からしだね第85号
からしだね 十
二〇一九年 九月 第八十五号
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一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書一二・二四)
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聖書には何が書いてあるか
これは、聖書をお持ちでない方のために書いているのであるが、聖書には、旧約聖書と新約聖書が収められている。分量は、手もとの新共同訳で見ると、旧約聖書が一五〇二ページ、新約聖書が四八〇ページで合わせて二〇〇〇ページ足らずである。一冊の書物としてはかなり厚いが、一巻のみであるから、大した分量ではないとも言える。
旧約聖書の内容は大きく、律法、歴史書、預言書、諸書に区分され、その区分ごとに多くの書物が収められている。新約聖書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四福音書、パウロ書簡、その他の書簡等からなる。聖書は神の言葉と言われるように、一つ一つの書物が、質の高い、豊かな内容を持っており、聖書に優る書物はないと言っても過言でない。
では、結局のところ、聖書には何が書いてあるのかというと、他でもない。私たちの救いが記されているのである。神によって創造された私たちは、神に背いて罪の身となり、楽園を追放されているのである。創世記の「アダムとエバの失楽園」は、実は、私たちの神無き暮しを表わしているのである。他人事ではない。しかし、神は私たちを見放されたのではなかった。神はエデンの東に住む私たちに、モーセの律法(掟)を与えて養育し、多くの預言者を遣わして導き、最終的に主イエス・キリストの「死と復活」によって私たちの罪を赦し、再び神のみもとで暮らせるようにしてくださったのである。これが私たちの本来あるべき姿であり、救いなのである。聖書を読むのは、こういったことを知識や教養として学ぶのではなくて、私たちが信仰によって本当に救われ、神の子として生きるようになるためなのである。
信仰の父
アブラハムは、神の言葉に従って、それまで住んでいたユーフラテス川上流域からカナン(パレスチナ)地方に向けて旅立った。妻のサラと甥のロトを連れ、財産をすべて携えて、全く見知らぬ地へと向かったのである。何の保証も当てもない。行き先も知らない。ただ主なる神の言葉だけを信じてのことである。ここからイスラエルの祖アブラハムの冒険に満ちた物語が始まるのである。彼は神の呼びかけ(召命)に従順に従い、大いなる人生を送ったことから、後に信仰の父と呼ばれるようになった。このアブラハムの出来事は今から三〇〇〇年ほど前のこととされるから、現代に生きる私たちには、何の関係もない物語のようであるが、そうではない。遊牧のアブラハムの時代も、グローバルな高度情報社会の現代も、神の呼びかけは変りなく続いているのである。
実は、アブラハムとは私たち一人一人のことなのである。神の呼び声は、神より賜る使命であり、約束である。私たちの心底に響く内なる呼びかけに「ハイ」とお応えするのが信仰なのである。何もかもあらかじめ分かってから信ずるのではない。それなら信ずる必要はない。その意味では信仰は、一種の賭けである。神の言葉を信じて、行き先も知らずに出発したアブラハムのように、ただ神の導きを信じて信仰生活に入るのである。まさに、この拙文を呼んで下さっているあなたを、今、神がイエスを通して召して下さっているのである。「わたしに従いなさい」(ルカ五・二七)と。あなたはそれにどうお答えするのか。パスカルは信仰に賭けたのである。創世記一二・一~五参照。
罪人が招かれる
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ五・三二)。
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イエス・キリストの救いの目あては罪人(つみびと)であった。罪人とは、刑法に触れるような犯罪人のことではなく、神の掟(モーセの律法)を守らない人々のことである。イエスは、厳しく細かい律法を守ろうにも守ることのできない、無学で生活に追われている「地の民」を先ず救いの対象とされた。具体的には、ローマ帝国の下請として嫌われていた徴税人、人々から除け者にされ、虐げられていた重い病人や障害者、遊女など、弱く貧しい、社会から見放された下層の人々である。このような人々に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ一・一五)とまず呼びかけられたのである。では、自分を「正しい人」と信じていた当時の上・中流階級の人々はどうだったかと言うと、確かに表面的・形式的に律法を守りはしたが、律法の精神にかなうものではなかった。従って、彼らは罪人を軽蔑していたものの、彼らもまた神の目から御覧になると罪人であった。「罪」とは道徳的過失ではなく、「神への背き・神への反抗」のことだからである。そうすると、人はみな罪人ではなかろうか。聖パウロが、「ローマの信徒への手紙」に、「正しい者はいない。一人もいない」(三・一〇)と書いてあるとおりである。
ひるがえって、今日の私たちのことを考えてみよう。世の多くの人は、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われても、「私には罪はない。悪いことをしたこともない。人にとやかく言われる筋合いはない、世間に対し立派に生活している」と思い、他人事のように聞き流してしまう。自分は「正しい人」であり、「罪人」ではないという自負があるのである。しかし、それは自分の価値判断と尺度によるのであって、神の御目にはそうは映っていない。神はこう言われる。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ四六・三~四)。不信仰の生活を送っている人は、神の恵みによって生かされていることが分からず、自分の力と甲斐性で生きてきたと思っている。いくら世間的に立派な人でも、道徳的に優れている人であっても、このような人は、自分中心の傲慢な己の姿が見えていないのである。神に造られ、守られ、育まれてきたことを認めないのである。これこそが最大の罪である。恩知らずである。
実は、自分が罪人であり、救われない人間であることを知らされた時こそ、神の光に照らされているのである。ゆえに、罪人からまず救われるのである。パウロは、ファリサイ派という指導者階級の一員で、律法に関しては非のうちどころのない者と自負していたのであるが、その彼が、回心後は、「わたしは罪人の中で最たる者です」(Ⅰテモテ一・一五)と告白している。そして人は、自分の罪を知らされた時、「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。」(詩篇五一・三~四)ということになる。これに反し、「正しい人」は、神の光に気づかない人である。神は私たちに醜い自分の姿、つまり真実の自己を発見させ、自覚させ、その上で救ってくださるのである。自分がどうしようもない罪人、救われない泥凡夫だと知らされ、悔い改めた者から救ってくださるのである。
自分の罪を悔い改めて、「福音」(神の恵みと救い)を信じさせていただいたとき、その人はすでに「神の国」、つまり神のふところ住まいの身となっているのである。ゆえに、「罪人」こそが神の救いの目当てであり、キリストに招かれているのである。自分が「正しい人」であると自惚れているような人は、救いから洩れているのである。もっとも、そのような人も、神の御力によって心が翻転するときが必ず訪れる。「神は愛」であるから。それは、いつか。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント六・二)。聖パウロの言葉である。
エノク
「エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年間神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記五・二一~二四)。
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神と共に歩んだ敬虔なエノクについて、ヘブライ書は、「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました」(一一・五)と記している。思うに、エノクは、生きている時からすでに神と共にあって、永遠の命を生きていたのである。彼にとって、肉体の死は何の障害にもならなかったのである。信仰者である私たちも、その信仰が真ならば、今、すでに、エノクのように永遠の中を生きているのである。エノクはその信仰が神に喜ばれていたが、信仰をもって生きたことの他に、何か格別のことをしたとは記されていない。彼は、神に賜った命を、神と共に、神がお取りになるまで生きた。ただそれだけである。彼は生き切ったのである。それが特筆すべきことなのである。創世記の短い記事に、まことに掬すべきものがある。
アガパンサス
庭のアガパンサスの青紫が美しい。アガパンサスは「愛の花」という意味で、ギリシア語のアガペーが語源である。「アガペーの愛」は自己否定的で、自己を他者に与える愛とされる。キリスト教は愛の宗教と言われるが、それはこの意味である。これに対し、「エロスの愛」は自然的、価値追求的な愛である。美しいものや強いものを愛する愛で、恋愛がその最たるものである。人間はエロスの愛は生まれながらに持っているが、アガペーの愛は持っていない。「神は愛です」(Ⅰヨハネ四・一六)とあるように、アガペーは神の愛であり、何よりもキリストの十字架において私たちに示された。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(Ⅰヨハネ三・一五)。また、イエスは弟子たちに次のように言われた。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ一三・三四)。人間はアガペーの愛を持っていないのに、どうして互いに愛し合うことができようか。イエスは決して無理は言っておられない。まことの信仰を神より賜れば、アガペーの愛も一緒に賜るからである。キリストによって罪を贖われた者は、自分が思ってもみなかった人間に生まれ変わるのである。
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神よ、あなたはわたしの神。
わたしはあなたを捜し求め
わたしの魂はあなたを渇き求めます。
あなたの慈しみは命にもまさる恵み。
わたしの魂は満ち足りました
乳と髄のもてなしを受けたように。
わたしの唇は喜びの歌をうたい
わたしの口は賛美の声をあげます。(詩篇六三・二~六)
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今月の祈り
歳をとれば皆、体力が衰え、一つや二つは持病を持つ身になります。以前は簡単にできたことが、次第にできなくなります。しかし老人には人生経験があります。いろいろの知恵や知識を持っています。老人がお荷物としてではなく、長老として尊敬される社会となりますように。主よ、お導きください。
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発行 神恩キリスト教会 三原 正實
〒七九九‐三一一一愛媛県伊予市下吾川四八八―三
080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストを信じさせていただきましょう。まことの信仰による喜びの生活を求める方のご入会をお待ちします。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。
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二〇一九年 九月 第八十五号
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一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書一二・二四)
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聖書には何が書いてあるか
これは、聖書をお持ちでない方のために書いているのであるが、聖書には、旧約聖書と新約聖書が収められている。分量は、手もとの新共同訳で見ると、旧約聖書が一五〇二ページ、新約聖書が四八〇ページで合わせて二〇〇〇ページ足らずである。一冊の書物としてはかなり厚いが、一巻のみであるから、大した分量ではないとも言える。
旧約聖書の内容は大きく、律法、歴史書、預言書、諸書に区分され、その区分ごとに多くの書物が収められている。新約聖書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四福音書、パウロ書簡、その他の書簡等からなる。聖書は神の言葉と言われるように、一つ一つの書物が、質の高い、豊かな内容を持っており、聖書に優る書物はないと言っても過言でない。
では、結局のところ、聖書には何が書いてあるのかというと、他でもない。私たちの救いが記されているのである。神によって創造された私たちは、神に背いて罪の身となり、楽園を追放されているのである。創世記の「アダムとエバの失楽園」は、実は、私たちの神無き暮しを表わしているのである。他人事ではない。しかし、神は私たちを見放されたのではなかった。神はエデンの東に住む私たちに、モーセの律法(掟)を与えて養育し、多くの預言者を遣わして導き、最終的に主イエス・キリストの「死と復活」によって私たちの罪を赦し、再び神のみもとで暮らせるようにしてくださったのである。これが私たちの本来あるべき姿であり、救いなのである。聖書を読むのは、こういったことを知識や教養として学ぶのではなくて、私たちが信仰によって本当に救われ、神の子として生きるようになるためなのである。
信仰の父
アブラハムは、神の言葉に従って、それまで住んでいたユーフラテス川上流域からカナン(パレスチナ)地方に向けて旅立った。妻のサラと甥のロトを連れ、財産をすべて携えて、全く見知らぬ地へと向かったのである。何の保証も当てもない。行き先も知らない。ただ主なる神の言葉だけを信じてのことである。ここからイスラエルの祖アブラハムの冒険に満ちた物語が始まるのである。彼は神の呼びかけ(召命)に従順に従い、大いなる人生を送ったことから、後に信仰の父と呼ばれるようになった。このアブラハムの出来事は今から三〇〇〇年ほど前のこととされるから、現代に生きる私たちには、何の関係もない物語のようであるが、そうではない。遊牧のアブラハムの時代も、グローバルな高度情報社会の現代も、神の呼びかけは変りなく続いているのである。
実は、アブラハムとは私たち一人一人のことなのである。神の呼び声は、神より賜る使命であり、約束である。私たちの心底に響く内なる呼びかけに「ハイ」とお応えするのが信仰なのである。何もかもあらかじめ分かってから信ずるのではない。それなら信ずる必要はない。その意味では信仰は、一種の賭けである。神の言葉を信じて、行き先も知らずに出発したアブラハムのように、ただ神の導きを信じて信仰生活に入るのである。まさに、この拙文を呼んで下さっているあなたを、今、神がイエスを通して召して下さっているのである。「わたしに従いなさい」(ルカ五・二七)と。あなたはそれにどうお答えするのか。パスカルは信仰に賭けたのである。創世記一二・一~五参照。
罪人が招かれる
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ五・三二)。
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イエス・キリストの救いの目あては罪人(つみびと)であった。罪人とは、刑法に触れるような犯罪人のことではなく、神の掟(モーセの律法)を守らない人々のことである。イエスは、厳しく細かい律法を守ろうにも守ることのできない、無学で生活に追われている「地の民」を先ず救いの対象とされた。具体的には、ローマ帝国の下請として嫌われていた徴税人、人々から除け者にされ、虐げられていた重い病人や障害者、遊女など、弱く貧しい、社会から見放された下層の人々である。このような人々に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ一・一五)とまず呼びかけられたのである。では、自分を「正しい人」と信じていた当時の上・中流階級の人々はどうだったかと言うと、確かに表面的・形式的に律法を守りはしたが、律法の精神にかなうものではなかった。従って、彼らは罪人を軽蔑していたものの、彼らもまた神の目から御覧になると罪人であった。「罪」とは道徳的過失ではなく、「神への背き・神への反抗」のことだからである。そうすると、人はみな罪人ではなかろうか。聖パウロが、「ローマの信徒への手紙」に、「正しい者はいない。一人もいない」(三・一〇)と書いてあるとおりである。
ひるがえって、今日の私たちのことを考えてみよう。世の多くの人は、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われても、「私には罪はない。悪いことをしたこともない。人にとやかく言われる筋合いはない、世間に対し立派に生活している」と思い、他人事のように聞き流してしまう。自分は「正しい人」であり、「罪人」ではないという自負があるのである。しかし、それは自分の価値判断と尺度によるのであって、神の御目にはそうは映っていない。神はこう言われる。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ四六・三~四)。不信仰の生活を送っている人は、神の恵みによって生かされていることが分からず、自分の力と甲斐性で生きてきたと思っている。いくら世間的に立派な人でも、道徳的に優れている人であっても、このような人は、自分中心の傲慢な己の姿が見えていないのである。神に造られ、守られ、育まれてきたことを認めないのである。これこそが最大の罪である。恩知らずである。
実は、自分が罪人であり、救われない人間であることを知らされた時こそ、神の光に照らされているのである。ゆえに、罪人からまず救われるのである。パウロは、ファリサイ派という指導者階級の一員で、律法に関しては非のうちどころのない者と自負していたのであるが、その彼が、回心後は、「わたしは罪人の中で最たる者です」(Ⅰテモテ一・一五)と告白している。そして人は、自分の罪を知らされた時、「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。」(詩篇五一・三~四)ということになる。これに反し、「正しい人」は、神の光に気づかない人である。神は私たちに醜い自分の姿、つまり真実の自己を発見させ、自覚させ、その上で救ってくださるのである。自分がどうしようもない罪人、救われない泥凡夫だと知らされ、悔い改めた者から救ってくださるのである。
自分の罪を悔い改めて、「福音」(神の恵みと救い)を信じさせていただいたとき、その人はすでに「神の国」、つまり神のふところ住まいの身となっているのである。ゆえに、「罪人」こそが神の救いの目当てであり、キリストに招かれているのである。自分が「正しい人」であると自惚れているような人は、救いから洩れているのである。もっとも、そのような人も、神の御力によって心が翻転するときが必ず訪れる。「神は愛」であるから。それは、いつか。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント六・二)。聖パウロの言葉である。
エノク
「エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年間神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記五・二一~二四)。
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神と共に歩んだ敬虔なエノクについて、ヘブライ書は、「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました」(一一・五)と記している。思うに、エノクは、生きている時からすでに神と共にあって、永遠の命を生きていたのである。彼にとって、肉体の死は何の障害にもならなかったのである。信仰者である私たちも、その信仰が真ならば、今、すでに、エノクのように永遠の中を生きているのである。エノクはその信仰が神に喜ばれていたが、信仰をもって生きたことの他に、何か格別のことをしたとは記されていない。彼は、神に賜った命を、神と共に、神がお取りになるまで生きた。ただそれだけである。彼は生き切ったのである。それが特筆すべきことなのである。創世記の短い記事に、まことに掬すべきものがある。
アガパンサス
庭のアガパンサスの青紫が美しい。アガパンサスは「愛の花」という意味で、ギリシア語のアガペーが語源である。「アガペーの愛」は自己否定的で、自己を他者に与える愛とされる。キリスト教は愛の宗教と言われるが、それはこの意味である。これに対し、「エロスの愛」は自然的、価値追求的な愛である。美しいものや強いものを愛する愛で、恋愛がその最たるものである。人間はエロスの愛は生まれながらに持っているが、アガペーの愛は持っていない。「神は愛です」(Ⅰヨハネ四・一六)とあるように、アガペーは神の愛であり、何よりもキリストの十字架において私たちに示された。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(Ⅰヨハネ三・一五)。また、イエスは弟子たちに次のように言われた。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ一三・三四)。人間はアガペーの愛を持っていないのに、どうして互いに愛し合うことができようか。イエスは決して無理は言っておられない。まことの信仰を神より賜れば、アガペーの愛も一緒に賜るからである。キリストによって罪を贖われた者は、自分が思ってもみなかった人間に生まれ変わるのである。
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神よ、あなたはわたしの神。
わたしはあなたを捜し求め
わたしの魂はあなたを渇き求めます。
あなたの慈しみは命にもまさる恵み。
わたしの魂は満ち足りました
乳と髄のもてなしを受けたように。
わたしの唇は喜びの歌をうたい
わたしの口は賛美の声をあげます。(詩篇六三・二~六)
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今月の祈り
歳をとれば皆、体力が衰え、一つや二つは持病を持つ身になります。以前は簡単にできたことが、次第にできなくなります。しかし老人には人生経験があります。いろいろの知恵や知識を持っています。老人がお荷物としてではなく、長老として尊敬される社会となりますように。主よ、お導きください。
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発行 神恩キリスト教会 三原 正實
〒七九九‐三一一一愛媛県伊予市下吾川四八八―三
080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストを信じさせていただきましょう。まことの信仰による喜びの生活を求める方のご入会をお待ちします。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。
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2020-07-12 15:59
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