からしだね第94号
からしだね 十
二〇二〇年 六月 第九十四号
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あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。(マタイによる福音書五・一三)
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命
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(マタイ一六・二六)
*
「命」とは、肉体的に生きているという意味ではあるまい。イエス・キリストの御言葉は、「命あっての物種」などという俗諺ではない。御言葉の言う「命」とは、私たちがこの世に生を享け、存在している理由、本分、真実であろう。それを失ったら、たとえ一国の宰相になろうと、莫大な富を手に入れようと、生まれてきた甲斐がないのである。良心をなくしてしまえば、たとえ高位高官に任ぜられようとも、生きている意味がない。これは神に指弾されて、初めて気がつく事柄である。大事なのは世間の評価ではない。神に真向かい、神から与えられた各自の小さな使命を果たすことである。キリストの御言葉に耳を傾け、その御跡に従うことである。これ以上の務めはない。
長血の女
さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。(マルコ五・二五~三〇)
*
この物語は、長いあいだ婦人病で苦しんでいた女性が、主イエスに救われた奇跡である。当時のユダヤ社会においては、生理中の女性は汚れた存在と見なされていたから、十二年間も出血の止まらないこの女性がいかに苦しんだかは、察するに余りある。この女性は多くの医者にかかって、ありとあらゆる治療法を試みた。財産も使い果した。しかし、病気は悪くなる一方で万策尽きたような状況にあった。そんな時、イエスの噂を聞いたのである。女性は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思い、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。汚れた身で後ろから触れるということは、社会的には非難されるべき企てであるが、女性は必死の思いでそうしたのであろう。すると、すぐ出血が完全に止まって病気がいやされたことを体に感じた。血の源(もと)が涸れて、病気が治ったのを感じたのである。
さて、このイエスによる奇跡的な治癒の物語はいったい何を語っているのか。長血の女とは誰のことなのか。私は、ある初老のキリスト者のことを思うのである。彼は平凡な勤め人で、多くの男性と同じように仕事中心の人生を歩んでいたが、四十代のなかば頃から急に生活が乱れ始めた。仕事や昇進が順調なのをよいことに、家庭を顧みず、老親の介護を妻に丸投げし、女遊びにうつつを抜かしたのである。そのあげくに、天罰であろう。彼は、親の死に目にも会えず、大病を患い、仕事は左遷、家庭は崩壊という状態に陥った。気がつけば、お先真っ暗、何の拠り所もない。今日明日をどう生きていけばよいか分からない。そこから彼の求道が始まったのである。当時の彼には知る由もなかったが、これが神の導きだったのである。彼は長血の女のように、藁にもすがる思いでいろいろの教えを聞き歩き、あちらこちらと救いの道を尋ねたが、もとよりコトはそんな簡単には運ばない。彼が自分の罪と悪を深く知らされ、悔い改めに導かれるまでには、なお十年余を要したのである。「わたしはいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします。」(詩篇一四三・五)
「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」(詩篇三四・一九)。彼が救われ、立ち上がることが出来たのは、御子イエス・キリストが彼の罪を償ういけにえとして十字架におかかりくださったことを、啓示によって知らされたのと同時であった。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリ五・二一)。
イエスは救いを求める者を探してくださる。私たちが身を隠さず御前に出てくるのを待っていてくださる。このお方には何も隠すことはない。何もかも知られているのであるから、何もかもありのままに話すのである。長血の女のように、御前に進み出てひれ伏し、懺悔する彼に、イエスは言われた。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。主イエスに出会い、その愛によって彼は生まれ変わったのである。「もうその病気にかからず」という主イエスの御言葉が彼の胸に深く響いた。ひとたび主イエスの救いを賜った者は、二度と罪の虜(とりこ)になってはならないのである。私たちは、この世に肉の身をもって生きている限り、信仰の道、聖化の道を辿りつつも、どこまでも不完全な存在である。しかし彼は、自分の力によってではなく、キリストによって罪が贖われ、すっぱりと罪の根を断ち切られた。長血の女性に起ったごとく、罪の源が涸れて、病気が治ったのである。これが救いである。
神の御前に
神の御前に生きる身とならせていただければ、他のことはどうでもよいことである。来世があろうとなかろうと、世界の終わり、キリストの再臨、最後の審判がどうであろうと、この愚身が復活しようとせまいと、さらには幸も不幸も、短命も長寿も、願いが叶おうが叶うまいが。その他何であれ、神の御心のままに、神におまかせである。私たちは神の内に、神によって生き、活動し、存在するのである。
迫害
世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。(ヨハネ一五・一八~一九)
*
キリスト者に対する迫害は今日でもある。もとよりそれは、キリスト教初期のような、あるいは我が国のキリシタン弾圧のような凄まじいものではない。キリスト教が世界宗教となったおかげで、今ではキリスト者は十字架につけられたり、焼き殺されたり、投獄されたりすることはない。世界史はキリスト教の勝利の歴史である。しかし、迫害は時代と共に形を変えて続いている。例えば、ある人がキリスト教の信仰生活に入ろうとすると、まず家族が猛反対する。友人や職場の同僚、隣近所の人々からいわれなき悪口、雑言、侮辱のみならず、誹謗、中傷さえ浴びることがある。よくて変わり者として敬遠されるという具合である。「わたしは彼らの幸いを願うのに、彼らは敵対するのです。」(詩篇三八・二一)。彼らは自分が迷信や因襲に捕らわれていることに気がつかず、自分こそが正しいと信じているのである。そのくせ、彼らはクリスマスやバレンタインを祝ったり、結婚式を教会で挙げたりする。信仰が伴わないのを恥と思わないのである。その一方で、隠れキリシタンのテレビを見ると、幕府の不義と愚かさ非難するだけの見識は持っているのである。
要するに世間がそうだからそうするのであって、彼らにとっては、「世間」つまり「世」が「神」なのである。そして、この世を支配し、人々の目をくらましているのが「世の神」つまりサタン(悪魔)である。サタンは福音に巧妙に抵抗し、あらゆる手を使ってキリスト教の邪魔をする。神とサタンは絶対に相容れないからである。誤解のないように言うが、キリスト教に反対する人々がサタンだというのではない。その人たちは自分が気づかぬ内にサタンの道具として使われているに過ぎない。キリスト者から見ると、迫害はこの世の神、サタンのなせる業である。従って、迫害されることは真の信仰の証であり、信仰が本物になってきた証拠である。悪魔と神(信仰)との戦いである。しかし、迫害にもメリットがある。迫害は信仰を試し鍛えてくれる。これを克服できなければ本物の信仰とは言えない。そして、信仰は決して負けることがない。負けているようで負けていないのである。御子イエスは十字架上に死して負けたように見えるが、復活によって死に打ち勝たれた。サタンに打ち勝たれ、天にあって父なる神と共に世を統べておられるのである。神は人類をその罪から救済するという大業を御子によって完遂されたのである。すべては神のご計画である。私たちもいろんな形で迫害を受ける。しかし、主イエスは言っておられる。「義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ五・一〇~一一)と。また、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ五・四四)と。負けるが勝ちである。私たちは、負けることを学ばねばならない。聖パウロの言のごとく、キリスト者は弱いときにこそ強いからである。主が共に戦ってくださるのである。
ブログ
イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。(ヨハネ二一・六)
*
このほど、旧友Sさんの指導と助けを得て、「からしだね」のブログを立ち上げることができた。感謝である。これで小さな伝道の窓が一つ開けた。細い道が通じた。これは、主イエスの言われるように、舟の右側に網を打ったことになるのかもしれない。私は取るに足らぬ者ながらも、ガリラヤ湖の漁師であったペトロやアンデレと同じく、人間をとる漁師にされているのである(マルコ一・一七)。急がずに少しずつバックナンバーを掲載し、充実していきたい。旧友のように、神に用いられて自分が気づかぬうちに神の御用をさせられる人は幸いである。その人は、知らずに神の御意志に仕え、知らぬうちに天に富を積んでいるのである。これも、わが神恩キリスト教会に対する主イエスのみ恵みである。
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悪事を謀る者のことでいら立つな。
不正を行う者をうらやむな。
主に信頼し、善を行え。
この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
主に自らをゆだねよ
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
あなたの道を主にまかせよ。(詩篇三七・一、三~五)
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今月の祈り
父なる神よ、新型コロナウィルスによる肺炎が世界を席巻し、予防や医療が追いつかなくなっています。また、生活や経済が破壊されつつあります。人々は恐怖に怯えています。どうか、私たちがこの未曾有の危機を乗り越えることができますようお助けください。
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発行 神恩キリスト教会 三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
080・6384・8652
E‐mail masa73@gc5.so-net.ne.jp
https://sinonkirisutokyoukai.blog.ss-blog.jp/
《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。
二〇二〇年 六月 第九十四号
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あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。(マタイによる福音書五・一三)
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命
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(マタイ一六・二六)
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「命」とは、肉体的に生きているという意味ではあるまい。イエス・キリストの御言葉は、「命あっての物種」などという俗諺ではない。御言葉の言う「命」とは、私たちがこの世に生を享け、存在している理由、本分、真実であろう。それを失ったら、たとえ一国の宰相になろうと、莫大な富を手に入れようと、生まれてきた甲斐がないのである。良心をなくしてしまえば、たとえ高位高官に任ぜられようとも、生きている意味がない。これは神に指弾されて、初めて気がつく事柄である。大事なのは世間の評価ではない。神に真向かい、神から与えられた各自の小さな使命を果たすことである。キリストの御言葉に耳を傾け、その御跡に従うことである。これ以上の務めはない。
長血の女
さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。(マルコ五・二五~三〇)
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この物語は、長いあいだ婦人病で苦しんでいた女性が、主イエスに救われた奇跡である。当時のユダヤ社会においては、生理中の女性は汚れた存在と見なされていたから、十二年間も出血の止まらないこの女性がいかに苦しんだかは、察するに余りある。この女性は多くの医者にかかって、ありとあらゆる治療法を試みた。財産も使い果した。しかし、病気は悪くなる一方で万策尽きたような状況にあった。そんな時、イエスの噂を聞いたのである。女性は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思い、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。汚れた身で後ろから触れるということは、社会的には非難されるべき企てであるが、女性は必死の思いでそうしたのであろう。すると、すぐ出血が完全に止まって病気がいやされたことを体に感じた。血の源(もと)が涸れて、病気が治ったのを感じたのである。
さて、このイエスによる奇跡的な治癒の物語はいったい何を語っているのか。長血の女とは誰のことなのか。私は、ある初老のキリスト者のことを思うのである。彼は平凡な勤め人で、多くの男性と同じように仕事中心の人生を歩んでいたが、四十代のなかば頃から急に生活が乱れ始めた。仕事や昇進が順調なのをよいことに、家庭を顧みず、老親の介護を妻に丸投げし、女遊びにうつつを抜かしたのである。そのあげくに、天罰であろう。彼は、親の死に目にも会えず、大病を患い、仕事は左遷、家庭は崩壊という状態に陥った。気がつけば、お先真っ暗、何の拠り所もない。今日明日をどう生きていけばよいか分からない。そこから彼の求道が始まったのである。当時の彼には知る由もなかったが、これが神の導きだったのである。彼は長血の女のように、藁にもすがる思いでいろいろの教えを聞き歩き、あちらこちらと救いの道を尋ねたが、もとよりコトはそんな簡単には運ばない。彼が自分の罪と悪を深く知らされ、悔い改めに導かれるまでには、なお十年余を要したのである。「わたしはいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします。」(詩篇一四三・五)
「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」(詩篇三四・一九)。彼が救われ、立ち上がることが出来たのは、御子イエス・キリストが彼の罪を償ういけにえとして十字架におかかりくださったことを、啓示によって知らされたのと同時であった。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリ五・二一)。
イエスは救いを求める者を探してくださる。私たちが身を隠さず御前に出てくるのを待っていてくださる。このお方には何も隠すことはない。何もかも知られているのであるから、何もかもありのままに話すのである。長血の女のように、御前に進み出てひれ伏し、懺悔する彼に、イエスは言われた。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。主イエスに出会い、その愛によって彼は生まれ変わったのである。「もうその病気にかからず」という主イエスの御言葉が彼の胸に深く響いた。ひとたび主イエスの救いを賜った者は、二度と罪の虜(とりこ)になってはならないのである。私たちは、この世に肉の身をもって生きている限り、信仰の道、聖化の道を辿りつつも、どこまでも不完全な存在である。しかし彼は、自分の力によってではなく、キリストによって罪が贖われ、すっぱりと罪の根を断ち切られた。長血の女性に起ったごとく、罪の源が涸れて、病気が治ったのである。これが救いである。
神の御前に
神の御前に生きる身とならせていただければ、他のことはどうでもよいことである。来世があろうとなかろうと、世界の終わり、キリストの再臨、最後の審判がどうであろうと、この愚身が復活しようとせまいと、さらには幸も不幸も、短命も長寿も、願いが叶おうが叶うまいが。その他何であれ、神の御心のままに、神におまかせである。私たちは神の内に、神によって生き、活動し、存在するのである。
迫害
世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。(ヨハネ一五・一八~一九)
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キリスト者に対する迫害は今日でもある。もとよりそれは、キリスト教初期のような、あるいは我が国のキリシタン弾圧のような凄まじいものではない。キリスト教が世界宗教となったおかげで、今ではキリスト者は十字架につけられたり、焼き殺されたり、投獄されたりすることはない。世界史はキリスト教の勝利の歴史である。しかし、迫害は時代と共に形を変えて続いている。例えば、ある人がキリスト教の信仰生活に入ろうとすると、まず家族が猛反対する。友人や職場の同僚、隣近所の人々からいわれなき悪口、雑言、侮辱のみならず、誹謗、中傷さえ浴びることがある。よくて変わり者として敬遠されるという具合である。「わたしは彼らの幸いを願うのに、彼らは敵対するのです。」(詩篇三八・二一)。彼らは自分が迷信や因襲に捕らわれていることに気がつかず、自分こそが正しいと信じているのである。そのくせ、彼らはクリスマスやバレンタインを祝ったり、結婚式を教会で挙げたりする。信仰が伴わないのを恥と思わないのである。その一方で、隠れキリシタンのテレビを見ると、幕府の不義と愚かさ非難するだけの見識は持っているのである。
要するに世間がそうだからそうするのであって、彼らにとっては、「世間」つまり「世」が「神」なのである。そして、この世を支配し、人々の目をくらましているのが「世の神」つまりサタン(悪魔)である。サタンは福音に巧妙に抵抗し、あらゆる手を使ってキリスト教の邪魔をする。神とサタンは絶対に相容れないからである。誤解のないように言うが、キリスト教に反対する人々がサタンだというのではない。その人たちは自分が気づかぬ内にサタンの道具として使われているに過ぎない。キリスト者から見ると、迫害はこの世の神、サタンのなせる業である。従って、迫害されることは真の信仰の証であり、信仰が本物になってきた証拠である。悪魔と神(信仰)との戦いである。しかし、迫害にもメリットがある。迫害は信仰を試し鍛えてくれる。これを克服できなければ本物の信仰とは言えない。そして、信仰は決して負けることがない。負けているようで負けていないのである。御子イエスは十字架上に死して負けたように見えるが、復活によって死に打ち勝たれた。サタンに打ち勝たれ、天にあって父なる神と共に世を統べておられるのである。神は人類をその罪から救済するという大業を御子によって完遂されたのである。すべては神のご計画である。私たちもいろんな形で迫害を受ける。しかし、主イエスは言っておられる。「義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ五・一〇~一一)と。また、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ五・四四)と。負けるが勝ちである。私たちは、負けることを学ばねばならない。聖パウロの言のごとく、キリスト者は弱いときにこそ強いからである。主が共に戦ってくださるのである。
ブログ
イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。(ヨハネ二一・六)
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このほど、旧友Sさんの指導と助けを得て、「からしだね」のブログを立ち上げることができた。感謝である。これで小さな伝道の窓が一つ開けた。細い道が通じた。これは、主イエスの言われるように、舟の右側に網を打ったことになるのかもしれない。私は取るに足らぬ者ながらも、ガリラヤ湖の漁師であったペトロやアンデレと同じく、人間をとる漁師にされているのである(マルコ一・一七)。急がずに少しずつバックナンバーを掲載し、充実していきたい。旧友のように、神に用いられて自分が気づかぬうちに神の御用をさせられる人は幸いである。その人は、知らずに神の御意志に仕え、知らぬうちに天に富を積んでいるのである。これも、わが神恩キリスト教会に対する主イエスのみ恵みである。
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悪事を謀る者のことでいら立つな。
不正を行う者をうらやむな。
主に信頼し、善を行え。
この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
主に自らをゆだねよ
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
あなたの道を主にまかせよ。(詩篇三七・一、三~五)
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今月の祈り
父なる神よ、新型コロナウィルスによる肺炎が世界を席巻し、予防や医療が追いつかなくなっています。また、生活や経済が破壊されつつあります。人々は恐怖に怯えています。どうか、私たちがこの未曾有の危機を乗り越えることができますようお助けください。
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発行 神恩キリスト教会 三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
080・6384・8652
E‐mail masa73@gc5.so-net.ne.jp
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《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。
2020-07-17 16:55
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