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からしだね第96号

からしだね ✞
二〇二〇年 八月  第九十六号
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 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。(マルコによる福音書九・四一)

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†突風を静める 

 ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。(ルカ八・二二~二五)
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 奇跡物語である。イエスが突風や荒波という自然現象をも支配する力をお持ちの方であることが記されている。しかし、イエスが神の御子であることを信ずる者は、この記事を文字どおりの史実として受け止めねばならない、ということはない。むしろ、いつでも、どこでも、誰にでもあてはまる信仰的事実として受け取りたい。イエスが、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われたことに着目したい。人生は平穏な日ばかりではない。私たちは、思ってもみないときに、病気や事故、災難に出くわす。そんな時、うろたえ、嘆き、その状態から一刻も早く逃れたいとあせるのである。信仰者とて例外ではない。しかし、私たちが少し落ち着きを取り戻し、イエスが共にいてくださることに目を向けると、事態はそれほど悲観したものではなく、相応の解決策があることに思い至ることが多い。それは、単に心の持ちようということではなく、私たちを神が支えてくださるからである。また、私たちが気がつかなくても、実際に神の介入によるお助けを賜るのである。仮に最悪のことを覚悟しなくてはならない場合でも、イエスにすべてをお任せすることが出来るのである。イエスは、外界を変え、内界を静めてくださる。イエスをキリストと信じ、その生き方に従うとはこのようなことである。


†なりゆきまかせ(特別寄稿)  暮天子
 
 古希間近になって人様から「これまでの人生を振り返り、信念を述べよ」と問われ、語るべきものを持たないことに、いささか唖然とする思いです。
 ただ最近の新聞紙上で、年下の正岡子規を俳句の師と仰いだ内藤鳴雪翁の号が、「なりゆき」をもじったものであることを知り、また樹木希林さんの「一切なりゆき」が多くの人の共感を得て、ベストセラーになっていることを聞くと、昔から多くの人が「なりゆき」で満足して生きてきた気がします。確かに、「なりゆき」の人生では、人に誇れる生き方ではないかも知れませんが、そもそも信念を貫いて一生を強く生きられる人が、どれ位いるものでしょうか。
 私自身これまで、ほとんど「なりゆき」で生きてきたし、これからもそうでしょう。もともと信念とか信条とかは、好みではありません。守れないことが分かっていますし、押し通せるほどの充実した気力・体力を持ったこともありません。
 人生の一つの分岐点と言える高校受験は、単に、兄と同じ学校だと面倒がないと母親が希望したから。大学の選択は、アルバイトで生活費を賄う必要から、学生寮が大きな大学で求人が多そうな都市を選んだに過ぎません。そもそも大学に行けることが、当然とは思っていませんでした。中小企業の社宅に住まわせてもらっている両親は、高齢でいつクビになってもおかしくない立場。その時は、私が就職して支えるしかありません。未来があちらに行くかこちらに流れるかは、自分の思惑の外でした。それならば、何ごとにも執着せず、無理にでも「この世の一切は空なり」とか「世間はみな虚仮」と自分に言い聞かせた方が、少しは楽に生きられます。ただ幸にも、社長が「もうそろそろ、よかろ」と両親に告げたのは、私が就職して二年目。数年間もの猶予をもらえたのは、とても有り難いことでした。
 両親を連れ、何とか新しいアパートに目処がついた時、一つの山を越えた感とともに、これから先は両親の面倒を見ることで、一生独身もありうると覚悟していました。ところが、今振り返ってみれば、いつの間にか子供にも孫にも恵まれ、おまけにマイホームを手に入れて、質素だけど穏やかな老後まで過ごせています。こうした人並みの人生が得られたのは、四十年近く仕事を勤め上げたことも重要ですが、何と言っても日本の高度経済成長の波と自分の働き盛りがうまく重なったことが大きいでしょう。運悪く、いわゆる「氷河期」に遭遇して、就職に恵まれなかった世代がいます。今まさに新型コロナ禍に巻き込まれ、途方に暮れている世代もいます。彼ら彼女らに比べ、私はただ幸運だったとしか言いようがありません。
 人生は、結末の多くが「ドボン」に至る巨大なアミダくじかも知れません。いろいろな所に岐路が潜み、そこを踏み誤れば崖下に落ちる。病気、事故、災害、不況、悪意などの様々なアクシデントがいつ襲ってくるのか、普通の人では予測がつきません。私の一生がどうにかなったのは、信念の強弱や善し悪しではなく、ただ「なりゆき」に恵まれたせいでしかないと思っています。
 さて、人生の残りも少なくなってきましたが、これからの「なりゆき」もラッキーが続くのか、それともアン・ラッキーに遭遇することになるのか。どちらになるにせよ、一日一日を「それなり」に生きていこうと思っています。

―編集者から―
 今号は旧友の暮天子さんに特にお願いして、「我が信念」というテーマで寄稿していただいた。順風満帆ともいえる半生が、軽快な才筆で綴られている。ご同慶の至りである。ところで、福音書では、人生は湖を小舟で渡るのに譬えられている。平穏な日々も、いつ突風に襲われるか分からない。巻頭のルカ福音書の記事は、私たちにそのことを教えてくれる。暮天子さんは、いわば「なりゆき」を神としておられるわけであるが、私は、いずれまことの神の導きにより、氏の信念が信仰に昇華される日が来ることを信ずるものである。
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 知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら
 あなたは主を畏れることを悟り
 神を知ることに到達するであろう。(箴言二・二、五)


†神恩キリスト教会への道

 新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。(マタイ九・一七)
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 私たちが教会や信仰グループに近づくきっかけは、聖書について学びたい、キリスト教について知りたい、信仰に興味や関心がある、人生の悩みや苦難から救われたいなど、人それぞれであろう。しかし、求道と言えるほどの真剣な信仰は、ごく少数の人々に許された恵みである。大抵の人は信仰と言っても、表面的で、形だけのきれい事に終始している。齢五十を過ぎた私が最初に戸を叩いたのはカトリック教会であったが、そこは聖書を学ぶことよりも、日曜毎の聖日礼拝が中心で、信徒はいわば檀家である。信徒はローマカトリック教会という上意下達の体制に所属し、ミサに参列することで満足する。聖書はあまり読まない。それが彼らの信仰なのである。私にとって信仰とは救いを求めることであったから、これに飽き足らず、洗礼を受ける直前になって教会を離れた。
 次に私が訪ねたのが、無教会である。これはプロテスタントの一派で、内村鑑三が創始したものである。信者の集まりを集会と呼び、洗礼の必要はなく、「信仰のみ、聖書のみ」である。司祭や牧師はいない。会議室の一室で聖日礼拝を行う。礼拝は聖書の学びが中心で、信仰歴の長い者が分担で聖書講話を担当する。その点は私の好みにあったが、結果的に、この集会からもすぐに退会した。講話の内容に今ひとつ満足が得られず、先輩方の「信仰」に若干の違和感を持ったからである。無教会とはこれで縁が切れたはずであったが、それから数年後、二度目の退職を機に、集会に復帰を認めてもらった。他に行くべき教会がなかったからで、私もずいぶん勝手なものである。すると、「おまえも講話をやれ」と言われ、隔週毎に素人なりに聖書講話を担当させてもらった。また、私の提案で小さな信仰誌「からしだね」を発行することになり、編集を任せてもらった。こうして約十年が経過した。
 
 しかるに、昨年三月、この集会と再び別れることとなった。その原因は、信仰に対する考え方の違いが次第に明らかになってきたからである。私は、「真の信仰には自己変革が求められる、微温的であってはならない、形だけのきれいごとの信仰なら無教会の存在理由はない。特に、集会の指導的立場にある者は、自らの信仰を常に問い直すべきである」と信じており、それを近年、機会ある毎に発言してきた。信仰は、信仰歴の長さや聖書知識の多さではない。熱心や真面目でもない。何よりも、悔い改め、回心の有無を曖昧にしてはならない、と思うからである。私は、各自の自主的な信仰刷新を求めたつもりだが、先輩たちからは、「それは他人の信仰を批判するもの、裁くもの」として断固斥けられた。私の考え方は確かにラディカルであり、若い時に無教会の先輩から受けた教えを後生大事に守っていこうとする集会の体質とは、どうしても相容れなかったのである。このようなことから、私がこの集会を出た方が双方のためによいと確信するに至った。思えば、私と聖書集会とは、最初から最後までいわば同床異夢だったのである。異質の私が無理な要求をし、彼らの平穏を乱したのである。長きにわたり、棘の多い私に寛容に接してくれた聖書集会の面々には、深く感謝を表したい。
 とまれ、以上のような経緯から、私は自分の信ずる道を行くこととなり、無謀にも神恩キリスト教会を立ち上げた。新しい信仰の息吹には新しい革袋が必要だからである。教会という名称は使うものの、内村鑑三の精神を受け継ぐものであることに違いはない。笑う人は笑うがよい。「七十歳をとっくに過ぎたお前に何ができる」と。私にも成算があるわけではない。ただ神の導きを信ずるのみである。古いぶどう酒を飲みたい人には古い革袋がある。新しいぶどう酒がいい人はこちらへ来ればよい。神はそれぞれを良き方向へ導いてくださるであろう。


†Kさんからの葉書

 「からしだね」を郵送してしばらくすると、高齢のKさんから葉書が届く。私は、いつも彼の文面を、イエス様から私に対する励ましの言葉として受け止めている。イエス様は、彼の筆を借りて、私を力づけてくださるのだ。主は生きておられる。イエス様は「からしだね」の真実の執筆者であり、最も厳しい読者でもある。心を神に向け、熟慮して書かなければならない。神のご催促である。


†花菖蒲

 五月の朝、切り花の花菖蒲の莟から二つ三つ清楚な花が現れた。私はそこに咲ききろうとする花の意志、命の力を感じた。そうでなくては、花瓶の水だけで咲くはずがない。そして、信仰を思う。信仰も命である。信仰者は、神から賜った小さな信仰の花を生涯咲かせるのである。

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 神は羽をもってあなたを覆い
 翼の下にかばってくださる。
 神のまことは大盾、小盾。
 暗黒の中を行く疫病も
 真昼に襲う病魔も
 あなたの傍らに一千の人
 あなたの右に一万の人が倒れるときすら
 あなたを襲うことはない。
 あなたの目が、それを眺めるのみ。(詩篇九一・四、六~八)

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今月の祈り

 父なる神よ、新型コロナによる肺炎がこのまま終息しますように。六月初旬の今、我が国における感染は、なんとか山を越したようです。これは、国民の賢明な予防や活動自粛によるもので、自治体間の競争も功を奏しました。経済が活力を取り戻し、日常生活が徐々に戻ってきますように。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
℡080・6384・8652
E-mail masa73@gc5.so-net.ne.jp
神恩ブログ・からしだね
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神恩ブログ・今日の聖句
https://sinon-masa.blog.ss-blog.jp/

《読者の皆様へ》 
 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。

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