からしだね第92号
からしだね 十
二〇二〇年 四月 第九十二号
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心の清い人々は幸いである、
その人たちは神を見る。(マタイによる福音書五・八)
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ロトの妻 (創世記一九章)
神は堕落と背徳の町ソドムとゴモラを滅ぼす決断をされた。しかし、神はアブラハムを御心に留めておられるゆえに、彼の甥のロトをソドムから救おうとされた。ある夜、ロトの家に泊まった二人の客人、実は、彼らは御使いであった。彼らは、自分たちがこの町を滅ぼしに来たことをロトに告げ、身内の者を連れてこの町からすぐ逃げるようにと言った。ロトは嫁いだ娘たちのところへ行ってそのことを話したが、婿たちは本気にしなかった。夜が明けるころ、御使いたちは、「さあ、早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町の巻き添えになってしまう」とロトをせきたてた。彼らが町外れまで来たとき、御使いたちは言った、「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。さもないと、滅びることになる」。ロトたちがやっと目指す小さな町まで逃れたとき、神はソドムとゴモラの上に天から硫黄の火を降らせ、町と住民をことごとく滅ぼされた。そして、何ということか。ロトの妻は後ろを振り返るなという神の戒めに従わず、途中で後ろを振り向いたので、塩の柱になってしまった。
旧約聖書のこの物語は、信仰生活をいとなむ今日のキリスト者への教訓でもある。罪に染まった町、ソドムとゴモラとは他でもない、今日の我が国である。原発の重大事故を一向に反省するでなく、ギャンブルなら何でも揃っているこの日本に更にカジノを作ろうとする。人々は損得と享楽の追求に走り、政府は腐敗して無責任極まりない。マスコミも批判精神を失った。このような国に神が審判を下さぬはずがない。天から硫黄の火が降らぬはずはない。
このような曲った世にありながら、キリスト者の生活は、一日一日が神の国への旅路である。神の御旨に沿い、主イエス・キリストの御跡に従う生活である。信仰とはただそれだけなのである。ロトの妻は、残してきた財産であろうか、この世に未練があって振り返った。悪徳の町は、それに引かれる者には美しく見えるのである。キリスト者は、損得、強弱、美醜といったこの世の価値にもはや惑わされることなく、永遠の命の国を目指して歩んでいるはずである。お互い、執着心を捨て、塩の柱にされないようにしたい。
「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ五・四~五)
真の幸い
イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ十一・二七~二八)
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子や孫がもっと元気であったら、優秀であったら、美しくあったら、と願わぬ人はいない。しかし、これが欲というもので、ないものねだりである。そこには感謝の心がない。他との比較の世界にいる限り、いくら恵まれていても相対的満足しか得られない。「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」というイエスの御言葉は、比較や差別や分別の世界を超えている。ただ「神の言葉を聞き、守る」、他の一切を顧慮しないところに出たときに真の幸いがあるのである。神を信じる以外に絶対的満足はないのである。主イエスは有名な「マルタとマリア」の記事で、「必要なことはただ一つだけである」(ルカ一〇・四二)と姉のマルタに言われた。人生において大事なことはあれやこれやではない。それは、ただ一つ。妹のマリヤのように、主の御言葉に耳を傾けることである。
ヨブの苦難
型どおりの美しい信仰から、神に選ばれたまことの信仰へと導かれる。義人ヨブは突然襲って来た災難によって悲惨な境涯に陥れられた。これは神の黙許の下にサタンが為した試みであったが、人間には知りようのない世界の消息である。ヨブは全財産とそれまでの確たる地位とをあっという間に失い、息子、娘を亡くし、妻にも見放される。さらに、全身を重い皮膚病に侵され、灰の中に座って素焼のかけらで体中をかきむしる。
わたしの生まれた日は消えうせよ。
なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
死んでしまわなかったのか。
せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。(三・三、一一)
彼は自身に対する不当な扱いを神に訴え、神にあらがう。自分は正しいと確信していたからである。慰めるために訪ねてきた三人の友人たちは、ヨブの苦しみを理解せず、「罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあろうか。全能者の戒めを拒んではならない」と神の側に立ち、因果応報の論理でヨブを責める。ヨブの不慮の災難に同情し、憐れんでくれるはずの親しい友、その彼らが慰める振りをして苦しめる。ヨブが罪を犯したからそのような目に遭うのだ、自業自得だ、との厳しい見方をするのである。苦しみや不幸や災難は、所詮、当人以外には他人事。ヨブは自分がこのような苦境に陥ったその不条理をどこまでも神に問うのである。しかし、「神がわたしに非道なふるまいをし、わたしの周囲に砦を巡らしている」(一九・六)とあらがいつつも、神への信仰を貫き通すのである。
わたしは知っている。
わたしを贖う方は生きておられ
ついには塵の上に立たれるであろう。
この皮膚が損なわれようとも
この身をもって
わたしは神を仰ぎ見るであろう。
このわたしが仰ぎ見る。
ほかならぬこの目で見る。
腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。(一九・二五~二七)
ヨブは友人たちと重くかつ果てしのない議論を重ね、互に反論し合い、語り尽くした。そして最後に、ヨブは苦しみのどん底で神に出会うのである。嵐の中に神が顕現し、神はその御言葉の力と権威でもってヨブを圧倒する。神の御業は人間の理性や知性をはるかに超えた驚くべきものであることを、ヨブは改めて思い知らされ、その御前にひれ伏す。
主は嵐の中でヨブに答えて仰せになった。
これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて
神の経綸を暗くするとは。
男らしく、腰に帯をせよ。
わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
わたしが大地を据えたとき
お前はどこにいたのか。
知っていたというなら
理解していることを言ってみよ。
誰がその広がりを定めたかを知っているのか。(三八・一~五)
神に選ばれるということは、このようなことである。神を愛する者、否、愛される者は、神に徹底的に打ち砕かれるのである。「地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを、すべての罪のゆえに罰する。」(アモス書三・二)とあるとおりである。神を求めること、神に選ばれることは恐ろしいことである。何よりもキリストの十字架がそれを表わしている。まことの信仰の道は安易にたどれるものではない。それは神に選ばれた者のみが歩む道である。だから苦難は当たり前である。しかし、その苦難は神がお引き受けくださり、神が忍耐してくださるのである。この論理は通常の論理ではない。ゆえに信仰者は世に理解されなくて当然である。
ヨブは主に答えて言った。
あなたは全能であり
御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
「これは何者か。知識もないのに
神の経綸を隠そうとするとは。」
そのとおりです。
わたしには理解できず、わたしの知識を超えた
驚くべき御業をあげつらっておりました。
「聞け、わたしが話す。
お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます。(四二・一~六)
ヨブは神の顕現によって、その圧倒的な御言葉と御力によって、ぺしゃんこにされ、頭の上げようがなくなった。己の無知と分限を知らしめられた。これが救いである。彼は塵と灰の上に伏し、自分を退ける。友との論争の中で自己の義(ただしさ)を主張し、神にあらがったことを悔い改めるのである。しかし、痛悔は最も甘美なる瞬間でもある。ヨブはもはや何も要らなくなった。全能なる神にまみえることができたのだから。救いは逆説である。安易な考えで信仰に手を出すべきではない。まことの信仰とは美しい、きれいごとではない。神に強いられ、導かれて歩む苦難の道である。ヨブは神に選ばれた者であり、また最も神に愛された者である。ゆえに最も重い苦難に遭わねばならなかったのである。真理は逆説であるばかりでなく、因果応報の論理を超えている。神の顕現、神との出会いにおいて、ヨブはそのことをはっきり自覚せしめられたのである。
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主に向かって歌い、ほめ歌をうたい
驚くべき御業をことごとく歌え。
聖なる御名を誇りとせよ。
主を求める人よ、心に喜びを抱き
主を、主の御力を尋ね求め
常に御顔を求めよ。
主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を
主の口から出る裁きを心に留めよ。(詩篇一〇五・二~五)
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自主返納
昨年末に運転免許証を自主返納した。五十年間無事故無違反である。今年一月に七十三歳になったばかりなので少し早いのであるが、実は、もう二十年近く車を運転しておらず、運転すれば事故の元であるので、免許を返納したのである。退嬰的なようではあるが、遠くへは汽車か電車で、日用は電動アシストの自転車で事足りる。いろんな家庭の事情に加え、近年は視力も衰えるなどして、自ずからこのような暮らし方になってきたので、これも神のお導きであろう。唯一の資格もなくなり、老躯の始末の他にもはや残るものはない。
体は正直である。老いによる体の衰えはまぎれもない現実である。アタマはいろいろと別の理由をさがし、言い逃れをしようとするが、事実はごまかせない。病も老いも、体の方から教えてくれるのである。それによってやっとアタマが気づく。神は事実をもって教えてくださるのである。
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今月の祈り
父なる神よ、あなたのみ光によって私たちは自分の罪を知らされます。私たちをまことの悔い改めにお導き下さい。主イエスよる救いの恵みをお与えください。アーメン。
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発行 神恩キリスト教会 三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。
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二〇二〇年 四月 第九十二号
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心の清い人々は幸いである、
その人たちは神を見る。(マタイによる福音書五・八)
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ロトの妻 (創世記一九章)
神は堕落と背徳の町ソドムとゴモラを滅ぼす決断をされた。しかし、神はアブラハムを御心に留めておられるゆえに、彼の甥のロトをソドムから救おうとされた。ある夜、ロトの家に泊まった二人の客人、実は、彼らは御使いであった。彼らは、自分たちがこの町を滅ぼしに来たことをロトに告げ、身内の者を連れてこの町からすぐ逃げるようにと言った。ロトは嫁いだ娘たちのところへ行ってそのことを話したが、婿たちは本気にしなかった。夜が明けるころ、御使いたちは、「さあ、早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町の巻き添えになってしまう」とロトをせきたてた。彼らが町外れまで来たとき、御使いたちは言った、「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。さもないと、滅びることになる」。ロトたちがやっと目指す小さな町まで逃れたとき、神はソドムとゴモラの上に天から硫黄の火を降らせ、町と住民をことごとく滅ぼされた。そして、何ということか。ロトの妻は後ろを振り返るなという神の戒めに従わず、途中で後ろを振り向いたので、塩の柱になってしまった。
旧約聖書のこの物語は、信仰生活をいとなむ今日のキリスト者への教訓でもある。罪に染まった町、ソドムとゴモラとは他でもない、今日の我が国である。原発の重大事故を一向に反省するでなく、ギャンブルなら何でも揃っているこの日本に更にカジノを作ろうとする。人々は損得と享楽の追求に走り、政府は腐敗して無責任極まりない。マスコミも批判精神を失った。このような国に神が審判を下さぬはずがない。天から硫黄の火が降らぬはずはない。
このような曲った世にありながら、キリスト者の生活は、一日一日が神の国への旅路である。神の御旨に沿い、主イエス・キリストの御跡に従う生活である。信仰とはただそれだけなのである。ロトの妻は、残してきた財産であろうか、この世に未練があって振り返った。悪徳の町は、それに引かれる者には美しく見えるのである。キリスト者は、損得、強弱、美醜といったこの世の価値にもはや惑わされることなく、永遠の命の国を目指して歩んでいるはずである。お互い、執着心を捨て、塩の柱にされないようにしたい。
「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ五・四~五)
真の幸い
イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ十一・二七~二八)
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子や孫がもっと元気であったら、優秀であったら、美しくあったら、と願わぬ人はいない。しかし、これが欲というもので、ないものねだりである。そこには感謝の心がない。他との比較の世界にいる限り、いくら恵まれていても相対的満足しか得られない。「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」というイエスの御言葉は、比較や差別や分別の世界を超えている。ただ「神の言葉を聞き、守る」、他の一切を顧慮しないところに出たときに真の幸いがあるのである。神を信じる以外に絶対的満足はないのである。主イエスは有名な「マルタとマリア」の記事で、「必要なことはただ一つだけである」(ルカ一〇・四二)と姉のマルタに言われた。人生において大事なことはあれやこれやではない。それは、ただ一つ。妹のマリヤのように、主の御言葉に耳を傾けることである。
ヨブの苦難
型どおりの美しい信仰から、神に選ばれたまことの信仰へと導かれる。義人ヨブは突然襲って来た災難によって悲惨な境涯に陥れられた。これは神の黙許の下にサタンが為した試みであったが、人間には知りようのない世界の消息である。ヨブは全財産とそれまでの確たる地位とをあっという間に失い、息子、娘を亡くし、妻にも見放される。さらに、全身を重い皮膚病に侵され、灰の中に座って素焼のかけらで体中をかきむしる。
わたしの生まれた日は消えうせよ。
なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
死んでしまわなかったのか。
せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。(三・三、一一)
彼は自身に対する不当な扱いを神に訴え、神にあらがう。自分は正しいと確信していたからである。慰めるために訪ねてきた三人の友人たちは、ヨブの苦しみを理解せず、「罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあろうか。全能者の戒めを拒んではならない」と神の側に立ち、因果応報の論理でヨブを責める。ヨブの不慮の災難に同情し、憐れんでくれるはずの親しい友、その彼らが慰める振りをして苦しめる。ヨブが罪を犯したからそのような目に遭うのだ、自業自得だ、との厳しい見方をするのである。苦しみや不幸や災難は、所詮、当人以外には他人事。ヨブは自分がこのような苦境に陥ったその不条理をどこまでも神に問うのである。しかし、「神がわたしに非道なふるまいをし、わたしの周囲に砦を巡らしている」(一九・六)とあらがいつつも、神への信仰を貫き通すのである。
わたしは知っている。
わたしを贖う方は生きておられ
ついには塵の上に立たれるであろう。
この皮膚が損なわれようとも
この身をもって
わたしは神を仰ぎ見るであろう。
このわたしが仰ぎ見る。
ほかならぬこの目で見る。
腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。(一九・二五~二七)
ヨブは友人たちと重くかつ果てしのない議論を重ね、互に反論し合い、語り尽くした。そして最後に、ヨブは苦しみのどん底で神に出会うのである。嵐の中に神が顕現し、神はその御言葉の力と権威でもってヨブを圧倒する。神の御業は人間の理性や知性をはるかに超えた驚くべきものであることを、ヨブは改めて思い知らされ、その御前にひれ伏す。
主は嵐の中でヨブに答えて仰せになった。
これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて
神の経綸を暗くするとは。
男らしく、腰に帯をせよ。
わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
わたしが大地を据えたとき
お前はどこにいたのか。
知っていたというなら
理解していることを言ってみよ。
誰がその広がりを定めたかを知っているのか。(三八・一~五)
神に選ばれるということは、このようなことである。神を愛する者、否、愛される者は、神に徹底的に打ち砕かれるのである。「地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを、すべての罪のゆえに罰する。」(アモス書三・二)とあるとおりである。神を求めること、神に選ばれることは恐ろしいことである。何よりもキリストの十字架がそれを表わしている。まことの信仰の道は安易にたどれるものではない。それは神に選ばれた者のみが歩む道である。だから苦難は当たり前である。しかし、その苦難は神がお引き受けくださり、神が忍耐してくださるのである。この論理は通常の論理ではない。ゆえに信仰者は世に理解されなくて当然である。
ヨブは主に答えて言った。
あなたは全能であり
御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
「これは何者か。知識もないのに
神の経綸を隠そうとするとは。」
そのとおりです。
わたしには理解できず、わたしの知識を超えた
驚くべき御業をあげつらっておりました。
「聞け、わたしが話す。
お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます。(四二・一~六)
ヨブは神の顕現によって、その圧倒的な御言葉と御力によって、ぺしゃんこにされ、頭の上げようがなくなった。己の無知と分限を知らしめられた。これが救いである。彼は塵と灰の上に伏し、自分を退ける。友との論争の中で自己の義(ただしさ)を主張し、神にあらがったことを悔い改めるのである。しかし、痛悔は最も甘美なる瞬間でもある。ヨブはもはや何も要らなくなった。全能なる神にまみえることができたのだから。救いは逆説である。安易な考えで信仰に手を出すべきではない。まことの信仰とは美しい、きれいごとではない。神に強いられ、導かれて歩む苦難の道である。ヨブは神に選ばれた者であり、また最も神に愛された者である。ゆえに最も重い苦難に遭わねばならなかったのである。真理は逆説であるばかりでなく、因果応報の論理を超えている。神の顕現、神との出会いにおいて、ヨブはそのことをはっきり自覚せしめられたのである。
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主に向かって歌い、ほめ歌をうたい
驚くべき御業をことごとく歌え。
聖なる御名を誇りとせよ。
主を求める人よ、心に喜びを抱き
主を、主の御力を尋ね求め
常に御顔を求めよ。
主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を
主の口から出る裁きを心に留めよ。(詩篇一〇五・二~五)
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自主返納
昨年末に運転免許証を自主返納した。五十年間無事故無違反である。今年一月に七十三歳になったばかりなので少し早いのであるが、実は、もう二十年近く車を運転しておらず、運転すれば事故の元であるので、免許を返納したのである。退嬰的なようではあるが、遠くへは汽車か電車で、日用は電動アシストの自転車で事足りる。いろんな家庭の事情に加え、近年は視力も衰えるなどして、自ずからこのような暮らし方になってきたので、これも神のお導きであろう。唯一の資格もなくなり、老躯の始末の他にもはや残るものはない。
体は正直である。老いによる体の衰えはまぎれもない現実である。アタマはいろいろと別の理由をさがし、言い逃れをしようとするが、事実はごまかせない。病も老いも、体の方から教えてくれるのである。それによってやっとアタマが気づく。神は事実をもって教えてくださるのである。
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今月の祈り
父なる神よ、あなたのみ光によって私たちは自分の罪を知らされます。私たちをまことの悔い改めにお導き下さい。主イエスよる救いの恵みをお与えください。アーメン。
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発行 神恩キリスト教会 三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。
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2020-07-15 17:24
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