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からしだね第83号

からしだね  十
二〇一九年 七月 第八十三号
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あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。(ルカによる福音書二二・二六)

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オリーブ山で祈る

 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。すると天使が天から現われて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」(ルカ二二・三九~四六)
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 イエスは弟子たちと最後の晩餐を終えたあと、オリーブ山のゲッセマネという所へ行かれた。祈るためである。ユダの裏切りにより、死が間近に迫っていることをイエスは身に感じておられた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」―「この杯」とは、受難、つまり死のことである。どうすることが神の御心に適うことなのか。死ぬことか生きることか。生き延びて神の国の福音をさらに告げ知らせるべきか。しかし、三度の受難予告にあるとおり、イエスはご自分が世の指導者たちによって殺されなければならないこと、三日目に復活する運命にあることをますます確信するようになっていた。すでにこの杯を受ける覚悟はできている。しかし今、実際に、己が使命を果たすべき時が迫って来る中で、さすがに言い難い不安と恐れに襲われたのであろう。心中の葛藤である。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」―イエスは父なる神の御心を問い、神に祈る。イエスは御父からの使命を果たすためにこの世に遣わされて来た。自分の生涯は、この杯を飲み干すためにある。この苦闘の祈りにより、黙って死に渡されることが神から自分に課せられた使命であり、それが神の御心であることを改めて納得され、その運命を受け入れられた。そして神にすべてを委ねられた。信仰の絶頂である。「天使が天から現われて、イエスを力づけた。」―神の目に見えない助けである。
 ゲッセマネにおいて主イエスは、私たちに信仰の究極をお示しくださった。私たちはこの苦しみを克服されたイエスを、「まことの神であると同時に、まことの正しい人間」として告白することを躊躇しないのである。思えば、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ三・二二)。さらに、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(同九・三五)という神の御声には深い意味が隠されていたことをお悟りになったに違いない。イエスが神の御心に従順に生きてくださったからこそ、私たち人間が罪を赦され、救われる唯一の道が開かれたのである。


貪欲

 一を欲しがっているから一を与えれば、二でないと嫌だという。二を欲しがっているから二を与えようとすると、五でないとだめだという。もっともっとの心、貪欲の霊が、夫をあるいは妻を苦しめる。欲心が折角の家庭の平和を崩していく。古人は「足るを知る」と言った。与えられたもので満足する心、感謝の念である。私たちは、贅沢は出来ないが、質素な生活をすれば、それなりに暮していける。それで十分ではなかろうか。主イエス・キリストは、「私たちに必要な糧を今日与えて下さい」(マタイ六・一一)と祈るよう、弟子たちにお教えになった。確かに、それ以上を願うのは貪欲というもの。その日一日、食べる物があり、着る物と住む所があれば満足すべきである。そして、それは私たちに既に恵みとして与えられているのではなかろうか。主は言われる、「あなたはすでにいただくべきものをいただいている。身に余る幸いではないか。この上何を求めるのか」。私は答える、「はい、この救いを、幸いを、そして平安を、妻子はじめ身の回りの人々に伝えたいだけであります。共に喜ぶ者となるために」。貪欲は災いのもとである。質素な生活に足りれば、富は富豪にまさる。身に病を養えども、今日を喜べば千年の長寿にまさる。今賜っているものを喜ばぬ者に、神は加えてお与えにはなるまい。


奇跡とバナナ

 福音書にはイエスのなさった多くの奇跡が記されている。その元は伝承であろうが、現代に生きる私たちはそれらの驚くべき奇跡をどのように受け止めたらよいのであろうか。私見を述べたい。奇跡の記事は、人の言葉をもっては到底表すことのできない神(イエス)の御業を、神智をもって生き生きと表現したものである。よって、奇跡の告げる深い真実は、読む人の信仰の程度に応じ、聖霊によって教えられるのである。奇跡については、神は全能だから何でもお出来になるということで、表面的理解に留まってしまうべきではない。例えば、次のヨハネ第九章の生まれつきの盲人が癒された奇跡の記事である。
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 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もあれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。(九・一~九)
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 このイエスのなさった奇跡をどう読むかである。イエスは神の子であり、神と本質を同じくする方であるから、その御力によって、文字どおり生まれながらの盲人の目が見えるようになったのだと受けとめる人が多い。もとより、それは間違いではない。聖書にそう書いてあるのだから。しかし、より深い意味をこの奇跡に見い出すことも可能である。それはこうである。(A)盲人が信仰を賜り霊の眼が開けたこと、つまり救われたことが真実の出来事であって、(B)盲人の肉の目が開けたことは、その真実を表わすシンボルとして記されているのだと受け止めるのである。即ち、この奇跡が告げようとしているのは(A)の出来事なのであって、それを悟った者には、(B)の出来事にはもはや用はないのである。しかるに、あくまで(B)の肉の目が明いたことにこだわる者は、本質とシンボルとを見誤り、聖書の本意から外れるのである。そのことは、この奇跡を信じなかったユダヤ人たちが盲人であった人の両親を問い詰めたところ、「本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」(ヨハネ九・二一)と答えた言葉の含意からも立証されるのである。つまり、奇跡は一本のバナナである。(B)はバナナの皮で、(A)が中身である。私たちは皮をむいてバナナを食べるのであって、その時にはもはや皮に用はない。バナナの皮は形であり、中身は本質であるが、本質を表現するためには、形が要るのである。しかし、いつまでも表面のバナナの皮にこだわっていると、何十年聖書を読んでも、人間が生まれ変わったりはしないのである。主イエスに唾でこねた泥を目に塗っていただかないと、私たちは目覚めることができないのである。生まれつきの盲人とは、回心前の私たちのことなのである。
 福音書にはイエスのなさった多くの奇跡が記されている。その多くは、文字どおりのことが事実として生起したと受けとめるべきであろうが、中には今回の記事のように、より深い真実を読み取るべきものもある。もとより、その場合も、一律の仕方で解釈することはできない。個々の奇跡ごとに、聖霊に教えていただくのである。奇跡の記事は、簡単そうで一筋縄ではいかないのである。

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聖パウロの言葉

 「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。(Ⅱコリント四・一三)

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神命

 すぐ隣りにいる人に、あなたが救われた喜びを告げよ。かたくるしい教義やむつかしい理屈でなく、あなたの喜びを告げよ。これ伝道なり。大事業をなすに及ばず。それはあなたの任ではない。ただキリストの復活を告げよ。己が救われし喜びを告げよ。己が復活を告げよ。他となんら競うことなし。これ誰にでも可なる事業なり。「神を畏れる人は皆、聞くがよい、神がわたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。」(詩篇六六・一六)


光あれ!

 私たちは、自分が今どれほど恵まれているかに気づくことが何よりも大切である。しかし、この簡単な事実に、はっと目が覚めるのに一生かかるのである。不平不満と自己中心主義でずっと生きてきた。「とわの闇より救われし身の幸なにに比ぶべき」という歌があるが(おっと、これは異教の歌であった)、神の恵みに目が覚めるまでは人生は闇の中である。不幸は自らが招き、地獄には自分から進んで陥るのである。「闇から光が輝き出よ」(Ⅱコリント四・六)との神の声をいつかどこかで聞くほかはないのである。


救いの逆説

 私たちは救われないから救われるのである。自分で自分を救うことができないから、神様がお救いくださるのである。神様からの一方的な救いである。信徒は、生きている時も死ぬ時も、神様とイエス様にすべてお任せするのである。信仰は、結局それだけであって、学問や知識ではない。そのこともまた神様に教えていただくのである。

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 今日こそ主の御業の日。
 今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
 どうか主よ、わたしたちに救いを。
 どうか主よ、わたしたちに栄を。
 祝福あれ、主の御名によって来る人に。
 わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。(詩篇一一八・二四~二六)

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今月の祈り
 
 主よ、引きこもりの人たちに自立の心をお与えください。彼らは自力では現状を変えることができないのです。「起き上がりなさい。立って歩きなさい」というあなたの御言葉が彼らの胸に届き、彼らが明るい戸外に飛び出すことができますように。家族にも希望と平安が与えられますように。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一愛媛県伊予市下吾川四八八―三
[電話]080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
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《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストを信じさせていただきましょう。まことの信仰による喜びの生活を求める方のご入会をお待ちします。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。
(解題)「からしだね」は「くろがらし」の種子。主イエスは極めて小さなものから偉大な成長をとげる譬えとされています。 
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