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からしだね第100号

からしだね ✞ 二〇二〇年 十二月 第一〇〇号
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 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。(ルカ二四・三〇~三一)

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†召しに応える

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、すこし進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。(マルコ一・一六~二〇)
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 信仰とは神の呼び声に応えることである。だから、本来、何も難しいことではない。素直に「ハイ」と言いさえすればそれで良いのである。また、信仰とはイエスの弟子になることである。シモン(ペトロ)とその兄弟アンデレは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけられたイエスにすぐに従った。ヤコブとヨハネの兄弟も同様である。四人とも無学で素朴なガリラヤ湖の漁師であったが、イエスが並の人間でないことを直感したのであろう。イエスの方もまた、彼らの純真を見抜いて声をかけられたに違いない。二〇〇〇年前のユダヤの片田舎のこの小さな出来事から、キリスト教は始まるのである。
 
 貧困や病気や悩みなどいろいろの動機や契機から、人は信仰の道に入るのであるが、やがて自分の十字架を担ってイエスの御跡に従う道へと導かれる。人生の根本的解決が与えられ、苦難の人生が喜びと救いの人生へと転換するのである。生きる知恵と力が与えられ、一日一日を導かれて平和のうちに暮らすことができるのである。金や地位や権力など、この世の宝をもはや求める必要はない。本当の高価な宝を見出したら、そんなものは「ちりあくた」とは言わないが、欲しくなくなるのである。今いただいているもので「足るを知る」のである。こういう結構な身にしていただいたからには、それを他の人々にもお勧めするのは当然である。お裾分けである。おのずから「人間をとる漁師」になるのである。それが伝道である。ところが、人々はそれに決して耳を傾けようとしない。家族や友人、知人など身近な人こそまさにそうである。聖パウロは言っている。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(Ⅰコリント二・一四)と。「自然の人」とは生まれながらの人、信仰を賜っていない人のこと。この世の大多数の人々は、神について、イエス・キリストについて、信仰について、いくら話を聞いてもアタマから信じる気がない。その人々にとって、それは実に馬鹿らしいことなのである。

 信仰は、賢愚、学歴、家柄、貧富などに全く関わりがない。信仰とは自分の知恵や教養によって信じることではない。一所懸命努力して信じ込もうとすることではない。自分が何かを信じていると思い込むことでもない。そうではなくて、信仰は神から恵みとして賜るものなのである。聖パウロは、「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊に教えられた言葉によっています。」(Ⅰコリント二・一二~一三)、と言っている。「神からの霊」とは「聖霊」「みたま」のことである。まことの信仰者とは、この聖霊を賜った人のことである。満足の人である。信仰イコール聖霊と言ってもよい。その人は、これ以上ないものをロハで戴いたのである。
 聖ペトロは言っている。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒言行録二・三八)。しかし、信仰者はうぬぼれてはならない。聖パウロは釘を刺している。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(Ⅰコリント一・二六~二九)
 
 信仰とは、概略、このようなものである。その神髄は信仰の道に入って、自らが体験するしかない。信仰を賜った人、聖霊を戴いた人は、見た目は昔と変わらない。以前と同じく貧しい愚かな凡夫であるが、内面は神によって切開の大手術を受け、全く新しい人間に生まれ変わっているのである。その彼が人間をとる漁師となって、神の口となって信仰をお勧めするのである。聞く耳のある者は聞いて欲しい。主イエスは言う、「『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである。」(ヨハネ七・三七~三九)。キリスト者は、次のような奇跡の日が来ることを待ち望んでいる。
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 その日には、耳の聞こえない者が
 書物に書かれている言葉をすら聞き取り
 盲人の目は暗黒と闇を解かれ
 見えるようになる。(イザヤ二九・一八~一九)


†神との通信

 パソコンやスマホの発達で、人間同士のコミュニケーションや情報通信はこの上なく便利になった。しかし、その反面、人間は神とのつながりをすっかり失ってしまった。それは、人間が人生の目的を見失い、いつの間にか手段と目的を取り違えたからである。人生の究極の目的は神を知ることであるが、そのことを忘れてしまった。情報通信技術はいかに高度に発達してもこの世の手段にすぎない。しかるに、全体はこの世とあの世からなる。私たちは、天上とのつながりを回復しなければならない。


†老後と信仰

 人は何のために生きていくのだろう。若いときは、遊びや勉学、仕事、子育てなどやりたいこと、やらねばならないことが目の前にたくさんあって、人生について考えるヒマがなかった。大方の人はそうであろう。しかし、定年退職や子育てを終えて、もはや若くない自分、社会的に用済みの自分に気づいたとき、どうするか。何を頼りに長い老後を生きていくのか。新たな仕事や趣味、ボランティアを見つけるか。才覚のある人にはそれも可能であろうが、それにも限界がある。早晩、老いと病と孤独に苛まれることになる。これは、誰にも避けることができないのである。しかし、まことのキリスト者はいかなる困難、苦境にも耐えることができる。少なくとも耐えようとする意志を失わない。カネがなくても病弱であっても生きていけるのである。信仰の力である。信仰は生きる力を賜るのである。生きる目的を与えられるのである。苦難に耐える力を付与されるのである。信仰なくして、人生を、特に長い老後をどうして生き通すことができようか。


†究極のインストール
 
 行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ一〇・八)
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 パソコンソフトをインストールしながらこう考えた。信仰こそは究極のインストールであると。優れたパソコンソフトは有料であるが、神が飢え渇く人々の魂に注ぎ入れてくださる信仰、つまり聖霊は無料である。しかも、それは無価(むげ)である。価値をはかることのできないほど貴重この上ない宝である。しかし、それはこちらからは手を出せない、賜るしかないものである。聖霊を賜ることは永遠の命を賜ることである。この高価な真珠をただで戴かないのは、まことにもったいないことである。(マタイ一三・四五~四六)


†驚くべき恵み

 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。(ロマ八・二八~三〇)
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 「ローマの信徒への手紙」は聖パウロの最晩年に書かれた書簡であり、パウロ神学の最高峰とされる。パウロが私たちに開示するのは、驚くべき神の御計画、つまりイエス・キリストの贖いによる私たちの救いである。ここに掲げた三節の短い言葉の中にも、驚嘆すべき事柄が記されている。「神を愛する者たち」は、神によって「御計画に従って召された者たち」であること。その者たちには「万事が益となるように共に働く」こと。そして、その者たちは神が「前もって知っておられた者たち」であること。神はその者たちを「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められ」たこと。それは、御子イエス・キリストが「多くの兄弟の中で長子となられるため」であること。「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し」、その「者たちを義とし」、「義とされた者たちに栄光をお与えになった」こと。平易な言葉の中に、この上なく深い真理が書かれている。
 
 キリスト者はこのパウロの言葉を聞いて欣喜雀躍すべきである。何の取り柄もない、罪深い私たちが、私たちの知らない世界において神に選ばれ、召し出され、もはや罪を問われることなく、キリストの末弟としてキリストの御後に従う者とされ、キリストに似たものに変えられていくのである。これ以上の奇跡、そして喜び、栄光があろうか。こんなウマイ話があろうか。あなたはこれを信じられるか。パウロの言葉は、パウロが啓示によって神から直接知らされたものであるから、人間の理性では証明できない性質のものである。真理は人間が考え出すものではない。私たちのアタマで論証しようがないのである。要は、私たちが信じるか否かということである。私は信じる。神の一方的な驚くべき恵みと福音を。語ることも書き尽くすこともできない自分の内的・外的体験に照らし、パウロの言葉を肯い、信じ、喜ばせてもらう。この数行のパウロの言葉に、キリスト教のエッセンスが示されている。あなたはこれを信じるか。

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 民の愚かな者よ、気づくがよい。
 無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。
 耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。
 目を造った方に見えないとでもいうのか。
 人間に知識を与え、国々を諭す方に
 論じることができないとでもいうのか。
 主は知っておられる、人間の計らいを
 それがいかに空しいかを。(詩篇九四・八~一一)

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
℡080・6384・8652
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《読者の皆様へ》
何でもない一日こそが神のみ恵み溢れるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。

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