になって気がつくのである。煩悩にまみれ、どうにもならぬ罪悪の身で暗闇をのたうちまわっていた私たちを、大いなるお方が憐れんでくださって、そこから助け出そうとしてくださるのである。この目に見えない力に促され、導かれて次第に私たちは信仰の道を歩むようになる。神が先手で、私たちは後手である。求道といっても、求めさせられて歩む道であって、イニシアティブは神にあるのである。だから救いは確かなのである。
 
 神は一時も私たちを離れてはおられないのである。信仰は途中でやめることはできない。私たちが始めたものならやめられるが、神がお始めになったものを誰がやめることができようか。途中でやめるような信仰は元々まことの信仰ではなく、真似事に過ぎない。パウロは「フィリピの信徒への手紙」の中で次のように言っている。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(一・六)。これは、わかりやすく言えば、信徒の救いは確実であるという意味である。福音書には、神の御子である主イエス・キリストが病人や心身の障害者を癒された多くの奇跡が報告されているが、最大の奇跡は、私たちの罪が贖われ(あがなわれ)、赦され、悪しき者が善き者に変えられることである。それが私たちの力や努力によってではなく、神のお力によって起こる。よって、「神の恵みの福音」(使徒二〇・二四)という。私たちは神を信じ、キリストを信じるだけでよいのである。金も要らない、修業や勉学の必要もない。神さまの一方的な恵みである。しかも、永遠の命が約束されている。これほどありがたいことはない。だから福音(良い知らせ)なのである。
 神は私たち一人一人をお招きくださっている。これに応えないことは、何ともったいないことか。世の因襲に囚われ、回心することもなく、罪の身のまま、空しくこの一生を終えるとは。すなおに心を開き、神のみ恵みを受け入れることである。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ二〇・二七)と主イエスは言っておられる。


死んだらお仕舞いか

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ一一・二五~二六)
         *
 人間には様々の願望がある。あれが欲しい、これが欲しい、ああなりたい、こうなりたいと。しかし、私たちには、自分さえ気づかない究極の願望がある。あまりに根源的な願いであり、願っても叶えられないことなので、私たちはそのことが分からなくなっているのである。それは、死にたくない、逆にいえば永遠に生きたいという願いである。私たちの存在の根底、つまり命の根源には、いつまでも生き続けたいという願いがあるのである。  
 信仰によって私たちは多くの恵みに与かるが、最も大いなるものは、命の願いが叶うことである。世の中には、金が儲かる、病気が治る、という現世利益を説く宗教もあるが、まことの宗教はそんなちゃちなことではなく、永遠の命への道を教えるのである。キリスト教もそうであるというより、キリスト教こそ正にそうである。もとより、現世のこの肉体のままで永遠に生き続けることはできない。だれもが知っているとおり、私たちの体は死ぬほかはない。しかし、驚くべきことに、まことの信仰を賜った人は、死んでも死なないのである。このことは知性や理性を超えた事柄であるから、言葉では説明し尽くせず、文章でも表現できない性質のものである。一人ひとりが信仰の道に入って、神ご自身から直に教えていただくしかない。これを信知という。いくら考えても、いくら知識を蓄えても、人間のアタマで納得できることではないのである。啓示は人の理性や知性を超えているからである。要は、理屈ではなく、体験である。信仰を賜ると、聖パウロの言うように、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」(Ⅰコリント二・九)を分からせていただくのである。
 
 主イエス・キリストは、次のように言っておられる。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。」(ヨハネ一〇・二七~二八)と。私たちは、主イエスの言葉が聞こえているだろうか。呼び声を聞き分けているだろうか。イエスをキリストと信じ、従うことができるだろうか。実は、この信仰も神から恵みによって私たちに賜わるものであって、自分で信じていると思っている信仰とは次元が異なるものである。
 信仰によって義とされた人(神から正しいと認められた人)、換言すればイエス・キリストの十字架の贖い(あがない)によって罪を赦された者のみが、永遠の命を賜るのである。それは別の言葉で言えば、新たな命を賜ることである。主イエスは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ三・三)と言っておられる。神の国は永遠の命の国である。

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使徒信条

1我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
2我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
  主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、
  ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
  死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、
  三日目に死人のうちよりよみがえり、
  天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、
  かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。
3我は聖霊を信ず、
 聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
 罪のゆるし、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の命を信ず。
         *
 使徒信条は、あらゆるキリスト教会、あらゆるキリスト者が受け入れるべき、信仰を要約したもので、キリスト教の骨格である。そして、その要は、言うまでもなく、イエス・キリストの十字架の死と復活である。つまり、キリストによる私たちの罪の贖いである。
 キリスト教は、キリストの犠牲によって罪を赦された者がキリストの御跡に従う教えである。端的に言えば、信者は、一人ひとりがキリストとなって、生き、そして死ぬのである。これが救いの究極である。ただそれだけである。他に何もないのである。これがもともと私たちの最初にして最後の願い、命の願いだったのであるが、どうしてもそれに気づかなかったのである。私たちは、生まれてよりこのかた、神に思われ、願われ、祈られて、やっと目覚めるのである。その目覚めが、信仰を賜るとき、救いのときである。それは他ならぬ、今、ここである。使徒信条にはキリスト教のエッセンスが示されているのである。


喜びなさい

 私たちは、今のまま、このままで、神の愛、神のみ恵みの中に生かされている。早く、そのことに気づかせていただくことである。

 そのとき、見えない人の目が開き
 聞こえない人の耳が開く。
 そのとき
   歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
 口の利けなった人が喜び歌う。(イザヤ三五・五~六)
         *
 信仰を賜るとは、すなわち罪を贖われ救われるとは、まさにこのようなことである。そして、

 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
 野ばらの花を一面に咲かせよ。
 花を咲かせ
 大いに喜んで、声をあげよ。(同三五・一~二)

ということになる。救いといっても別にない。貧のまま、病のまま、愚のまま、この身このままでありがたいのである。願いも悩みも、神に打ち明けて祈ろう。御心ならば、神が叶えてくださる。客観的状況はときに何も変わらなくとも、神が共にいてくださる。神がすべてを知っていてくださるのだ。そのことを分らせてくださる。その時、悲は喜に、暗は明に、失望は希望に変わるのである。すべてに感謝である。聖パウロは言う、
 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピの信徒への手紙四・四~七)

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 神はわたしたちの避けどころ、 わたしたちの砦。
 苦難のとき、必ずそこにいまして 助けてくださる。
 わたしたちは決して恐れない
 地が姿を変え
 山々が揺らいで海の中に移るとも
 海の水が騒ぎ、沸き返り
 その高ぶるさまに山々が震えるとも。(詩篇四六・二~四)

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信仰生活

 曇り日の野山は淋しく元気がないが、青天の下ではこれが同じ景色かと思うほど、生き生きとした姿を現わす。だれしも経験することである。神無き人の暮らしは、譬えれば曇りの日、信仰に生きる人の生活は晴れの日である。信仰者は、外面はいかに貧相であろうとも、内面は神の光に照らされ、喜びと希望と愛に満たされている。

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今月の祈り

 主よ、幼児たちがその親によって虐待され、殺される事件が相次いでいます。我が国は、いつの間にこのような悲惨な社会になってしまったのでしょう。私たちは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っていたのではないでしょうか。人々の心から愛が失われています。主よ、世界の基である家族を、とくに幼い命を、守り愛する心を私たちに回復してください。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
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《鳥ノ木閑話》
 雨は大地を潤わせ、人々に休息を与えるが、梅雨の晴れ間は人々に希望を与える。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ五・四五)

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からしだね第83号

からしだね  十
二〇一九年 七月 第八十三号
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あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。(ルカによる福音書二二・二六)

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オリーブ山で祈る

 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。すると天使が天から現われて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」(ルカ二二・三九~四六)
         *
 イエスは弟子たちと最後の晩餐を終えたあと、オリーブ山のゲッセマネという所へ行かれた。祈るためである。ユダの裏切りにより、死が間近に迫っていることをイエスは身に感じておられた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」―「この杯」とは、受難、つまり死のことである。どうすることが神の御心に適うことなのか。死ぬことか生きることか。生き延びて神の国の福音をさらに告げ知らせるべきか。しかし、三度の受難予告にあるとおり、イエスはご自分が世の指導者たちによって殺されなければならないこと、三日目に復活する運命にあることをますます確信するようになっていた。すでにこの杯を受ける覚悟はできている。しかし今、実際に、己が使命を果たすべき時が迫って来る中で、さすがに言い難い不安と恐れに襲われたのであろう。心中の葛藤である。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」―イエスは父なる神の御心を問い、神に祈る。イエスは御父からの使命を果たすためにこの世に遣わされて来た。自分の生涯は、この杯を飲み干すためにある。この苦闘の祈りにより、黙って死に渡されることが神から自分に課せられた使命であり、それが神の御心であることを改めて納得され、その運命を受け入れられた。そして神にすべてを委ねられた。信仰の絶頂である。「天使が天から現われて、イエスを力づけた。」―神の目に見えない助けである。
 ゲッセマネにおいて主イエスは、私たちに信仰の究極をお示しくださった。私たちはこの苦しみを克服されたイエスを、「まことの神であると同時に、まことの正しい人間」として告白することを躊躇しないのである。思えば、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ三・二二)。さらに、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(同九・三五)という神の御声には深い意味が隠されていたことをお悟りになったに違いない。イエスが神の御心に従順に生きてくださったからこそ、私たち人間が罪を赦され、救われる唯一の道が開かれたのである。


貪欲

 一を欲しがっているから一を与えれば、二でないと嫌だという。二を欲しがっているから二を与えようとすると、五でないとだめだという。もっともっとの心、貪欲の霊が、夫をあるいは妻を苦しめる。欲心が折角の家庭の平和を崩していく。古人は「足るを知る」と言った。与えられたもので満足する心、感謝の念である。私たちは、贅沢は出来ないが、質素な生活をすれば、それなりに暮していける。それで十分ではなかろうか。主イエス・キリストは、「私たちに必要な糧を今日与えて下さい」(マタイ六・一一)と祈るよう、弟子たちにお教えになった。確かに、それ以上を願うのは貪欲というもの。その日一日、食べる物があり、着る物と住む所があれば満足すべきである。そして、それは私たちに既に恵みとして与えられているのではなかろうか。主は言われる、「あなたはすでにいただくべきものをいただいている。身に余る幸いではないか。この上何を求めるのか」。私は答える、「はい、この救いを、幸いを、そして平安を、妻子はじめ身の回りの人々に伝えたいだけであります。共に喜ぶ者となるために」。貪欲は災いのもとである。質素な生活に足りれば、富は富豪にまさる。身に病を養えども、今日を喜べば千年の長寿にまさる。今賜っているものを喜ばぬ者に、神は加えてお与えにはなるまい。


奇跡とバナナ

 福音書にはイエスのなさった多くの奇跡が記されている。その元は伝承であろうが、現代に生きる私たちはそれらの驚くべき奇跡をどのように受け止めたらよいのであろうか。私見を述べたい。奇跡の記事は、人の言葉をもっては到底表すことのできない神(イエス)の御業を、神智をもって生き生きと表現したものである。よって、奇跡の告げる深い真実は、読む人の信仰の程度に応じ、聖霊によって教えられるのである。奇跡については、神は全能だから何でもお出来になるということで、表面的理解に留まってしまうべきではない。例えば、次のヨハネ第九章の生まれつきの盲人が癒された奇跡の記事である。
         *
 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もあれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。(九・一~九)
         *
 このイエスのなさった奇跡をどう読むかである。イエスは神の子であり、神と本質を同じくする方であるから、その御力によって、文字どおり生まれながらの盲人の目が見えるようになったのだと受けとめる人が多い。もとより、それは間違いではない。聖書にそう書いてあるのだから。しかし、より深い意味をこの奇跡に見い出すことも可能である。それはこうである。(A)盲人が信仰を賜り霊の眼が開けたこと、つまり救われたことが真実の出来事であって、(B)盲人の肉の目が開けたことは、その真実を表わすシンボルとして記されているのだと受け止めるのである。即ち、この奇跡が告げようとしているのは(A)の出来事なのであって、それを悟った者には、(B)の出来事にはもはや用はないのである。しかるに、あくまで(B)の肉の目が明いたことにこだわる者は、本質とシンボルとを見誤り、聖書の本意から外れるのである。そのことは、この奇跡を信じなかったユダヤ人たちが盲人であった人の両親を問い詰めたところ、「本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」(ヨハネ九・二一)と答えた言葉の含意からも立証されるのである。つまり、奇跡は一本のバナナである。(B)はバナナの皮で、(A)が中身である。私たちは皮をむいてバナナを食べるのであって、その時にはもはや皮に用はない。バナナの皮は形であり、中身は本質であるが、本質を表現するためには、形が要るのである。しかし、いつまでも表面のバナナの皮にこだわっていると、何十年聖書を読んでも、人間が生まれ変わったりはしないのである。主イエスに唾でこねた泥を目に塗っていただかないと、私たちは目覚めることができないのである。生まれつきの盲人とは、回心前の私たちのことなのである。
 福音書にはイエスのなさった多くの奇跡が記されている。その多くは、文字どおりのことが事実として生起したと受けとめるべきであろうが、中には今回の記事のように、より深い真実を読み取るべきものもある。もとより、その場合も、一律の仕方で解釈することはできない。個々の奇跡ごとに、聖霊に教えていただくのである。奇跡の記事は、簡単そうで一筋縄ではいかないのである。

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聖パウロの言葉

 「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。(Ⅱコリント四・一三)

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神命

 すぐ隣りにいる人に、あなたが救われた喜びを告げよ。かたくるしい教義やむつかしい理屈でなく、あなたの喜びを告げよ。これ伝道なり。大事業をなすに及ばず。それはあなたの任ではない。ただキリストの復活を告げよ。己が救われし喜びを告げよ。己が復活を告げよ。他となんら競うことなし。これ誰にでも可なる事業なり。「神を畏れる人は皆、聞くがよい、神がわたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。」(詩篇六六・一六)


光あれ!

 私たちは、自分が今どれほど恵まれているかに気づくことが何よりも大切である。しかし、この簡単な事実に、はっと目が覚めるのに一生かかるのである。不平不満と自己中心主義でずっと生きてきた。「とわの闇より救われし身の幸なにに比ぶべき」という歌があるが(おっと、これは異教の歌であった)、神の恵みに目が覚めるまでは人生は闇の中である。不幸は自らが招き、地獄には自分から進んで陥るのである。「闇から光が輝き出よ」(Ⅱコリント四・六)との神の声をいつかどこかで聞くほかはないのである。


救いの逆説

 私たちは救われないから救われるのである。自分で自分を救うことができないから、神様がお救いくださるのである。神様からの一方的な救いである。信徒は、生きている時も死ぬ時も、神様とイエス様にすべてお任せするのである。信仰は、結局それだけであって、学問や知識ではない。そのこともまた神様に教えていただくのである。

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 今日こそ主の御業の日。
 今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
 どうか主よ、わたしたちに救いを。
 どうか主よ、わたしたちに栄を。
 祝福あれ、主の御名によって来る人に。
 わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。(詩篇一一八・二四~二六)

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今月の祈り
 
 主よ、引きこもりの人たちに自立の心をお与えください。彼らは自力では現状を変えることができないのです。「起き上がりなさい。立って歩きなさい」というあなたの御言葉が彼らの胸に届き、彼らが明るい戸外に飛び出すことができますように。家族にも希望と平安が与えられますように。

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《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストを信じさせていただきましょう。まことの信仰による喜びの生活を求める方のご入会をお待ちします。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。
(解題)「からしだね」は「くろがらし」の種子。主イエスは極めて小さなものから偉大な成長をとげる譬えとされています。 
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からしだね第82号

からしだね  十
二〇一九年 六月 第八十二号
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 心の清い人々は、幸いである。
 その人たちは神を見る。(マタイによる福音書五・八)

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福音

 マルコによる福音書によると、イエスは郷里のガリラヤで伝道を開始されたとき、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(一・一五)と言われた。「福音」という言葉は、英語の聖書には「グッド・ニュース」と訳してある。つまり、良い知らせである。キリスト教は難しいことを学んだり、守ったり、わけの分からないことを無理に信じたりすることではない。何よりもそれは、私たちにとって嬉しい良い知らせなのである。一言で言えば、私たちは皆、神の恵みの中に生かされているということである。イエスは、宣教のまず最初に、そのことを信じなさい、気づきなさいと言われた。私たちは神の恵みの中で、神に護られて生かされている。しかし、そのことを知らず、認めず、自分の力に頼って懸命に生きている。そこに無理があるのである。だから、しんどい。自分を造り、育て、導いてくださっている神を認めないということは、御恩を御恩と思わず、自分の甲斐性だけで生きていると思い込んでいることである。これを「罪」という(キリスト教で言う「罪」とは社会的犯罪のことではない)。我慢という。自己中心主義である。このような生き方はやがて行き詰まる。この世が悩みと苦しみに満ちたものとなる。イエスはこのようなあくせく生きる私たちに対して、次のように伸びやかな教えを語られた。
        *
「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だがあなたたちの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』 『何を飲もうか』 『何を着ようか』と言って、思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」(マタイ六・二五~三二)
        *
 このイエスの御言葉が語られた時処を指して「ガリラヤの春」と名づけたキリスト者がいる。肥沃なガリラヤは、そのとき湖水からの心地よい微風が吹き渡っていたことであろう。時あたかも、我が国は、春爛漫。神の恵みのさなかにある。何を心配することがあろう。何を恐れることがあろう。野に出でて命の息吹きを満喫しよう。

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 わたしの慈しみに生きる人は
 喜びの叫びを高くあげるであろう。(詩篇一三二・一六)

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嗣業

 「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」(マルコによる福音書三・二〇~二一)
        *
 イエスの伝道の初期のことである。イエスは、汚れた霊に取りつかれた男や様々の病人をいやしたりしながら、故郷のガリラヤ地方を巡回し、神の福音を宣教しておられた。イエスのしておられる奇跡を聞いて、人々が遠くから集まってきた。掲出の記事は、そのころの興味深いエピソードである。イエスは大変な人気と評判で、弟子ともども食事をする暇もないほどであった。しかしその一方で、「あの男は悪霊(ベルゼブル)に取りつかれている」と学者たちは言い、「あの男は気が変になっている」と言う者もあった。そこで、身内の者、つまりイエスの母と兄弟たちが心配してイエスを取り押さえに来たのである。家族の者は、イエスがとうとうアタマに来たと思ったに違いない。主イエス・キリストにして伝道の初めはこのような有様だったのである。
 なぜこの記事を取り上げたか、何が言いたいのかというと、他でもない。この「からしだね」のことである。私のような罪にまみれた無学の凡愚がこのような小さな伝道冊子を作成配布すると、とうとうあの変人も気が狂ったか、認知症ではないかと、妻子はじめ兄弟姉妹、ご近所の方々が思うに違いないからである。御心配には及ばない。もうこの歳(七十二)になって、野心もなければ欲もない。頭はまだ暫くは大丈夫のようである。私は、愚かな、失敗だらけの人生の果てに、神さまから賜ったものを、有縁の人々にお裾分けしたいだけなのである。子や孫に残すべき財産のない私には、これが唯一無二の嗣業(相続財産)である。それでは、神さまから賜ったものとは何か。一言で言えば、それは救いであり、永遠の命である。別の言葉で言えば、信仰(神)である。おいおい「からしだね」の誌面を通じ、それをお伝えしていきたいと考えている。私の話には、種も仕掛けもない。「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ四・九) 


救いの風景
 
 旧約聖書の第二イザヤ書をもとに、救いについて考えてみたい。次に引用するのは、その掉尾を飾る有名な預言で、イスラエルの民が六十年の長きにわたったバビロン捕囚から解放され、故国へと行進する有様を人々に告げたものである。

 あなたたちは喜び祝いながら出で立ち
 平和のうちに導かれて行く。
 山と丘はあなたたちを迎え
   歓声をあげて喜び歌い
 野の木々も、手をたたく。
 茨に代わって糸杉が
 おどろに代わってミルトスが生える。
 これは、主に対する記念となり、しるしとなる。
 それはとこしえに消し去られることがない。(イザヤ五五・一二~一三)
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 二千五百年も前の預言を私たちは昔の物語としてでなく、現代の私たちの救いを告げる神の御言葉として読むことができる。私たちの傲慢や自己中心主義が打ち砕かれて、心から悔い改めることができたとき、つまり自分が囚われていた罪から解放されたとき、悩み、苦しみ、そねみ、ねたみ、怒り、失望などに覆われていた、暗鬱なこの世の風景は一変する。見る目が変わるのである。私たちは神に造られ、育まれ、今日までその導きの中にあったのだ。私たちは気がつかなかったが、人生はもともと恵みと祝福に満ちていたのである。そのことを認めず、他と比較して不平を言い、神の恵みを撥ねつけ、我欲を追及してきた自分の罪に気づかされる。このような悔い改めを体験し、そこで生れ変わって初めて、私たちは何の憂いも心配もなく、平安に、感謝の日暮しをすることができるようになる。これがまことのキリスト者の信仰生活である。富が増えたり、もっと健康になったり、人間関係がすべて解決したりするのではない。そうではなくて、今のままで何の不足もなくなるのである。それまで、自分の妨げや障害となっていた山や丘さえ懐かしく、親しみに満ちたものとなり、野の木々も喜々とした姿を現わす。荒れ地には雑草に代わって美しく芳香のある灌木ミルトスが生えてくる。それまで呪い、嘲り、非難、恨み、ののしり、嘆きなど口汚い言葉しか出なかったこの口から、温和な美しい、心地よい、感謝の言葉が出てくるようになる。これが神に救われたしるしである。ひとたび救われた者は、二度と捨てられることはない。しかし、悔い改めなければ救われることはない。悔い改めはそれまでの人生観や考え方が打ち砕かれ、根底からひっくり返るのであるから、反省などというものとは本質的にレベルが異なる。つらい、苦しい体験である。しかし、それは神からの賜物である。よって、救いは確かである。悔い改めは、自分の努力や精進、心がけで起こすものではなく、神の力によって否応なく起こるのである。しかし、これを経て初めて真の喜びに至ることができる。自分がいかに神に恵まれ、愛されてきたか、身の奥底から知らされる。喜びの生活が始まるのである。


世の終り

 終末、世の終りについては、旧約聖書の黙示文学や新約聖書において、様々の形で述べられている。特に新約聖書では、神の国の到来、主イエス・キリストの再臨と結びつけられて、鮮明に描かれている。世の終りは、私たちの合理的な知識や想像力を超えた事柄であることから、黙示文学的な象徴的言語やイメージでもって現象的・即物的・絵画的・ドラマ的に表現されたものである。つまり、形無きものごとを形あるものごととして描き出したものである。代表的なものとしては新約聖書の「ヨハネの黙示録」や共観福音書の記事がある。旧約聖書では、ダニエル書が有名である。
 天地に始まりがあるのだから、その終わりである終末があるのは当然である。しかし、私は福音書においてイエスの説かれる終末は、今日の私たちが想像するような自然科学的な終わりを言われたものとは思わない。聖書は歴史や科学の本ではない。人間の救いが書いてある信仰の書として読むべきものである。即ち、終末に関する記事は、自然科学的終末ではなく、宗教的終末、つまり救いが記されていると理解すべきなのである。換言すれば、自然科学的表現を用いて信仰の出来事が象徴的に描かれているのである。
 
 ところで、終末に関する教説は、要は、何が起きてもうろたえることのないように、いつでも「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ二一・三六)と言うことである。人の子、つまりイエスの言わんとすることは、人は世の終りや自分の死がいつ来てもよいように、常に神の御前に義(ただ)しく生きるべきである、ということである。終末や再臨の記事は、独特の黙示文学的表現方法をもって、このような生き方を教えたものと受け止められる。
 ところが、私たちは、終末とか再臨という言葉を聞くと、それはいつ来るのか、その前兆や徴は何かと問う。それが私たちの知識欲であり人間性である。これに対してイエスは、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マルコ一三・三二~三三)。また、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」(使徒一・七)と、そのような問い自体を無効として退けておられる。このように問うこと自体、イエスの言葉を本当には理解していない証拠だからである。

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今月の祈り

 天にまします御父さま、私たち一人一人が罪を悔い改め、誰もがあなたの恵みの中にあることに気がつきますように。心からあなたの御名を賛美し、今日一日を感謝して生きることができますように。私たちの驕り高ぶりや利己心を懲らしめて下さいますように。アーメン。

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 いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の道にとどまらず
 傲慢な者と共に座らず
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。(詩篇一・一~三)

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一愛媛県伊予市下吾川四八八―三
[電話]080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
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《読者の皆様へ》  
 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストを信じさせていただきましょう。まことの信仰による喜びの生活を求める方のご入会をお待ちします。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。

 質素こそ豊か、平凡こそ非凡、一病ありて息災、何の足らざるところやある。すべては神の大いなる恵み。大事なのは、我、人、共にご恩を忘れぬことである。

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(解題)「からしだね」は「くろがらし」の種子。主イエスは極めて小さなものから偉大な成長をとげる譬えとされています。 

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からしだね第81号

からしだね  十
二〇一九年 五月 第八十一号
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心の貧しい人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。(マタイによる福音書五・三)

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イエス・キリスト

 人間の知恵や分別では届かない領域がある。それは神にゆだねるしかない。キリストが私たちと同じ人間なら、その御言葉や御業を信じることはできない。この世の現実や歴史が示すとおり、いくら優れた人でも罪があり、誤りを犯すからである。しかるに、キリストは神の御子である。神と本質を同じくするお方である。私たち人間とは本質的に異質のお方である。そのお方を信じるのである。そのお方の御言葉と御業を信じるのである。救いと啓示を信じるのである。つまり、福音を信じるのである。これがキリスト教である。少しも無理はない。


願い

 父なる神は、主イエス・キリストの願いなら何でもかなえてくださる。ゆえに、私たちも、主イエス・キリストのみ名によって御父に願うのである。イエス・キリストにあって願うのである。そのとき、私たちの願いはキリストの願いとなる。ゆえに、神はその願いをかなえてくださるのである。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」(ヨハネ一四・一三)。「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ一六・二三~二四)


言(ことば)

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ一・一~三)。ヨハネ福音書の初めの部分である。難解である。というより、考えて分かることではない。神の啓示だからそのまま受け取るしかないのである。ヨハネ福音書、特にその序文は啓示そのものである。これを理解し尽くすことは人間にはできない。おおよその意味を把握できればそれでよしとすべきである。この先在の「言」が肉体をとって、私たちの世界に現われてくださったのが、イエス・キリストだとされている。神の御子、キリストは神と同質のお方なのである。ところで、初めの聖句に戻って、「言(ことば)」を例えば「神の御意志」として理解してはどうか。私たちは神によって造られ、保たれ、生かされている。神は私たちの命(の源)である(使徒一七・二四~二八参照)。その私たちを成り立たせている命そのもの(神)を、私たちは対象として客観的に知ることはできない。それは眼がその眼を直に見ることができないのと同じである。よって、私たちは神(命)を啓示(または自覚)によって知ることができるのみである。私たちは神を、神が御自身を啓示してくださった範囲内においてのみ知ることができるのである。私たちは神(の御手)の中にあって生かされているのであるから、そして一瞬一瞬が神の創造であるから、私たちは神の御意志を現実生活において知ることができる。私たちを取り巻くあらゆる物事や生起する事件は、神の言である。沈黙もまた神の言である。人間の言葉は言(ことば)のほんの一部に過ぎないのである。


復活問答

 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」(ルカによる福音書二〇・三四~三八)
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 復活についてのイエスの説明である。あの世に入って復活する者は、地上の原則に支配されない。この世の者とは本質的に違ったものとして復活させられるのである。もはや死ぬことがない。地上では死が支配しているため、結婚によって子供を残す必要があるが、あの世は永遠の命。従って子を産む必要がない。イエスは聖書に基づいて、さらに復活について説明される。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」という出エジプト記(三・六)を引用し、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」から、先祖のアブラハムもイサクもヤコブも復活して今生きていると結論される。旧約聖書では復活信仰は必ずしも明らかではないが、イエスは復活を信じられた。信仰をもって死んだ者は復活して生きており、今地上で信仰をもって生きている者も、神によって生きている。つまり、人はこの世でも次の世でも神によって生きるのである。あの世に入る資格を与えられた者は、すでに永遠の命をいただき、神によって生きる生涯に入っている。
 死者の復活の根拠としてイエスは出エジプト記の『柴』の個所を挙げられたが、イエスにはその記事よりも先に、永遠の命を今すでに生きているとのご自覚があり、ご自分の命がこの世限りのものではなく、死んでおしまいではない、必ず復活するとの確信がおありだったのである。イエスは旧約聖書の記事を読んで復活はあると確信されたのではなく、復活の確信が先にあって、その根拠となる個所を提示されたのである。これは我々も同じで、その証拠に、この記事の解釈をいくら読んでみても、この言葉をいくら暗記しても、自分が復活するとの確信は出てこない。そのためには、まことの信仰を賜るより他はないのである。私たちは主イエス・キリストの十字架の贖いを信じさせていただくことによってのみ、永遠の命を賜るのである。
 「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」(ヨハネ五・二四~二五)

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 いかに幸いなことか
 主を畏れ、主の道に歩む人よ。
 あなたの手が労して得たものはすべて
   あなたの食べ物となる。
 あなたはいかに幸いなことか
 いかに恵まれていることか。
 妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木
 食卓を囲む子らは、オリーブの若木。
 見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。(詩篇一二八・一~四)

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死者の復活

 パウロは、復活のことをあれこれ心配する者に対し、Ⅰコリント十五・三五~三八で次のように述べている。「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」。パウロは死者の復活について、自分の考えを力をこめて書いている。しかし、いくらパウロが天才でも、人間の思弁には限界がある。復活について説明し切れるものではない。復活は人間の理解を超えた出来事である。だからこそ、信仰なのである。キリストに罪を贖っていただいた者、キリストの復活を信ずる者は、己が地上の人生も復活も、すべて神におまかせするのである。それがキリスト者の自由であり、平和であり、安心である。律法や罪はもとより、様々の疑問や煩いからの自由である。信仰者は日々、目の前に来たことを処理して生きればそれでよいのであって、死後のことをとやかく心配するのはキリスト者ではなかろう。


鉛の十字架

 主イエスは私たち一人一人のために十字架を負ってくださった。中でも、私の十字架が一番重かった。私のそれは、石の、鉄の、鉛の十字架だったから。お互い、いつまでもイエス様の十字架であるのをやめて、イエス様と共に世の十字架を負う者とさせていただこう。それは、多分、自ら進んでというわけにはゆかず、キレネ人シモンのように強いられてという在り方であろう(ルカ二三・二六)。しかし、それは神より賜る栄光の人生である。


灰よせ

 ばあばの骨揚げの時、アオちゃんが、「ばあばは骨と灰になったん?」と聞くでもなく一言つぶやいた。私は、六才になったばかりの幼児がそちらの方へ駆けて行かないように、その手をぎゅっと握りしめた。大人たちは総じて無言で竹箸でお骨を拾い集めている。余りにあからさまな現実に言葉がないのである。次は自分の番なのだ。否も応もない。信仰を持たない者は、特に焼き場は、身にこたえるのである。家内などは翌日も元気がなく、一日中家でごろごろしていたほどだ。こう言うと、「信仰していても結局は同じではないか」と反問する人がある。何か色好い返事はないかと、内心淡い期待を持っているのである。「答えるものか」。てっとり早く、労せずに知りたいと思っても、虫が良すぎる。答えを知りたければ、信仰、求道の道に入ることである。


その日、その時 

 私事ですが、去る二十三日に親戚の女性の葬儀があり、焼き場でお骨を拾わせていただきました。これまでにも何度か経験はあるのですが、今回は、自分がだいぶ歳をとったせいか、しかも亡くなったのが自分より年下の方であったので、より重い経験でした。死はもはや他人事ではなく、自分の足元にまで来ていることを実感させられました。「朝(あした)には紅顔あって夕べには白骨となれる身なり」これは真宗の蓮如上人の言葉ですが、真実だと思います。聖書には、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マルコ一三・三三)という、主イエス・キリストの御言葉があります。「その時」については、普通は「終末」つまり「世の終り」と解釈されていますが、私たちの「死」と捉えるともっと具体的で、切実感があります。「世の終り」などと言うと、観念的で他人事になってしまい、今日の私たちには銀河の果てのようなどうでもよい話になってしまいます。それよりも、「一日一生」の覚悟で今日を悔いのないように生きるべきではないでしょうか。

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 おとめたちの中にいるわたしの恋人は
 茨の中に咲きいでたゆりの花。
 若者たちの中にいるわたしの恋しい人は
 森の中に立つりんごの木。(雅歌二・二、三)

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今月の祈り

 天にまします御父さま、あなたとあなたの御子主イエス・キリストの福音が世の多くの人々に宣べ伝えられますように。このたび新たに立ち上げた神恩キリスト教会があなたの栄光を輝かすものとなりますように。そのために、この小さな機関誌「からしだね」を用いてくださいますように。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一愛媛県伊予市下吾川四八八―三
[電話]080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
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《読者の皆様へ》  
 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストを信じさせていただきましょう。まことの信仰による喜びの生活を求める方のご入会をお待ちします。神恩は無量です。キリスト者
は神のめぐしごです。
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(解題)「からしだね」は「くろがらし」の種子。主イエスは極めて小さなものから偉大な成長をとげる譬えとされています。

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