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からしだね第98号

からしだね ✞
二〇二〇年 十月 第九十八号
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 どうぞ、聖なる天から知恵を遣わし、
 あなたの栄光の座から知恵を
 送ってください。
 知恵がわたしと共にいて働き、
 あなたの望まれることが何かを
 わたしに悟らせるために。(知恵の書九・一〇)

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†中風の人をいやす

 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床をかついで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。(マルコ二・八~一二)
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 古代ユダヤの人々は、因果応報の考え方により、病気はその人の罪の結果であると信じていた。だから病人は身体的苦痛はもとより、精神的な苦しみも大きかった。現代では、病気や障害と罪との関連は根拠なきものとして否定されるべきであるが、中風の人のいやしの奇跡は、当時の社会的背景が前提となっているのである。イエスは、中風の人を担架で運んで来た四人の男の信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。これに対し、そこにいた数人の律法学者たちが、イエスの言葉は神を冒瀆している、と心に思うのである。彼らはイエスが神の子、救い主であることを信じていないからである。
 イエスは、彼らの考えを見抜かれ、掲句が続く。口先だけで「あなたの罪は赦される」と言うのは、「起きて、床を担いで歩け」と言うより当然たやすい。内面のことは人の眼に見えないからである。しかし、まことの信仰者なら、中風の人が立って歩くよりも、罪が赦される方がむつかしいことを知っている。なぜなら、中風は医学や生理学の進歩によって、つまり人間の知恵や力でいつか治療が可能になるかも知れない。しかし、罪は、神の赦しを得るほかないもので、人間の力が及ばない事柄だからである。これは、イエスの十字架によって罪を赦された真の信仰者には自明のことである。私たちは、普通このことを逆に考えがちである。そして、イエスは言われる。「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と。その人は皆の見ている前で起き上がり、床を担いで出て行った。中風の人は、内面の深いところで罪を赦され、重い病気も治ったのである。神の子イエスのみがなしえた神の業、奇跡である。


†神の内に安らぐ

 人の魂は究極のものを見出すまで安らぐことはない。究極のものとは、神であり、キリストであり、聖霊である。三位一体の神である。別の言葉で言えば信仰である。アウグスティヌスは言っている。「われわれの心は、あなたのうちに憩わないかぎり、安らぎを得ません。(『告白録』一・一)」。神は、私たちによって捕まえられるお方ではない。有限なものが無限なものを捕まえることはできない。私たちの方が神によって捕らえられるのである。私たちは、無限なお方、生きて働いておられるお方を、「神」という言葉でピン止めし、固定しようとする。言葉とはそういうものであるが、神はいかなる概念や言葉でも規定されない。固定され、規定されるのは、私たち人間の方である。私たちは、神によって造られ、生かされ、保たれている被造物に過ぎない。私たちは、神から啓示を賜った範囲において神を知ることができるのみである。私たちは、自分の罪悪を照らされ、懲らしめられ、思い上がりや有限性を知らしめられることによって、神の存在を知ることができる。すべて神の愛と慈しみから出ることである。


†主の栄光

 モーセが「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」(出エジプト記三三・一八~二三)
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 この短い節に、神御自身について驚くべき事柄が啓示されている。神は私たちにあらゆる善い賜物を与えてくださる方であること、神の御名は「主」であること、神の恵みは一方的なもので、神が「恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」のであること。つまり、神の恵みは人間の努力や善行に対する報償として与えられるものではなく、人間側から手を出して請求できるものではないこと。恵みはすべて神の御旨、御計画によるのであること。また、私たちは神の姿を見ることができないこと、神を見た者は生きていられないこと。つまり神は、私たちの小さな頭で理解したり、規定したり、捉えたりできないお方であること。そして、神の後ろ姿は見えるが、お顔を拝見することはできないこと。つまり、この世への神の介入、その御業については、それがなされている最中には私たちには分からないのである。私たちは、後で振り返ったとき、神の導きや助け、懲らしめを悟ることができるのである。


†信前信後

 信仰とは奇跡の事柄であり、神学や聖書知識ではない。また、信仰個条を唱えたり、讃美歌を歌ったり、教会に熱心に通うことでもない。信仰を賜ると、それまで自分にとって存在しなかった神が存在するようになるのである。自分が神の道具となり、神が自分をお使いになって活動を始めることになる。このため、人は信前と信後はまったく異なった生き方をするようになる。一言でいえば、生まれ変わるのである。「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」(ヨハネ三・三)。また、パウロは言っている。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ二・二〇)。このようなことが起こるのである。人は、信後は命果てるまで神と共に生き、肉体の死後は神の御許へ帰らせていただくのである。彼の信後の生涯は、ある意味で、神のこの世への顕現であり、彼の言動や事業は神がこの世に記されたメッセージである。まことの信仰とは驚くべき事柄なのである。


†信仰に生きる

 信仰とは神によって生きることである。己が知恵や才覚ではなく、神に導かれ、神に信頼して生きることである。有限な自己や他人を当てにせず、全能の神に任せまいらせることである。だから、何の取り柄もなくても大丈夫。ただ信仰によって生きるのである。それが神によって義(正しい)とされる道である。次のパウロの聖句が証文である。「正しい者は信仰によって生きる。」(ロマ一・一七)


†骨の骨、肉の肉

 主婦は魔法使いである。あまりに当たり前のことなので普段何とも思わないが、主婦はそのままでは食べられないものや美味くないものを料理して御馳走に変えてくれる。乏しい家計をやり繰りして一家を切り盛りし、夫を支え、子を産み育て、パートで働きにも出る。老親の介護も担う。よく考えてみると、これは魔法使いよりもすごい業である。それだけ女性に負担がかかっているのである。感謝の他ない。こんなことを書くと、お追従を言うな、男女共同参画に反する、役割分担意識そのもの、などと目くじらを立てないでほしい。現在は男女共働きが多いから、なおさら男は頭が上がらない。ソクラテスの妻、クサンチッペも恐らく悪妻ではなかったであろう。ソクラテスの方が変わり者だったのだ。
 閑話休題。ごく普通の主婦のすごい能力に今さながら驚かされる。それは石をパンに変えたりする「奇跡」より素晴らしい。私たちの暮らしは、平凡の中に非凡が、普通の中に奇跡が、当たり前の中に神の祝福が、隠されているのではなかろうか。刮目すれば、私たちは驚くべき恵みの中に生かされている。そのことに気がつく人は幸いである。不平不満を言っては申し訳ない。私たちの眼は、サタンに目隠しされて、何か大切なものが見えなくなっているらしい。主なる神が連れて来てくださった「骨の骨、肉の肉」に感謝である(創世記二・二三)。


†とうごまの木

 ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。(ヨナ書四・五~六)
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 朝食後、近くの農道で十分ほど自己流の体操をする。そこに小さな木陰があり、夏の朝はそれがありがたい。とうごまの木を喜んだヨナの気持ちが分かるというものである。ところが、「翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせたので木は枯れてしまった。」(ヨナ書四・七)とあり、ヨナは太陽の熱射でぐったりとなるのである。もとより、これは神の深慮による。幸い、我が方の木陰はその心配はなさそうだが、朝起きるのが遅いと陰はなくなっている。とまれ、稲の青さと時折吹く風が心地よい。

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今月の聖句

 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。・・・すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。(ロマ書一一・三三~三六)

 *入信の前は、自分が世界、宇宙の中心である。いわば自分が神の立場に立っているのである。その自我が打ち砕かれて、ちっぽけな真実の自己に目覚めるとき、人は神を信ずるようになる。もともと神の御手の中にあったことを知るのである。


 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ一七・三)

 *永遠の命とは、どこか遠い未来を眺めることではない。今ここに、神を、イエス・キリストを、知るところに永遠の命がある。その時、あなたはもう永遠の命を生きているのだ。「知る」とは、知的な知り方ではない。信じ知ること、啓示によって知ること。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
℡080・6384・8652
E-mail masa73@gc5.so-net.ne.jp
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《読者の皆様へ》
何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。

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