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からしだね第15号

からし種通信  
二〇一三年一一月 第十五号
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内村鑑三の言葉

 神は働きたもう。われ、さむる時もまた眠る時も働きたもう。われ働く時もまた休むときも働きたもう。われをもって働きたもう。またわれ無くして働きたもう。彼は生ける者なれば、われに関せずして働きたもう。地は日々歳々、正義を摂取しつつあり。時々刻々、不義を吐き出しつつあり。われに責任なきにあらず。されども釐革(りかく・改革)と進化との主として神の事業なるを知って、われは大なる慰安を感ずるなり。神、われをもって働きたもうにあらず。彼、今に至るまで働きたもうがゆえに、われもまた働くなり。(『続一日一生』教文館)

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俳 句    
 
 紫の日差しやはらか杜鵑草    

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「天の国」のたとえ       

 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(マタイ一三・四四~四六)。
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 私の最も好きな聖句の一つである。「天の国」は「神の国」と同じであり、この言葉のもとの意味は「神の支配」という意味だそうであるが、私は単純にそれを「信仰」と捉えている。そして、この聖句を読むたびに、未信者は本当に大切なものに気づいていないことを気の毒に思っていたのである。逆に、愚かな者ながらそれを見つけることのできた我が身の幸せを感じてきたのである。つまり、私はこれまで、この聖句はキリスト教の信仰を持っていない人々に信仰の素晴らしさを教示するためのものだと受け取ってきたのである。しかし、今日まさに知らされたのであるが、この聖句が、つまりイエス・キリストが、語りかけているのは他ならぬこの私に対してであると。あなたは本当に信仰をかけがえのない宝、高価な真珠と今も思っているか、それを手に入れたこと、無償で賜ったことを今も心から喜んでいるかと。イエスの御言葉は、未信者のためというよりも、この私が、信仰生活を惰性でなく、本当に純粋に、震えるような心で送っているか、喜びを持って生きているかを問いかけているものだと気づかされたのである。
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無教会松山聖書集会  三原 正實 


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からしだね第14号

からし種通信  
二〇一三年一〇月 第十四号
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内村鑑三の言葉

 神の教えであるキリスト教は、了解(わか)って了解るものでない。信じて了解るものである。了解らないから信ずるのである。了解れば信ずる必要はない。宗教は、もとこれ信ずべきものであって、了解るべきものでない。信ずればこそ、宗教に能力があるのである。キリスト教が神の教えである最も明らかなる証拠は、それが了解りそうで了解らないことにおいてある。キリスト教は信ぜずしては到底了解らない。我を折り、わが罪を言い表し、わが無知、無能、不善を認めて、神の前にへりくだりて初めてキリスト教の何たるかが了解る。嬰児のごとき者となりて神の前に平伏して、彼に教えられて、その奥義に達することができる。(『続一日一生』教文館)

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日々の俳句    

 挨拶のはづみて返る今朝の秋  

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生れつきの盲人をいやす    

 イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。
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 ヨハネ福音書九章1~3節の鮮烈な記事である。この弟子たちの問いは、当時、ユダヤ教では因果応報の教理によって苦難というものが理解されていたことを示しているという。つまり、弟子たちは、律法を守る者は神に祝福され、守らない者は呪われる。それが先祖の罪によるのか、本人の罪によるのかと尋ねている。これに対するイエスの答えは全く予想外の、驚くべきものであった。註解には「律法を置換し凌駕するイエスの使命が、しるしの目的であることが、予告されている」とある。その通りであろう。
 しかし、私は少し別のことを考えている。その内容はこうである。人は一生のうちに様々の病気にかかる。また、生まれつき障害を持っている人もいる。広島や長崎に住んでいたために原爆に遭った人もいれば、地震や津波、原発事故に襲われ、今なお塗炭の苦しみに喘いでいる人も大勢いる。このことは、因果応報などという考え方で決してカタがつくものではない。イエスの「神の業がこの人に現れるためである」というのは、つまり、人生においては様々の苦難に直面するが、それとの苦闘の中で人は初めて神と出会うのだというふうに解したいのである。
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無教会松山聖書集会  三原 正實



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からしだね第13号

からし種通信  
二〇一三年九月号 第十三号
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内村鑑三の言葉

 わかって信ずるのではない。信じてわかるのである。わかって信ずるのは信仰ではない。信ぜざるを得ざるがゆえに信ずる、そのことが信仰である。神とその聖業(みしごと)とに関することは、とうてい人間に解ることではない。わかるのを待って、人間はとうてい神を信ずることができない。ゆえに信ずるのである。神のみことばなるがゆえに、疑わずして、ただ信ずるのである。これ決して迷信ではない。子が父の言を疑わずして信ずるのは決して迷信ではない。これ、まさに信ずべきことである。  (『続一日一生』教文館)

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日々の俳句    
 
夕星やはや打水の乾きをり 

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ともし火
 
 今日死のうとするかのように  

 「あなたが今日死のうとするかのように、すべての行ないや想いにおいて、身を処すべきである。明日は不確かな日である。あなたが明日の日を持てるかどうか、どうして解ろう。今こそ極くごく貴重な時機、今が救いの日、今がありがたい時である。死の際にキリストと一緒の生を始められるよう、この世では世間に対して死ぬことを学びなさい。万人の行きつくところは死である。おこないなさい、今おこなうのだ。あなたは自分がいつ死ぬかも知らず、また死後何が自分を待っているかも知らないのだから。その機会を持っているうちに、滅びない富を積み上げなさい。」(トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』より)

 信仰とは、死を目の前に置いて生きることである。死を眼前にして、すべてのものは意味を持たなくなる。富、美、若さ、地位、学歴、著作、勲章、妻子、孫など、この世において価値あるものは何の力にも慰めにもならない。相対の世界、つまりこの世において価値あるものは、この世かぎりのものである。あの世に持ってゆくことはできない。裸で生まれ裸で帰る。独生独死独去独来である。死を前にして人は何を望むのか。その望むことこそを、常に目の前に置いて生きるべきである。 
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無教会松山聖書集会  三原 正實


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からしだね第12号

からし種通信  
二〇一三年八月号 第十二号
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内村鑑三の言葉

 キリスト信者はその霊魂のみならず、またその肉体をも神に任しまつるべき者であります。ゆえに彼はパン問題に彼の思考の大部分を奪われてはなりません。彼は常人のとおり商売にも農業にも工業にも従事します。外から見たる彼は世の人と少しも変わりません。しかしながら、キリスト信者の農、工、商に従事するのは、世の人とは全く違った精神をもってします。彼はいわゆる渡世のわざとしてはこれに従事しません。彼は神の命としてこれに従事します。彼は、彼の職業によって自己と自己の家族を養わんとはしません。その事は、彼はこれを神に任しまつります。彼はただ神の命に従い、神の事業として彼の職業に従事します。(『続一日一生』教文館)

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日々の俳句 

 吹く風のかたちをとどめ風知草

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ともし火    
 
 格闘する信仰者・内村鑑三   
 
 内村鑑三には四〇巻の厖大な全集があるが、『一日一生』『続一日一生』『内村鑑三所感集』には、彼の信仰・思想のエッセンスが収められている。内村の文章を読んで感じることは、彼が大変疑り深い人であったということである。そして彼は饒舌の人であった。彼は語らずにはおれなかったのであろう。日本という明治維新まもない、西欧に立ち遅れた国にあって、しかもキリスト教界から無視ないし異端視され、孤立した状況にあって、牧師の資格を持たない彼がキリスト教を伝道するという、無謀の事業に人生を賭けたのである。内村は神に問い、自己に問い、幾度も確信や安心を破り捨て、否定に否定を重ねた。生活の保障もない、将来の確たる見通しもない。彼にあったのは、信仰と使命であった。しかし神の召命は、目に見えるものではない。確信といっても、人間の確信くらい揺らぎやすいものはない。彼は孤独の中、貧窮の中にあって問い続けた。信じ、不安を抱き、疑い、確信するという繰返しであったろう。
 彼は最も神を疑った人であった。だからこそ、最も信仰の深い人であった。そして、彼は断言した。内村は断言居士と呼ばれた。いい加減を許さない、妥協しないのである。曖昧では救われない、生きていけないからである。祈りつつ、信ずることを断言した。その集積が全集であり、アンソロジーである。信仰者とはかくあるべきものと信ずる。ヨブもまた神を疑い神に問うた。そして、ついに神にまみえ、ひれ伏したのである。
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無教会松山聖書集会  三原 正實


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からしだね第11号

からし種通信  
二〇一三年七月号 第十一号
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内村鑑三の言葉

(信者の生涯)
 信者を作らずともよい、教会を建てずともよい、著述をなさずともよい、慈善を行わずともよい、ただイエスを信ずればそれでよい。そうすれば、われによって救わるべき霊魂は救われ、起こるべき教会は起こり、成るべき著述は成り、行わるべき慈善は行わる。事業はこれを念頭に置かず、イエスをのみこれ仰ぎみるべきである。誠に人の義とせらるるは信仰による、行為(おこない)によらない。(『内村鑑三所感集』岩波文庫)

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日々の俳句   

 青鷺の風見るごとく聞くごとく 

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ともし火    
 
(往還回向とキリスト教)     
 仏教の教えに、往相回向、還相回向ということがある。簡単に言えば、往相は求道者が浄土に向かって行くすがた、還相は浄土に到達した求道者が娑婆に還ってはたらく有様である。仏道修行をする者は、浄土に行きっぱなしで蓮華の上で安楽な生をおくるのではなく、再び娑婆つまり忍土・苦の世界に戻って来て、苦悩の衆生を済度するのである。
 そこで、往相・還相ということを、キリスト者について当てはめてみると、往相はまことの信仰(聖霊)を賜るまでのこと、還相は信仰を得てキリスト者として暮らしていくこととなる。何も修道院で禁欲の孤独な暮らしをしたり、教会を建てたり、神学者や聖書学者になったり、司祭や牧師として説教したり、大著述をものにしたり、大伝道をしたりすることではない。ごく普通の生活をさせていただくことである。キリスト者は、あくまで向こう三軒両隣にちらちら見えるただの人なのである。一般の人と異なるのは、内に信仰を賜っているということである。そして、その神中心の暮らしぶりや生き方が自ずと伝道、布教につながるのである。その一生が、かりに何の甲斐もなく、効果もあげす、宗教界にも世間にも埋没したままで、誰からも認められず、無視されて終わっても、友人・知人に嘲られ、家族からさえ馬鹿にされても、それでよいのである。否、それがよいのである。これが私の信念である。
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無教会松山聖書集会  三原 正實



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からしだね第10号

からし種通信  
二〇一三年六月号 第十号
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内村鑑三の言葉
 
 キリスト教は聖書なりと言うは、けだし過言なるべし。されども聖書を離れてキリスト教なきは否むべからざる事実なり。聖書の研究は必ずしも人をキリスト信者となさざるべし。されども聖書を学ばずしてキリスト信者となり得べからざるは事実なり。聖書の研究はキリスト教に至る必要径路なり。これに宗派の異同あるべからず。これに信、不信の差別あるべからず。吾人は伝道の最良手段として、また世界知識の最善の注入策として、教会を離れたる聖書研究会の設立を促す者なり。最も確実なる信仰はこれより起こらん。キリスト教に対する思慮なき反対はこれによって絶つを得ん。公平なる聖書の研究は、有益なる公的事業の一なり。吾人は単にこれを教勢拡張の用に供して、その伸長を阻むべからざるなり。(『続一日一生』教文館)

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日々の俳句  やぶこうじ

 夏の蝶啓示のごとく天より来

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ともし火
 
 世間的価値と宗教的価値は比較することができない。比較可能なのは相対の内部においてなのである。相対的なものと絶対的なものは比較ができない。比較することは、絶対的なものを相対の位置にまで引き下ろすことであり、そのような絶対は既に絶対ではありえない。相対は相対の領域で正当に評価しなければならない。相対的なものだからといって、無価値なものであるはずがない。
具体的に言おう。例えば、オリンピックの金メダル、ノーベル賞、社会的地位、美醜、才能、学業成績、職務能力、勝者と敗者、貧富、老若、健康不健康等々、この世はもともと相対的な世界である。キリスト者といえども、これら現世の価値は素直に認めるべきで、これを否定するのが信仰とは思わない。信仰者は狭量であってはならない。そうではなく、信仰者はこれらの世間的価値を超越するのである。信仰は、絶対の、比較を絶した、究極の価値なのである。だから世間的な価値と比較できない。比較され得るものは絶対的なものではないからである。金メダルを賞賛するのは、相対の世界においてなのである。金メダルはこの世においては銀や銅より価値がある。それを獲得した能力や努力は褒められてよいのである。キリスト者はそのことに吝かであってはならない。ただそれがすべてではないことを知っているのである。それはこの世の価値に過ぎないことを、やがて消え失せてしまうことを。
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無教会松山聖書集会  三原 正實



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からしだね第9号

からし種通信  
二〇一三年五月号 第九号
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内村鑑三の言葉
 
 来世によってこの世のすべての苦痛が慰めらる。すべての不幸艱難、しかり、死そのものまでが完全に慰めらる。この世限りと思うがゆえに、人生に不平が多く、堪えがたき悶えがあるのである。されども確実なる来世の希望の前に不平煩悶は消えて跡なしである。人は能率増進の必要を説くが、来世の希望ほど能率を増すものはない。口に讃美歌が絶えずして、仕事は常にはかどるのである。人の過失はたやすく赦すことができ、身の不幸は希望の輝きの前に消散す。もしすべての人に堅き来世の希望があるならば、社会問題は直ちに絶え、平和は世界にみなぎるのである。(『続一日一生』教文館)
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日々の俳句  やぶこうじ

 主とともにいただく茶菓や復活祭
 葉桜や生きとし生けるものに雨
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ともし火
 
 来世がないのであれば、宗教も信仰も何の意味もない。今生がすべてなら、つまり死んだらおしまいなら、理性や常識でもって生涯を送るのみである。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(Ⅰコリント一五・三二)である。では、来世とは何を意味するのか、どこにあるのか。それは正義や愛の淵源である。目には見えないが、人間を導いているところである。今生の知恵の及ばないところである。神のいますところである。イエス・キリストが身をもってお示しになった愛や正義があるということは、神がましますということである。愛や正義は絶対の存在から出るのである。神がいますということは、永遠の国があるということである。しかし、神や来世は信仰の中に在って、理性や科学技術の及ぶ範囲にはない。神も来世も(私の)信の中にあるのである。そして、その信を賜るのは神である。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」とは、かつての私の言葉である。誤解を恐れず、敢えて言う。例え神がいまさなくともよい。私はもはやかつてのような生き方はできないのである。そのような力に捕えられているのである。

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無教会松山聖書集会 三原 正實

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からしだね第8号

からし種通信  
二〇一三年四月号 第八号
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内村鑑三の言葉(『内村鑑三所感集』岩波文庫)
 
 われは神を解せず、また人を解せず、しかれどもよくキリストを解す。神はわがためにはあまりに貴し、人はわがためにはあまりに卑し。神の高きは達すべからず、人の低きは堪ゆべからす。しかれどもキリストはわがいと近き神なり、かれはまたわが最も親しき友なり。キリストはわが神なり、同時にまたわが同志なり。かれは完全にわが全性の要求を充たす者なり。われはかれを神とし崇めまつらん、またかれを人とし愛しまつらん。

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日々の俳句  やぶこうじ

 南よりよき知らせ来る初燕
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ともし火 
 
 『先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。』二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。』(使徒一六・三〇、三一)
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 病気が治るために、金をもうけるために、美しくなるために、いい大学に入るために、偉くなるために何をしたらよいか。多くの人々はこのようないわば現世的なことにしか関心がない。そのような人々の一人である看守に、救われるためにはどうすればよいのか、という問いが起こってくるのは容易なことではない。そのためにはよほどの衝撃が必要である。この問いを発するには、まず自分が救われねばならない惨めな存在であることに気づかねばならない。しかし、自分の力や知恵でそれに気づくことはできないのである。そこにすでに大きな力の働きがある。神のご苦労がある。そして、問えば即ち回答が得られるのである。パウロとシラスは言った、「主イエスを信じなさい」と。神の御業の偉大なるかな。
 「神が登場するということは容易なことではない」と言った著名な神学者がいるが、まさにその通りだ。平穏な暮らし、順調な人生ならば神は必要ないのである。我々はみな凡夫であるが、その凡夫に、それまでの自分の考え方、生き方をすべて誤りとして放擲しなければならないような時」(事態)が到来する。人生の危機、特に内面的な危機である。が、反面、それは恵みの「時」なのである。その時から人生をかけての問い、信仰への戦いが始まる。
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無教会松山聖書集会  三原 正實










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からしだね第7号

からし種通信  
二〇一三年三月号 第七号
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内村鑑三の言葉
 
 キリストの事業は彼の死をもって完成した。そのように、私たち彼の小さな弟子の事業もまた私たちの死をもって完成するのである。死は最大の事業であり、生涯の高極である。人は死なないうちにその事業が完成したと言うことはできない。まことにキリスト信者に生前の成功というものはない。彼の事業は死をもって始まる。彼は肉眼をもって己の事業の成功を見ることはできない。その生命を世の罪の供え物とすることができて、その事業が永えに神の手にあって栄えるのを見るのである。(『一日一生』より)

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日々の俳句  やぶこうじ

 菜の花の道まつすぐに伊予小富士
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ともし火
 
 救いはイエス・キリストの十字架で尽きている。では、なぜ聖書を学ぶのか。人によっては、ギリシア語、ヘブライ語、ラテン語、ドイツ語まで学び、聖書学や神学を究めようとする人もいる。もちろん聖職者や神学者、聖書学者になろうとする人は、これらの習得・研究に努め、それぞれの専門の道を究めるべきである。それによってキリスト教は、より深く、より精緻に、より豊かになってゆく。それは果てしない学問・研究の道である。しかし、にもかかわらず、救いには語学や神学、聖書学は必要ない。救いには、聖書についての知識の多寡も問題とならない。というのは、旧新約聖書はつまるところイエス・キリストの十字架による罪の贖い、すなわち救いに値しない我ら罪人の救いの一点に集約されるからである。ただ、このことをより深く、理解し、納得するために聖書も学問もあるのである。もっと言うと、聖書や神学の研究から信仰の道に入ろうすると、救いに至ることがかえって難しいであろう。信仰は学問や知識や研究ではないからだ。
 
 カトリック教会の平信徒は、大体において聖書をあまり読まない。彼らにとっては弥撒でご聖体をいただくことが最も大切なことなのである。プロテスタントのことは無教会を除いて実態を知らないが、無教会の信徒は、その創唱者である内村鑑三の『聖書の研究』以来、よく聖書を読む。ギリシア語やヘブライ語を学ぶ者もいる。聖書に対する研究的な態度が著しい。これは大変結構なことで、尊敬に値する。だが、密かに危惧するのは、聖書の研究に比重がかかり過ぎ、ともすれば、信仰についての吟味があまりなされないことである。ルター以来、信仰義認ということはプロテスタントにとってαでありΩであるはずである。まことの信仰か否かがすべてである。そこを曖昧にしては、無教会は教養主義的な、エリート意識の強い、自己満足的な活動に堕してしまうであろう。これが杞憂であればよいが。
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無教会松山聖書集会  三原 正實






































































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からしだね第6号

からし種通信  
二〇一三年二月号 第六号
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内村鑑三の言葉

( 偉業)
 われ事をなすにあらず、これをなさしめらるるなり。われは神の奴隷なり、機械なり。われはわれの欲する事をなしえずして、欲せざる事をなさしめらる。神はわれをして、われ以上の思想を語らしめ、われ以上の事をなさしめ給う。神に頼るわれは小なりといえども、はなはだ大なる者なり。(『内村鑑三所感集』岩波文庫)
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日々の俳句  やぶこうじ
 
 大福と緑茶になごむ聖夜かな
 主の祈りより始まりぬ大旦
 読初は創世記より「光あれ」

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ともし火 
 
 「イエスは言われた。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」(マルコ一〇・⑱⑲より)。  
 これは永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいかを尋ねた金持の男に対するイエスのお答えの一部である。大事なことはこの後に続くのであるが、ここでは、イエスが例示された十戒について私の考えの一端を述べてみたい。私は、十戒は神である、と受け止めている。つまり、神があって十戒を与えるのではなく、十戒の一つひとつが神だと考えている。「殺すな」「姦淫するな」という一つひとつの言葉が神なのである。神が命令するというのではなく、命令が、律法が神なのである。神は絶対命令なのである。わが魂、わが心に響いてくるというよりも、もっと強制的、強圧的に従わせようとする。その命令、戒め、強制力、力が神なのである。それを聖書は神がましまして、モーセに十戒を与えたもうたと表現されているのである。言葉、命令、神は一体なのである。では、十戒だから十の神がいますのか。そうではない。神は唯一である。唯一の神は数を超越しているのである。
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無教会松山聖書集会  三原 正實



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