SSブログ

からしだね第91号

からしだね  十
二〇二〇年 三月  第九十一号
*********************

 祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。
 そうすれば、そのとおりになる。(マルコによる福音書一一・二四)

*********************

カナの婚礼

 ヨハネ福音書の第二章に、瓶の水がぶどう酒に変わった奇跡が記されている。それはガリラヤのカナという村で婚礼があった時のことである。イエスは母や弟子たちと共に婚礼に招かれていたが、宴の途中でぶどう酒が足りなくなった。イエスは、母のとりなしに応え、召使いたちに百リットルも入るような大きな水瓶六つに水を満たさせ、それを世話役のところへ運ばせた。すると、瓶の水はすべて良いぶどう酒に変わっていた。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」と聖書は語る。 
 この奇跡は何を物語るのであろうか。いろんな読み方があってよいのだが、私は次のように受け止めたい。すなわち、大きな瓶の水とは私たちのことであり、イエス・キリストを、特にその十字架の罪の贖いを信ずる信仰によって、何の変哲もない私たちが聖なる者へと変えられていく。この不思議が、神の業がここに記されているのである。これ以上の奇跡はない。変わるはずのないものが変えられていく。自分の力や努力によってではない。信仰の力によるのである。これは信仰者の実体験であり、真のキリスト者は傍目には分からなくとも実に奇跡的な人生を送っているのである。
 イエス・キリストは御言葉による教えのほかに、数多くの奇跡をなされた。それらの伝承はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書に記されている。詳細は省くが、それらの出来事は、当時においてもまったく驚くべき出来事であった。「それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた」(マルコ五・四二)とある。しかし、最大の奇跡は、私たちがキリスト者となり、主イエスのみあとに続く者とされたことである。まさに、瓶の水がぶどう酒に変わりつつあるのである。このことは、キリスト者となった誰もが抱く実感ではなかろうか。
 
 上記のぶどう酒の奇跡に関連して、思いつく断片を記してみたい。仏典の言葉と錬金術についてである。これらはキリスト教とは異なった領域にありながら、人間の聖化、変容という点で通底するものがあるからである。
 周知のとおり、中世には錬金術が盛んであった。卑金属を金や銀などの貴金属に変化させようと様々の実験がなされ、もとより成功はしなかったのだが、これが後の化学の発達を促した。この錬金術に新たな意味を見つけたのが、分析心理学で有名なユングである。ユングは深層心理、つまり人間の無意識を研究する中で、錬金術師は単に物質的な金を作ることではなく、自分の精神を変えることにも関心を向けていたのだと洞察した。より高次の人間への変容である。ユングはそれを個性化や自己実現という彼独自の理論へと発展させていったのである。
 仏典には能令瓦礫変成金(のうりょうがりゃくへんじょうこん)という言葉がある。瓦礫(がれき)のようなつまらぬ物を、この上なく高貴な金に変えしめる、という意味である。つまり、取り柄のない私たち、石、瓦、礫(つぶて)のごとき我らが仏力によって高貴な人間に変容せしめられることを言う。これもまた、人間の聖化を表わしている言葉である。


アスペルガー

 二〇一九年六月、七十六歳の父が四十四歳の長男を包丁で刺し殺すという悲劇が引きた。父親は元農水次官という超エリートである。長男はアスペルガーという発達障害で、中学時代からいじめを受けて社会にうまく適応できず、大学時代までの七年間にわたり家庭内暴力を続けていた。十年以上前に長男は実家を出たが、事件前の五月下旬に実家に舞い戻り、両親と同居したばかりであった。この間、父親はこの長男の自立のために、献身的な世話や支援をしてきたのであるが、息子はひきこもり状態で、父や母にひどい暴言や暴力を繰り返していた。妹はこの弟のことが原因でいくつも破談になり、数年前に自殺した。また、母親はうつ病となり二〇一八年十二月に自殺を企てたが、未遂に終わった。父親は、同居を再開したものの、その翌日に息子から暴行を受け、恐怖感から殺害を考えるようになった。事件の日、この長男は隣接する小学校の音がうるさいと激昂し、父親は長男が何かしでかすのではないか、また、自分が殺されるのではないかと非常な恐怖をおぼえ、とっさに包丁を取りに走った。以上が報道等から知り得た事件の概要である。
 
 八〇五〇問題という現代日本を象徴する事件である。父親殺しはギリシア神話のオイディプス王や仏説観無量寿経の阿闍世王の物語が有名であるが、今回の子殺しは現代の悲劇である。父親と同世代の私は、この出来事をとても他人事とは思えない。発達障害、ひきこもり、家庭内暴力、いじめ、虐待など、人の目につきにくい、解決困難な事柄が一見普通の暮しに隠れているのが、豊かなはずのわが国の高齢社会の実態である。
 十二月十六日、被告は東京地裁の裁判員判決で懲役六年(求刑懲役八年)の実刑判決を受けた。判決は「被告の犯行は体格の大きい長男を三十カ所以上傷つける一方的なもので、被告の『殺すぞと言われてとっさに包丁を取った』という話は信用できない」とし、ひきこもる長男を長年支えてきた事情を考慮しても、弁護団が求める執行猶予にはできないとした。何しろ殺人事件である。医療機関はもとより福祉事務所や警察など関係機関にもっと相談すべきであったという裁判官や裁判員の意見もあった。もっともな意見であり、立場上そう言わざるを得ないのであろうが、精神の発達障害やひきこもりの実態を知らない人の、常識的な見解のようにも思える。この長男のようなケースの場合、公的機関や医療機関がどの程度機能するか、頼りになるか、経験者ならよく知っている。
 
 今回の事件のように、ひきこもりや発達障害に家庭内暴力が伴うのは最も解決困難な問題の一つである。アスペルガーにも程度の違いがあって、一概には言えないが、当人は、社会に適応できない被害者意識でいっぱいの、いわば手負いの獣のような存在である。欲求不満や生き難さからくる攻撃性を、自分を支えてくれている家族に向けるのである。暴言を吐き、暴力をふるい、癇癪を爆発させるのである。それがどれほど家族を傷つけ、苦しめるか。自分が家族への加害者であり、不幸の原因であることを彼らは理解できないのである。このような「大のおとな」を抱えた家族の苦難、悲惨、忍耐は、体験した者でないと到底分からない。これが父親の限界を越えたからこそ今回の事件が起こったのである。アスペルガーやひきこもりの実態を知らないで、被告をさらに鞭打ち、裁き、責めるのは酷というものであろう。この問題の遣り切れなさは、有効な解決策が見出せないところにある。精神障害は病気と違って治らない。言い聞かせたり、なだめたり出来る相手でもない。本人も家族も共に助かる道はないのであろうか。
 
 今回の事件の予備軍は、身の回りにもいっぱいいるのではなかろうか。被告は、私たちを代表してこの恐ろしい罪を犯したのではなかろうか、とさえ思うのである。とはいえ、被告の罪はあまりに重い。被告に同情はしても、殺人は決して赦されるものではない。「殺してはならない」は「モーセの十戒」の第六戒である。被告の長男にも当然ながら生きる権利がある。彼は彼で、健常者よりもはるかに生きづらい世の中を必死で生きていたのである。長男も被告も私たちも、神がお造りになった神の命を共に生きているのであって、だれもその命を奪うことは許されない。
 十二月二十日、被告は裁判確定までの間、保釈が認められた。地裁には退けられたが、被告が高齢であること、逃亡の恐れがないことなどから、東京高裁によって認められたのである。殺人犯の保釈は異例のことだという。情状酌量の結果であろうが、せめてもの慰めである。
 なお、十二月二十五日、被告は懲役六年の一審判決を不服として控訴した。被告の弁護団の出したコメントの要旨は次のとおりである。「判決には事件に至った経緯・動機について、量刑に大きな影響を及ぼす事実誤認がある。事実に基づいた適切な判決に服することが本当の償いになると申し上げ、本人の了解を得て控訴に至った」(二〇一九年十二月二十六日の朝日新聞)。控訴は、本人の意志というよりも弁護団の主導のようだ。確かに、この事件の審判は、一審のみで終わらせるべきではない。事件の背景を国民一人ひとりがよく考え、議論を尽くすべきであろう。「裁判は神に属することだからである」(申命記一・一七)。
 
 私たちは、アスペルガーのような発達障害者との共生の道を探さなくてはならない。しかし、その道はまだ見出せていない。ここで、私は神に頼らざるを得ない。キリスト教は愛の教えである。「神は愛」(Ⅰヨハネ四・八)だからである。主イエス・キリストは、「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ一二・三一)と教えられ、さらに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである」(マタイ五・四四~四五)と言われた。まして、家族ならなおさらである。たとえ、それが家庭を破壊するような者であっても。キリスト者は、自分が傷ついても愛を貫かなければならない。神に祈りつつ、うめきつつ、神の導きを信じ、一日一日を耐え忍んでいく。イエスは言われた、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ九・二三)と。苦難の道であろうと、それは主が共に歩んで下さる道である。しかし、信仰のない人たちはどうすればいいのか。


聖家族

 聖家族とは、幼児イエスと聖母マリアおよび聖ヨセフの三人の家族をいう。美しいキリスト教絵画のテーマでもある。私たちは聖家族という言葉から、ガリラヤの田舎のつつましい、平和な家庭を思い浮かべ、一つのあこがれを抱く。それで間違いはないのだが、私は戦後まもない我が家を思い出すのである。父は貧しい左官職人で、母はその足らざるところを呉服物の行商で補った。みすぼらしい場末の借家で、私たち兄弟姉妹四人を養ってくれたのである。貧しくとも幸せであった。キリスト教徒ではなかったが、そこにこそ聖家族が実現していたのだと、今にして思うのである。私がこのように言うのを、その僭越を、神はお赦しくださるであろう。聖家族はどこか異国の話ではあるまい。王侯や富者の宮殿や豪邸ではなく、親子で囲む一家団らんの小さな食卓こそ、聖家族のあかしであろう。そこに神の祝福があるのである。だからそれは世界中、至るところにあるはずである。神はその規範をナザレの家族でもってお示しくださったのである。

*********************

 天は神の栄光を物語り
 大空は御手の業を示す。
 昼は昼に語り伝え
 夜は夜に知識を送る。
 話すことも、語ることもなく
 声は聞こえなくても
 その響きは全地に
 その言葉は世界の果てに向かう。(詩篇一九・二~五)

*********************

今月の祈り

 御父様、若い夫婦が互いに相手を大切にし、子供たちを慈しみ、虐待やDVのない愛の溢れた家庭を築くよう、お導き下さい。貧しくとも平和で温かい、小さな家族を祝福して下さいますように。主イエス・キリストの御名によってお願い申し上げます。アーメン。

*********************
発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
[電話]080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。
*********************

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

からしだね第90号からしだね第92号 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。