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からしだね第99号

からしだね ✞ 二〇二〇年 十一月 第九十九号
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 だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(マタイ六・二四)

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†信仰とは

 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。(ヘブライ一一・一~二)
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 信仰とは神の呼び声に応えること。ある意味で、賭けである。冒険である。しかし、これは魂の底からの欲求であり、とどめることは出来ないのである。何故なら、不遜な言い方が許されるなら、神は至高の価値だからである。
 
 主よ、人間とは何ものなのでしょう
 あなたがこれに親しまれるとは。
 人の子とは何ものなのでしょう
 あなたが思いやってくださるとは。
 神よ、あなたに向かって新しい歌をうたい
 十弦の琴をもってほめ歌をうたいます。
 いかに幸いなことか
 主を神といただく民は。(詩篇一四四・三、九、一五)


†うろたえるな

 お前たちは、立ち返って
 静かにしているならば救われる。
 安らかに信頼していることにこそ力がある。(イザヤ三〇・一五)
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 アッシリアの侵略に怯えるユダの王に対する神の御言葉である。しかし、ヒゼキヤ王はこの御言葉に聞き従わず、エジプトを頼った。このためユダ王国は、主によって災いがもたらされた。このイザヤの預言は、二七〇〇年前のものであるが、今日の私たちへの言葉でもある。神の言葉は生きており、いつも新しい。私たちは何か心配事や困難に出遭うとすぐうろたえるが、そんな時、この神の御言葉に思いを致し、神に依り頼むべきである。そして、神のお働きになられる時節を待つのである。神は、良き時に良き仕方をもって、必ずお助けくださる。「主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。」(詩篇三三・九)のである。これは自ら体験するしかない事柄である。


†二つの終末論

 からしだね第九十七号において、白井きく女史に短いオマージュを献げたところ、会員の一人から感想が寄せられた。「かつて、からしだね誌に二十回にわたって女史の短文(抜粋)が連載されたが、それほど感銘を受けなかった」との趣旨である。察するに、「私は素人ゆえに、誰にはばかることもなくここに記すのであるが、女史の信仰は、内村、塚本両師を超えた境地に達せられたと信ずるものである。」との私の文章に賛同できない、というより異議を唱えられたのであろう。そこで、なぜ私が女史の信仰を高く評価するか、そのわけを以下に弁明したい。
 
 確かに、内村鑑三は、無教会のみならず我が国キリスト教界にあって、燦然と輝く巨星である。高質の厖大な著述(全集四〇巻)と倦むことのない広範な伝道活動からみて、宗教的天才であったことは間違いない。預言者・詩人としての才質にも恵まれ、起伏の多い人生と相俟って、今や伝説的存在である。また、その高弟塚本虎二は、東京帝大卒の高級官僚であったが、職を辞して伝道者になった超エリートである。新約聖書の個人訳という偉業を成し遂げた。聖書を敷衍という独特の方法でわかりやすく翻訳したもので、他に類がない。彼もまた、名声嘖々たる存在である。両師からは、帝大出の聖書学者や優秀な伝道者が輩出した。かるがゆえに、世間的には無名に等しい白井きく女史の信仰の境地がこの両師よりも高いなどということは、無教会においてはあってはならないし、あるはずもないことなのである。彼女は優れたキリスト者であったにしても、塚本虎二の弟子の一人にすぎないではないか、というのが大方の評価であろう。内村、塚本両師は、後に袂を分かったけれども、無教会にあっては全く別格の絶対的な存在であり、比較や批判はもってのほかなのである。内村師に至っては神格化する向きさえある。それを批判する塚本師側も、同様に偶像崇拝化が進みつつあるのではなかろうか。こうして、無教会は初期の革新性を喪失し、生命力を失いつつある。これが田舎の無学な一キリスト者の抱いている印象であるが、杞憂であれば幸いだ。前述の、私に対する会員の異議には、こうした背景があるのである。
 
 さて、白井女史の信仰が内村師よりも高い境地に達しているとする理由であるが、それは復活、再臨、つまり終末に関する考え方の相違に起因する。私は、内村師の『一日一生』『続一日一生』の愛読者であり、毎朝その日のページを読むのを日課としている。それは内村師の文章の中から選りすぐりの箇所を、聖句と並べて一頁に納めたものである。それを読むかぎり、内村師は復活、再臨についての説明が揺れている。聖書学者や神学者というよりも詩人としての感性で、その時、その時、ひらめいたことを記されているようで、確たる定まった考えには至っていないように思われる。また、終末については、例えばマルコ十三章のような黙示文学的なこの世の終わり、つまり新天新地を伴う宇宙終末劇、そしてキリストの再臨、最後の審判を文字どおりに信じておられたようである。なお、私は内村師の全集を所持しているが、視力・体力の衰え等もあり、師の論文を精査しているわけではない。(塚本師については、今は、『塚本虎二訳 新約聖書』のほか著書を所持していないため、ここに述べるのを省略する。)
 
 これに対し、白井女史は、ヨハネ福音書に基づいて、救いの現在性の立場に立っておられる。イエスの再臨と世の裁きはイエスの使信を聞くとき、換言すれば、聖霊(弁護者)の到来によって実現するのであり、時間的な未来のことではない。つまり、御子を信じる者は今、永遠に生きているが、信じない者はすでに裁かれているのである(ヨハネ三・一八~一九)。黙示文学的な再臨も最後の審判もないのである。キリストの再臨運動を提唱した内村師とは全く異なるのである。なぜこのような相違が生じたのか。内村師と白井女史の違いは、共観福音書・パウロ的終末論とヨハネ的終末論との違いである。この二つの終末論は全く別ものであり、折合いのつけようがない。キリスト者は、真剣に救いを求める限り、いずれかの立場に立たざるを得ない。カトリック教会はもとより、プロテスタントの教会も、共観・パウロ的終末論に立っている。その方が教会という組織体にとって都合がよかったからであろう。無教会の内村師も、終末論については教会と同じようである。

 どちらの終末論が正しいとか間違っているとか言うのではない。それは立証しようのないことである。自分はどちらを信ずるか、これは啓示によるほかない。私が言いたいのは、ヨハネ的終末論は共観・パウロ的終末論を超えているということである。そして、白井女史はこちらの終末論に立っているのである。私がかつて属していた無教会の小さな集まりでは、こんなことを問題にする人はいなかった。ましてや、一般の教会のキリスト教信者はそうであろう。しかし、共観・パウロ的終末観とヨハネ的終末観をごっちゃにすると何が何やら分からなくなるのである。キリスト者はどちらかの終末観に立たざるを得ないのではなかろうか。終末論を曖昧にしている人は、本当の信仰もまことの救いも知らない人である。なぜなら、終末とは救いのことであり、終末を曖昧にすることは救いが曖昧であるということである。私は浅学非才の信仰の薄い者ながら、ヨハネ的終末論を真理と信ずるものである。なお、誤解のないように言っておきたい。私は白井女史の方が内村師や塚本師よりも偉大だと言っているのではない。女史の達した信仰の「境地」が、ヨハネ的終末論のゆえに、両師を超えていると言うのである。社会やキリスト教界に与えた影響の面では、内村、塚本の両師は極めて大であり、一方、白井女史は小さな存在である。女史の真価は、これから世に認められるであろう。

 なお、白井女史の考えは、『ブルトマンと共に読むヨハネ福音書(上・中・下)』に詳しい。この著書は彼女の信仰と伝道活動の総決算と言っても過言ではない。女史も共観・パウロ的終末論を経て次第にヨハネ的終末論を信ずるようになり、原書でブルトマンのヨハネ福音書を研究するなかで、最終的にその立場を確立されたのであろう。結婚せず、家庭なく、家なく、財産なく、世に認められず、天涯孤独の身ながら、彼女は無一物にして無尽蔵の恵みの中に起居し、真に平和で自由な、そして軽やかな人生を送られたようである。ヨハネ的終末論の真理を、九十余年の生涯をもって、身をもって私たちに示してくださったのである。


†思い悩むな

 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。(マタイ六・三四)
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 毎朝のように山鳩が我が家の近くで鳴く。山鳩に空腹はあるだろうが、悩みは恐らくあるまい。空腹が満たされるまで餌を探し続け、餌が見つからなければ力尽きて死ぬまでのことである。彼は明日のことを心配して餌を貯め込んだりはしない。山鳩は自然と一枚である。一方、我々人間は自意識があって、本能のまま、自然のままに生きることはできない。人間は自然の一部でありながら、自意識によって自然と分離した存在である。そこに人間の価値があるのであるが、そこから悩みや苦しみも出てくる。考えてもどうにもならないことを考え、思い悩む。明日のことを取り越し苦労するのである。これは金持ちも貧乏人も、学のある人もない人も、同じではなかろうか。

 このような私たちを、イエスは掲出の言葉でもって導いてくださる。実に偉大な言葉である。自分の足元が瓦解するような挫折を味わい、今日をどう生きるか、明日はどうすればいいのか、と悩んだことのある人なら分かるはずである。私たちが思い悩むのは、天の父を信じないで、自分の力に頼ろうとするからである。しかし、自分ほど当てにならぬものはないことを、神は教えてくださる。悩みの根本原因は、不信仰である。私たちはもともと神の御手の中にあって、神から命を授かり、神の恵みによって生かさせていただいているのに、自分の力や甲斐性で生きてきたように錯覚しているのである。その私たちに、明日のことまで思い悩むな、自力を捨てよ、と教えてくださる。私たちは今日できることを懸命にやりさえすれば、それでよいのである。後は明日のことである。なるようになるのである。神が善きように計らってくださるのである。それを信じて、早く寝ることだ。朝の目覚めに山鳩の声を聞いて、こんなことを教えられた。


†神の貸与
 
 人間にとって価値があるもの、たとえば地位、権力、名誉、金、健康、美貌などは、それ自体では、神の御目には何ら価値のないものであろう。それらは神が、ほんの短い間、人間に貸し与えてくださったものに過ぎない。しかし、大方の人間はこれらを誇り、不善をなすのである。自分に何が求められているか、何をなすべきか、神の御心に気づくことは至難のことである。

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 わたしたちではなく、主よ
 わたしたちではなく
 あなたの御名こそ、栄え輝きますように
 あなたの慈しみとまことによって。
 なぜ国々は言うのか
 「彼らの神はどこにいる」と。
 わたしたちの神は天にいまし
 御旨のままにすべてを行われる。(詩篇一一五・一~三)

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
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《読者の皆様へ》
 何でもない一日こそが神のみ恵み溢れるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。

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