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からしだね第93号

からしだね 十
二〇二〇年 五月  第九十三号
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 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録三・六)

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受胎告知

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
(ルカ一・三〇―三五)
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 処女懐胎。これは人知では絶対に納得できぬものである。自然科学(医学・生物学)と神学の断絶である。神にできないことは何もないのだから、と処女懐胎をアタマから信じるしかないのか。無理やり受け入れるしかないのか。私の場合、キリストの十字架によって自分が救われるという体験がまずあって、この事実からイエスを神の子、キリストと信ずることができた。そこから処女懐胎を受け入れることができたのである。いかに優れた人でも、人間には他者の罪を贖うことはできないからである。ましてや、全人類をや。イエスは単なる人間ではなく、神の力、聖霊によって生まれた神の御子なのである。罪の贖いも処女懐胎も、キリスト教の根幹は人知を超えた事柄である。全能の神の御計らいである。よって、これを信ずることができるのも、自分の力ではなく神の力による。神とは、十字架とは、救いとは、啓示の出来事であって、もともと人間の分別を超えたものである。


弱いときにこそ強い
 
 コリントの信徒への手紙(Ⅱ)の第十二章に大変興味のある記事がある。パウロは十四年前に、第三の天つまり楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたという。それは、おそらく幻を見た経験であろうが、すばらしい啓示であった。「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」という。「とげ」は、パウロを痛めつけるために、「サタンから送られた使い」であるという。それが具体的に何を意味しているかはっきりしないが、パウロの肉体的な弱さや病気のことと考えられる。そこで彼は、この「使い」を離れ去らせてくださるよう、三度主イエスにお願いをした。ここから、次の本文が続く。
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 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
(Ⅱコリント一二・九~一〇)
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 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と主イエスが言われた具体的状況は記されていないが、察するに、これは主の御言葉を聞いたというよりも、パウロの「気づき」であろう。「啓示」といっても差し支えない。パウロは、サタンの使いである「とげ」のもたらす痛み、苦しみ、困難について何度も主に祈る中で、次のようなことを「はっと悟った」のであろう。信仰生活や伝道生活は、自分の力に頼ってやるものではない。自分は弱くてよいのだ。無力でよいのだ。自力に頼むからこそ行き詰まる。他と競争する必要はない。弱さのままでよいのだ。伝道や宣教の主体はイエス・キリストなのだ。自分は土の器にすぎない。自分は主に用いられるままにおまかせすればよいのだ。強くなって、自力で何事もやろうとすることが、主イエスのお力を妨げていたのだ。自分というものが空っぽになればなるほど、主がお働きになるのだ。パウロはそのことに気づいたのである。そして、「わたしは弱いときにこそ強い」と自分の弱さを喜び誇ることができたのである。自分の無知、無力を思い知らされ、自分がまったく頼りにならない、当てにならない存在であることが分かった時、つまり、自分が無になった時こそ、神の御働きが十全に現れるのである。これはパウロにとって、ダマスコでの回心後の大きな経験であったろう。またそれは、今日の私たちをも慰め、力づけてくれるものである。私たちは何か事をやろうとしても、すぐに行き詰まり、自分の無能、無力、弱さを嘆くが、自分の力によって事が成るのではない。善きことはすべて神が私という土の器を用いてなさるのである。伝道は神の御業である。私たちは弱いままでいい。行き詰まったときこそ、神がお働きになられる。何がどうなろうと、神にまかせまいらせるのである。


神の導き

 「わたしが、先祖に与えると誓った地、イスラエルの土地に導き入れるとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分を汚したすべての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる。お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」と主なる神は言われる。(エゼキエル書二〇・四二~四四)
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 エゼキエルは、紀元前五九八年の第一次捕囚でイスラエルからバビロンに連れて来られた捕囚民の一人で、祭司であった。彼は捕囚地バビロン(現在のイラク中部)において主の顕現に接し、預言者としての使命を与えられた。預言者とは、神によって召され、国家や民族の危機に際して、神の警告やメッセージを支配者や民に伝えた人たちである。しかし、王や支配階級はもとより民も預言者の声に聞き従わなかった。いつの世も、真実を語る者は敬遠され、嫌われるのである。前掲の聖句は、預言者エゼキエルがイスラエルの長老たちに告げた主なる神の言葉で、紀元前五九一年のことである。捕囚民の長老たち数人が主の御心を問うためにエゼキエルを訪ねてきたのである。イスラエルの民は出エジプト以来、主なる神に導かれてきたが、パレスチナに定住するや主に背いて偶像を礼拝し、掟を守らなかった。主はこれを憤られ、ついにバビロニアによってエルサレムを攻め滅ぼされた。しかし、主は後に、御自分の民への愛ゆえに、先祖への誓いのゆえに、イスラエルの民を赦し、捕囚から解放して再びパレスチナに導き入れてくださるのである。
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 主よ、あなたは御自分の地をお望みになり
 ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。
 御自分の民の罪を赦し
 彼らの咎をすべて覆ってくださいました。
 怒りをことごとく取り去り
 激しい憤りを静められました。(詩篇八五・二~四)
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 捕囚からの解放、そして故国への帰還、そのとき民は彼らの主を、導きの神を知るようになる、と主なる神は言われるのである。イスラエルの民のパレスチナへの帰還が適ったのは、第一次捕囚から実に六十年後のことであった。
 この預言をここに取り上げたのは、二六〇〇年前の神の言葉が、現在の私たちにそのまま当てはまるからである。御言葉は永遠であり、現に生きて働く力である。私たちは信仰の道に入って後、それが神の御手による導きであったことを悟らされる。神がましますことを信ずるようになるのである。自分が賢かったからでも、立派だったからでもない。愚かな、悪の塊であり、つまらぬ、取るに足らぬ自分が、人生の行き詰まりの果てに、神の憐れみによって一方的に救われたことを知らされるのである。新約の民である私たちは、旧約の民とは異なり、イエス・キリストの十字架を体験することによって救われる。そして、過去の自分の罪や犯した数々の悪を思い知らされ、自分を嫌悪するようになる。悔い改めである。ここから信仰生活が始まる。


サマリアの女

 イエスはサマリアのシカルという町に来られ、旅に疲れて一人で井戸のそばに座っておられた。そこへ、わけありの女が水をくみに来た。イエスはその女に「水を飲ませてください」と声をかけ、そこからイエスと女との対話が始まる。イエスは御自分の言うことを信じさせるため、女の素性を言い当てる。
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 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたはありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」(ヨハネ四・一六~一九)
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 この井戸端において、イエスは、「永遠の命に至る水」について教えを語られた(今回は省略)。しかし、サマリアの女はその事よりも、恥ずべき過去を図星されたことに驚き、水がめをそこに置いたまま町へ行って人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」(ヨハネ四・二九) 
 私たちは、イエスの御言葉や詩篇の聖句などによって、サマリアの女のごとく自分の罪や悪を暴かれ、恥ずべき過去を思い知らされ、丸裸にされてしまうことがある。否、自分が知らずに犯して来た数々の悪や、無意識のゴミ箱に捨てたはずの恥辱さえ示される。神は、頑是ない子供を諄々と諭すように、聖書の読むべき個所を次々にお示しになり、私たちの罪、過ちを明らかにされる。まさに神の指、聖霊の御働きである。そんな時、聖書は神の言葉であり、私たちは神の御手の中にいるのだとつくづく思わされる。神の御言葉によって打ち砕かれ、そこから回心へと導かれる人は幸いである。聖書は他人事ではなく、自分のことが書かれているのである。また、そう読まなければ、聖書を読んでも詮方ない。

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 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
 主よ、この声を聞き取ってください。
 嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
 主よ、誰が耐ええましょう。
 しかし、赦しはあなたのもとにあり
 人はあなたを畏れ敬うのです。
 
 わたしは主に望みをおき
 わたしの魂は望みをおき
 御言葉を待ち望みます。
 わたしの魂は主を待ち望みます
 見張りが朝を待つにもまして
 見張りが朝を待つにもまして。(詩篇一三〇・一~六)

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今月の祈り

 主よ、私たちがお互いに、他の人々の罪や間違いを責めるのではなく、自分の罪やおごり、至らなさに気づくことができますように。かたくなな私をどうかお導きください。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
[電話]080・6384・8652
E‐mail masa73@gc5.so-net.ne.jp
https://sinonkirisutokyoukai.blog.ss-blog.jp/
《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。

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