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からしだね第45号

からし種通信  
二〇一六年五月 第四十五号
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内村鑑三の言葉

*救拯(すくい)の実

 救われたと心に意(おも)うのではない、またそう頭脳(あたま)で信ずるのでもない、救われるのである。悪しき心にかうるに善き心をもってせられ、旧き人を脱却(ぬぎさっ)て新しき人を着せられ、ここに救拯(すくい)の実を全うせられるのである。キリスト教は神学でもなければ、行動(おこない)でもなければ、思想でもない。キリスト教は心霊上の事実である、霊魂の改造である、最も驚くべき奇蹟である。(『所感集』一〇四頁)

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神の国

*神に創造された人間は、神のご支配下にあって、割り当てられた立場におかれていることだけが最善であることを教えられる。神のご支配のなかに生かされていれば、まわりの状態はどうであれ、そこが「神共にいます天国」と化すのである。神の国はどこか別なところに作られるのではない。わたしたち自身が神によって造り変えられて、今のままで神の国が来ており、自分がそこで天国生活をしているのを悟ることができる。

*(イエスのたとえを学んで)はっきり教えられたことは、神は人間の外側の状況の改善などをまったく考慮しておられないことである。ただ創造主として、人間の内なる人の新しい創造に心を傾けておられる。「人は新しく生まれなおさなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ三・3)と言われ、また「人は霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ三・5)といわれた。これだけを神は目標にして人に臨んでおられる。人間側からいうと、神から新しく創造されることだけが不可欠なことである。(白井きく『神の国はどんなところか』より)

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ともしび                 

 信仰は、ある意味で非常識である。自分の努力や修行、道徳遵守で救いに達しようとするのは、最も真っ当な考えで、これに反対する人は誰もいない。しかし、救いという点から見ると、これが悪いことなのである。私たちのできるような、鼻くそのような努力や小善が何の足しになろう。神学や聖書知識がなんの助けになろう。何十年も真面目に教会に通った、聖書を学んだといっても、それで神に何の報いを要求する権利があろう。人間のできるような努力精進をいくら続けても、その延長線上に救いはないのである。また、わたしたちのできるような善に本当に純粋な善があるであろうか。私たちのように汚れた者に善を行うことができると思うのは傲慢である。偽善である。パリサイ派の善である。仏教で言えば、浄土門ではなくて聖道門であり、その道では、ついに悟りや救いに達することはできないのである。そうではなくて、私たちの救いに必要なことはすべて、神さまの方で一方的にやってくださるのである。これがイエス・キリストの十字架の贖いである、と私は信じている。私たちはこれをロハで頂くだけ、ありがとうございましたと真受けに信ずるだけなのである。この信仰によって救われる。神に義とされる。これが聖書の教えの要であると信じている。こんな容易いことはない。しかし、こんな信じ難いこともない。神の無償の愛である。うますぎる話である。信仰の非常識たる所以である。救われてみなければ分からぬ話である。
 
 神の力によらずに
 汚れた口から
 祈りの言葉が出るだろうか
 
 神の力によらすに
 横着な手が合わさるだろうか
 
 神の力によらずに
 今の私はない
 
 神は働いておられる
 肉の眼には見えずとも
 私はすでに神の御手の中にある

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編集後記
 城山公園の桜が見頃を迎えた。お堀の柳はすでに青味を増している。まことに一瞬一瞬が神の創造である。私たちの喜びは神の喜びであり、新しい時間が、生命が、思想が生れつつある。すべては神の御業である。(四月一日)

無教会松山聖書集会  三原正實


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からしだね第44号

からしだね通信  
二〇一六年四月 第四十四号
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内村鑑三の言葉
 
 いわゆる伝道事業のみが伝道でない。神を信じてなす、すべての事業が伝道である。神を信じてなす農業が伝道である。神を信じてなす工業が伝道である。神を信じてなす商業が伝道である。伝道をおこなわんと欲して、与えられし職業を去りて専門伝道師となる必要は少しもない。職業は何でもよい。神と共におりて、人は何びとも神の光を放ちて伝道師たらざるを得ない。(『続一日一生』三月六日より)

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ともしび                        

 「愚直」ということを考えている。信仰者の生き方である。辞書によると、この言葉は、馬鹿正直とか臨機応変の才がないことを意味する。しかし思うのである。信仰者は世間に対しては「愚」であり、神に対しては「直」であると。パウロは総督のフェストゥスに「お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」と嘲られたし、アテネの人々には「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と相手にされなかった。教養ある立派なヘブライ人でありながら、死ぬほどの鞭打ちを何回も受け、投石や難船など数々の困難に遭遇した。最後には殉教したと言われる。これはおよそ賢い人間の辿るべき人生ではない。しかしパウロは、復活のキリストに出会って、「生きているのは、もはやわたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられる」となったのである。それまでの世間的に賢い人間から愚直な人間に変えられてしまった。真のキリスト者はまさにこのようではなかろうか。神以外、キリスト以外の価値はどうでもよいのである。信仰者は、本質的に世間とは相容れない存在なのである。愚直なのである。

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無教会松山聖書集会  三原正實


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からしだね第43号

からし種通信  
二〇一六年三月 第四十三号
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内村鑑三の言葉
 
 神の霊は「神の宮」に下る。集会の上に、油と露と炎とは下る。そしてこれが会衆の上に分かれてくだるのである。集会の必要、祈祷会の必要、共に福音を学び共に父に祈るの必要は、ここにおいてか起こるのである。孤立は大なるわざわいである。われらは相つらなり相結びて、全体において一つの「神の宮」を形造り、この宮の上に一つとしてくだる聖霊を各自が分与せらるるよう努めねばならぬ。(『続一日一生』二月一五日より)

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ともしび                        

 一月下旬、堀端の梅の莟が開き始めた。藪椿はもうとっくに咲いている。早春の訪れを草や木はいち早く教えてくれる。自然が先手で人は後手、万物の変化が先で人が気づくのはいつも後、である。神の救いも同様である。救いが先、気づくのは後。神はこれから手立てを講じて救ってくださるのではない。自分はすでに救われていたことに気づくのが救いである。このことは、まことのキリスト者なら知っている。主イエス・キリストは十字架の死において、わたしの罪を贖ってくださったのである。わたしの信仰はこれだけである。聖書もロクに知らないし、他になにもない。 

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無教会松山聖書集会  三原正實
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からしだね第42号

からし種通信  
二〇一六年二月 第四十二号
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ともしび                        

 一月十日は新年になって初めての聖日礼拝。集まった人数は四名であった。また、昨年のクリスマス感謝礼拝は三名であった。いかにも小さな群れである。しかし、集会や教会の価値は人数ではない。私どもは自主的に集り、聖書を学び、賛美しているように思っているが、真実はそうではない。主が集めてくださるのである。礼拝の対象も、礼拝の主体も主である。いわば主イエス・キリストの自作自演である。主が一人ひとりを促し、召し、統合しておられるのである。そこにからし種ほどながら、この聖書集会のこよなき価値があるのである。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ一八・二〇)

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俳句

 その中のひとりは主なり初礼拝   

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無教会松山聖書集会  三原正實

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からしだね第41号

からし種通信  
二〇一六年一月 第四十一号
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内村鑑三の言葉

 私たちが神に対してなしうることはただ一つである。すなわち、神がキリストをもって私たちにお降しになった赦しの事実を信じ、罪の身このまま、不信の心このままを彼にささげまつることである。そしてひとたび彼にささげまつった以上は、再び自分のことについて苦慮することなく、ただ神の小羊であるイエスを仰ぎ見て私たちの一生を終わるべきである。(『一日一生』一二月一日より)

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俳句

 吊橋に立てば若やぎ谿紅葉 

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ともしび                        

 ヨハネは歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行った(ヨハネ一・三五~三九より)。
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 邂逅という言葉がある。めぐりあいである。それは偶然の出来事であるが、見方を変えれば、神の御計画とも言える。このたび私が、白井きく女史に出会ったことに、神の御手を感じているのである。 

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無教会松山聖書集会  三原正實


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からしだね第40号

からし種通信  
二〇一五年一二月 第四十号
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内村鑑三の言葉

 *天国とは何ぞ*

 天国とはどこのことでもない、人が人を愛するところである。人が人を愛しないところは、その他のことはどうであろうが、そこは天国ではない。音楽があろうが、熱信があろうが、慈善が行われようが、そこは天国ではない。天国を作るのは誠に易い、自己を棄て人を愛すればそれで天国は即座にできるのである。なにも特別に神学論を闘わすの必要はない、人がキリストに倣って人を愛すれば、それで天国はできるのである。かくも易きことをなさないで、論じたり、企んだり、奔走したりする人々の愚かさよ。御国を来らせ給え、しかり、われらをして人を愛さしめ給え、しかして今日、直ちに、この罪の世にありて、天国を出現せしめ給え。(『内村鑑三所感集』二三五頁より)

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ともしび                       

 神がましますことは次のことから明らかである。つまり、神は私の罪を厳しく追及し、とことん咎められたこと、そしてその極限において、御子キリストの十字架によって私の罪を贖ってくださったこと。しかし、このことは他人には説明のしようのないことである。

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無教会松山聖書集会  三原正實



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からしだね第39号

からし種通信  
二〇一五年一一月 第三十九号
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ともしび                       

 「光だけの世界というものはない、それは無である。光があれば必ず影がある、この影で光が見えるのである」。これは禅仏教を世界に普及した鈴木大拙の言葉である。聖書では、「神は言われた。「光あれ」こうして、光があった」(創一・三)、「わたしは世の光である」(ヨハネ八・一二)をはじめ、光という言葉が神または神に関わる言葉として、いろいろの箇所に出て来る。中でも、「神は・・・近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることの出来ない方(Ⅰテモ六・一六)」という聖句については、大拙師の言葉が参考になる。つまり人は、神(光)そのものを見ることはできないが、光でできる影によって神を知ることができるのである。これをもっと具体的に言うと、私たちは自分の罪や愚かさに気が付くとき、というよりもそれを知らされるとき、神(光)に照らされているということである。神を、光を他に知りようがないのである。そのことに気づくことが大切だと思う。私たちは聖霊によって浄化されていくといっても、浄化が進むほど聖霊の光をより強く感じ、重い罪の身であることを痛感させられるのである。従って、慙愧は即歓喜なのである。慙愧とは、自らを天に恥じ、地に恥ずことである。そこにお照らしがあり、喜びがあるのである。

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無教会松山聖書集会  三原正實

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からしだね第38号

からし種通信  
二〇一五年一〇月 第三十八号
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ともしび                        

 マルコ第十三章は終末預言とか小黙示録と言われている。そして終末とは自然科学的な終末ではなく、宗教的終末を意味すると言われている。キリスト教のいう「終末」とは、神の国の「完成」であり、終末預言とは、すべてを神の御手に委ねる生き方への呼びかけにほかならない。つまり終末とは、キリスト教、ユダヤ教では救いである。終末に関する感覚は、我々日本人とユダヤ・キリスト教文化圏の人では異なる。
 
 終末については、キリストがこの世界に再び来臨して、最後の審判を行い、すべての敵対勢力を征服して栄光をあらわすというように新約聖書に表現されている。これをどう受けとめるべきか。私は、主の再臨や最後の審判を時間的・歴史的な未来における「いつか起こる出来事」とは考えていない。そうではなくて、これは宗教的な生き方の問題なのである。主の再臨が何時あっても主の御前に顔を上げて立つことができるように、否、今ここが主の御前であるような生き方をすべきであるとの趣旨に受け取りたい。つまり再臨も最後の審判も、今ここで自分がどう生きるか、どう行動すべきかの主体的・実存的な問題なのである。マルコ第十三章三十三節の「目を覚ましていなさい」はその意味にとりたいのである。漠然と、遠い未来に信者が復活する、その時はどんな体をまとうのか、というようなことは夢想ではなかろうか。たとい、そのような復活などなくても、キリストに罪を贖っていただいた者は、自分の十字架を背負って、主に従っていくべきである。以上は、信仰も浅く、知恵も学問もない私の個人的な考えである。

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無教会松山聖書集会  三原正實









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からしだね第37号

からし種通信  
二〇一五年九月 第三十七号
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内村鑑三の言葉

 生れながらの人は狼であるに対して、再生の恩恵に与りし信者は羊である。彼は悪魔性を除かれしと同時に、防衛攻撃の武器をことごとく取上げられたのである。彼は神に在りて強くならんが為に自己は弱くせられたのである。動物の中に羊ほど弱きものがないやうに、人の中に真のクリスチャン程弱き者は無いのである。彼は撃たれても叩かれても抵抗する事が出来ないのである。意気地なしと云へば意気地なしである。然れども事実である。(『全集』二七巻四二四頁より)

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ともしび                      

 人生は神に出会うためにある、と言われる。人は、命に係わるような病気に罹ったり、天災や事故、愛する人を亡くすような不幸、職を失うような不運などに遭遇したりしなければ、つまり、今日を明日をどう生きたらよいか分からぬような、お先真っ暗の失意のどん底に陥らなければ、神の方へは目が向かない。人間、順風満帆のときは、何事も自分の力だと思い、恵みを恵みとも思わず、自惚れて傲慢になっているものだ。これは私自身の苦い体験でもある。それが、多くの嫌な人に会い、様々の苦難を体験する中で、御恩ということに気づかされ、自分の愚かさや思い上がりが少しづつ分かってくる。一言でいえば、導きである。だから、少しばかり時間がかかるのだ。

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無教会松山聖書集会  三原正實

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からしだね第36号


からし種通信  
二〇一五年八月 第三十六号
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内村鑑三の言葉

 水の洗礼を受けよ、さらば聖霊なんじの上に降りてなんじは救われんと教ゆる宣教師多し。しかれども看よ、水の洗礼を受けし者にしてキリストの聖名を瀆して世に降る者続々あるを。水の洗礼は人を救わず、神の霊のみよくこれをなすをうるなり。余は水の洗礼を受けずして救われし人の多くを視たり、またこれを受けていまだ救拯(すくい)に入らざる人の多くを看たり。かくて余の実験と常識と余の心に寓(やど)り給う神の霊とは余に告げていう、「水の洗礼をもって救拯の必要条件となすは迷信なり」と。(『所感集』八〇頁より)

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ともしび                       

 数を追えば間違う。無教会は大きさではない。一粒の麦である。からし種である。小さな取るに足りない群れである。けれども時に応じて、天の父が日と雨をそそぎ、育ててくださる。その小さな群れに主なるイエス・キリストが共にいてくださる。だから世間的には無に近いものでありながら、無くてはならないものなのである。高価な真珠のごときものである。良い真珠は希少なのである。

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無教会松山聖書集会  三原正實
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