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からしだね第87号

からしだね  十
二〇一九年 一一月 第八十七号
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 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(フィリピの信徒への手紙四・六~七)

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狭き門

 信仰をお勧めしても、本気に受け取る人は希である。神を信じない人は、「私たちの命は今生かぎりで、死んだらすべておしまい」と心の底で思い込んでいるからである。健康、美容、投資、年金などこの世の話なら目の色を変え、聞耳を立てるが、自分が死ぬことや来世の有無については考えたくないのである。しかし、このような人たちも、死んで後の世界があると分かったら、おのずと生き方が変わってくるだろう。神を信じなさい、キリストに救っていただきなさい、などと伝道するまでもない。永遠の命に焦がれるのは誰しも同じであるからだ。
 ところで、ヨハネ福音書によると、「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(一七・三)とある。つまり、本当に来世がある、死んでもおしまいではない、と分かるのは、神とその御子イエス・キリストを知ることによるのである。そのためには、まず信仰の道に入ることが大事である。来世があることも、神・キリストを信ずることも、人間の理性や知性を超えた事柄であるから。分かってから入るのではなく、入ってから分かるのである。学びと求道の暮しを続けるうちに、啓示によって、イエス・キリストと神を知り、永遠の命を賜るのである。もとより、こちら側にそれを求める資格があるのではない。あくまで神の一方的な恵みによるのである。「求めよ、さらば与へられん」(マタイ七・七)である。そして、この求める心も賜るのである。恵みである。よって、信仰は狭き門である。「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ七・一四)


新生の秘密

 信仰とは、何かを堅く信じることとは異なる。信仰とは、新しく生まれることである。新生である。信仰を賜った人は、昨日までの自分とまったく違う人になっている。姿形はなんら変わったところはないが、人間の内実は百八十度ひっくり返っているのである。この新生のことを、回心、悔い改め、あるいは信仰と呼ぶのである。同一の事態をいろいろの観点からそう表現するのである。信仰は、人が自分の意志や力で起こしたりするものではなく、神の意志と力によって造り変えられることなのである。神の業であるから、人間は否も応もないのである。イエスの言葉によれば、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ三・三)のである。それでは、信仰を賜るとはどういうことか、どうなることか。これは体験しない限り到底分からないし、説き尽くすことのできない事柄であるが、事例としては、使徒言行録第九章に記されているダマスコ城外におけるパウロの回心が有名である。
 パウロは熱心なユダヤ教徒で、生まれたばかりのキリスト教を迫害する急先鋒であった。その彼が、キリスト信徒を見つけ出してエルサレムに連行しようとダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らし、彼は地に倒れた。その時、「なぜ、わたしを迫害するのか」という復活の主イエスの声を聞いたのである。パウロはそれから三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかったが、当地の主の弟子によって視力が回復し、洗礼を受けるに至った。まことに驚くべき出来事であり、使徒言行録にはこの出来事が、ほぼ同内容でこの他にも二か所載っている。しかし、パウロ自身は、「ガラテヤの信徒への手紙」の中で、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた・・」と、ごく簡単に述べているに過ぎない。復活の主イエスとの出会い、回心、新生、召命といった事柄は、内的な出来事であり、詳細を記すことが不可能な秘義なのである。しかし、その体験の真実性は、その後のパウロの三度にわたる長途の宣教旅行と七つの真筆書簡に遺憾なく証しされている。
 回心、獲信、救い、新生といった事柄は、妻や夫、親や子であろうと気づかない。たとえ話しても理解できない内的な出来事である。「一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」(ルカ一七・三四~三五)。人が信仰を得る、神の国に入るという出来事は、あくまで一人一人の真実の応答なのである。自分は神の国へ入れるのか、それとも取り残されるのか、二つに一つである。決して他人事ではない。


肉の尺度と霊の尺度

 わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。(Ⅱコリント六・八~一〇)。
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 使徒パウロの言葉は、キリストと共に生き、聖霊と共にある信仰者の真実を述べたものである。信仰者の賜った豊かさは霊の尺度によるものであり、世の人々の肉の尺度からは到底理解されることはない。信仰者の価値観と世の人々のそれとは真逆だからである。私は、このパウロの言葉に次の言葉を加えたい。「わたしたちは一人きりでいて、孤独ではなく、暇そうに見えて、忙しく、背や腰は曲っていても、心は若鷲のようである。神やキリストについて語るが、別に狂ってはおらず、行き詰っても、くじけない。人々の誤解を恐れず、理解されなくとも希望を失わない。主よ、導きたまえ!」


友よ!
         
 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。(ヨハネ五・二四~二五)
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 友よ、あなたはまだ神を信じられないのか。
 私は自分の言葉ではなく
 信仰の言葉を、神の言葉を語っている。
 あなたにはそれがまだ響かないのか。
 語らせるお方がなくして
 どうして語るだろうか。
 遣わすお方がなくして
 どうして訪ねるであろうか。
 書かしめるお方がなくして
 どうして書き続けることができようか。
 私は、促され、迫られて
 書きもし、訪ねもするのである。
 その内的な力を、見えない力を
 あるお方と呼ぶ。
 私を動かすものは
 人道や慈善や功名心ではない。
 私を足として遣わし、口として語らせ
 手として書かせ
 この土の器を用いて働かれる
 お方がおられる。
 あなたはそれを悟らないのか。
 私はそのお方の使いに過ぎない。
 そのお方こそ、神、主イエス・キリスト。
 そのお方に促され、強いられて
 私は心ならずも事を為すのである。


神の愛

 キリストは私の身と一つになり給い、罪と恥を共に耐え忍び、病も障害も共に苦しんでくださるのである。これがキリストの救いであり、愛であり、奇跡である。その究極は、十字架である。キリストは、私という罪人のために、この上なく尊い命を捨ててくださった。キリストは私にとって、そのようなお方である。もとよりキリストは、み心ならば神よりの全能の力をもって、即座に私たちの病を癒してくださるであろう。しかし、私たちが苦しむことが神の御意志ならば、キリストは共に苦しんでくださるのである。そして、このような神の愛そのものであるキリストを苦しめてきた張本人、敵が、他ならぬこの私なのである。神は、私たちがまだ罪人であり敵であったとき、私たちと和解するために、御子キリストを死に渡された。使徒パウロは言う、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ロマ八・三二)


無神論と偶像崇拝

 神を信じる信じないは、どうでもいいことではない。神を信じないことは悪いことなのである。「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからである。」(使徒一七・二五)。神を認めない人は、自分が限りない恵みの中に生かされていることに考えが及ばないのである。そのような人たちの辞書には、感謝や御恩という言葉が載っていないらしい。「私は無神論者です」などとインテリぶっているのは愚かなことである。無神論者などと称しながら、その実、世間の迷信や因習に捕らわれ、偶像崇拝に陥っている人が多い。
 我が国はことに宗教的に無節操で、なんでもありの感がある。しかしながら、神でないものを神として崇めるのは、偶像崇拝といって最も悪いことである。誰もが求める富、権力、地位、健康、若さ、美などは、信仰に関係がないように見えるが、執着すると偶像崇拝になる。この世の価値は、やがて過ぎ去るもの、その意味で実体のないもの、空虚なものである。墓場の向こうまでは持って行くことができないものである。私たちは貧しくとも、あくせくしなくてよい。生きて行くのに必要なものは、神がお与えくださるのである。主イエス・キリストは言われる。
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 「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ六・二五~三三)

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 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
 わたしの助けはどこから来るのか。
 わたしの助けは来る
 天地を造られた主のもとから。
 どうか、主があなたを助けて
 足がよろめかないようにし
 まどろむことなく見守ってくださるように。(詩篇一二一・一~三)

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今月の祈り

 主よ、国と国が経済や領土について自国の利益を主張し、それが国民レベルでの争いや憎しみへと拡大しつつあります。相手を非難し、報復しあうのではなく、互に相手の立場を理解し、協力しあうことによって、平和と繁栄が保たれますように。国の指導者が大局的な観点に立って、関係を修復し、誤った方向へ向かうことのありませぬように。私たちが、「隣人を自分のように愛しなさい」というあなたの掟を守ることができますように。どうか主よ、お導きください。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一愛媛県伊予市下吾川四八八―三
[電話]080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。

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