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からしだね第73号

からしだね  十
二〇一八年九月  第七十三号
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木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。
茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。(ルカ六・四四)

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時を見分ける

 救いがすぐそこに、足もとに来ているのに気づかない。イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マコ一・一五)と言われた。しかし人々は、何を悔い改めるのか、悪いのは他人であって、自分は正しい、と思っている。イエスが来られるとき、信じる者と信じない者とに分かれる。そして、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハ三・一八)。時が迫っている。「どうして今の時を見分けることを知らないのか。」(ルカ一二・五六)、イエスの嘆きである。


命の不思議

 私たちは生命という不思議なものを賜っている。しかし、「命とは何か」と真正面から問われると、私たちはうまく答えることができない。この自分というものを成り立たせているものの正体は、近すぎて分からないのである。「すべての人に命と息を与えてくださるのは神です」(使徒一七・二五)とあるが、もっと端的に言うと、神即命、命即神なのである。私たちは一人ひとり神の命を賜っているのである。そこを「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記二・七)と記しているのである。私たちは自分が自分の命を生きていると思っているが、実は神の命を生きているのである。創造主の命を賜っているのだから、私たちの毎日の生活は昨日の繰り返しではない。毎日が創造である。「造り主の姿に倣う新しい人を身につけ、日々新たにされて」(コロ三・一〇)創造の喜びに生きるのである。
 ところがアダムは蛇(サタン)の誘惑に乗り、神の言いつけに背いて、「善悪の知識の木」の果実を食べてしまった。その結果、「賢くなって」命を私物化し、神なしで生きるようになってしまった。自分が神になってしまったのである。これが原罪である。だから、私たちは皆、生まれた時から無神論で、自分の知恵と力で生きていると思っている。しかし、命はある期間、神からお預かりしているだけなので、催促があればすぐお返しをしなければならない。頭のよい現代人がこんな自明のことを中々悟ることができないのである。


信仰の目

 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。(ルカ一一・三四)
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 目が澄んでいるとは、子供のような純真な心。目が濁っているとは、疑いの目、不信の心である。「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、生まれつき目の見えない青年は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」(ヨハネ九・六―七)。主イエス・キリストは、私たちの肉の目のみならず、心の目も開いて下さる。主は私たちに「光あれ」と叫んで下さる。主を信じる心を賜わる。その時、私たちは光そのものとなる。主は、「あなたがたは世の光である。・・・あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」(マタ五・一四―一六参照)とまで言って下さる。
 世の人々は、自分は起きていると思っているが、実は、目を開けたまま眠っているのである。だから、目覚める必要がある。人は死んだ状態から甦る必要がある。イエスを信じて光の世界に入れて頂くと、初めて、今まで生きていた世界が闇であったことが分かる。毎日の平凡な生活の中に、神が在し給い、神が愛し給う証拠をいくらでも見出すことができ、生きる喜びを感ずるようになる。すでにこの世において、神と共に永遠の命を生きることができるようになるのである。


サタンとの死闘

 わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。(ルカ一二・四九)
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 平和の君、イエスには別の側面がある。即ち、すべての潔からぬものを絶滅させなければおかぬ激しさと熱情である。イエスの道は、十字架の道であり、この世の悪との戦いの道である。それはやがて私たちの信仰の道でもある。イエスはご自分の登場、存在、献身、つまり使命が、この世にとっては、何もかも焼き尽くす火のような、劇薬のようなものであることを自覚されていた。その警世の言葉は、もとより世には受け入れられない。激しい抵抗に遭い、戦いになる。イエスが来られると、そこには必ず分裂がある。真と偽、本物と偽物、善と悪、義と不義、光と闇というように。イエスは火であり、両刃の剣である。イエスは、馴合いやいい加減、妥協を許さない。その厳しさは黙示録にも表れている。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(三・一五―一六)。イエスの福音は、それに接する人々、母や兄弟姉妹に、故郷の人々に、決断と聴従を迫るのである。信ずるか、信じないか。従うか、排斥するか。神とこの世の神(サタン)との死闘である。


富を天に積む

 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒さない。(ルカ一二・三三)
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 神から特別な召命にあずかり使命を自覚した者は、生活問題について大胆にイエスのこの言葉に従うことができる。「すると、ペトロがイエスに言った。『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。』」(マタ一九・二七)。現代は、イエスの時代とは全く社会事情が異なっていることは考慮しなくてはならないが、臆病は恐らく信仰ではあるまい。信仰者は、イエスの言葉に従って、むしろ無謀であるべきである。
 信仰はやたら深刻になることではない。悲愴になることではない。人生の不遇に対し泣き言を言ったりすることではない。神と共に日々新しく生きることである。若鷲がその翼に力を得て天に昇るがごときである。毎日が創造である。そこに、神への絶対依存、自己放棄、神にすべてを委ねた者の安心、自由、積極性、楽観がある。


しるし

 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」(マルコ八・一一―一二)
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 「しるし」とは、不思議な出来事や奇跡をいう。この「しるし」を求める心は現代の私たちにもある。何か目に見える御利益や具体的な救いなど、証拠が与えられなければ神を信じようとしない。そのくせ、自分が古い因習や世間的価値観など偶像崇拝にすっかり捉われていることに気づきもしない。私たちは、根っからよこしまなのである。まるまる御恵みの中にありながら、神を信じることができず、「しるし」を求めるのである。自分をよほど価値ある者と思い込んでいるのである。どれほど自分が恵まれているか、分かっていないのである。貪欲にもほどがある。そのような目には、神の恵みも救いも見ることができない。目が澄んでおらず、濁っているからである。目からウロコが落ちない限り、福音を信じることはできないのである。たとえイエスが目の前にいても、彼が神の子であることが分からないのである。

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この里にも山鳩の声が聞える。
いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。(雅歌二・一二―一三)

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神の御前に

 「主の祈り」は、まず「天にまします我らの父よ」と呼びかけ、それから七つの祈願を献げるのであるが、そのとき私たちは、神の御前に裸になり、手ぶらで立つのである。裸というも手ぶらというも、別義ではない。私たちが献げることができるのは、この身と心しかないからである。御父さまには、神学も聖書知識も職業も家柄も財産も地位も名誉も権力も関係なし。御父さまはそんなものにはご用がない。御父さまが受け取って下さるのは、この無力な私、裸の私、打ち砕かれた私、貧しい私である。ゆえに、私たちは、裸になって、御前に立ち、賜った命すなわちこの身と心を献げるのである(ロマ一二・一、六・一三、一九)。そして、知る。私たちはすでに無量の神恩の中にいることを、何もかも賜って今ここにあることを。祈りは感謝へと変わるのである。
 一日、一日が御手の中。
 一息一息が神の息。
 宇宙も世界も自然も社会も
 命も死も、わが身も心も
 何もかもあなたのもの。
 神よ、私はあなたの
 無量功徳の中におります。


石、瓦、礫のごとき

 能令瓦礫変成金(のうりょうがりゃくへんじょうこん)という言葉がある。瓦礫のようなつまらぬものを価値ある金によく変えしむ、というのである。神の力は無限なり、神の知恵は無量なり。可ならざるなし。石、瓦、礫(つぶて)のごとき我らを変えて、金となさしむ。神におできにならぬことはない。神は何でもおできになる。恐るべきかな。畏むべきかな。讃美すべきかな。感謝すべきかな。ただ驚くのみ。イエスは言われた、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ一〇・二七)。また洗礼者ヨハネも言った、「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(ルカ三・八)。そのとおり。石ころのような、蝮の子のような私が信仰を持つ身とさせていただいたのである。


悔い改め

 時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マコ一・一五)
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 イエスの伝道開始の叫び声である。「悔い改め」というと、いかにも人間が自分の意志で、自発的に行う、反省に類似した行為のように思われるが、実はそうではない。本当の「悔い改め」は、人が神に迫られ、追い詰められて、強制されて行うのである。その時、人は、精神的な葛藤、悩み、苦しみの極点に置かれる。そのあげくに精神的な一大転換が行われるのである。それが「悔い改め」である。従って、それは決して表面的な出来事ではない。人間の根底がひっくり返るのである。こんな「悔い改め」が、果たして自分の力でできるだろうか。否、決してできはしない。この悔い改めは恵みとして神から与えられるのである。


神の子

 救いを求めての暗中模索、焦燥、絶望・・・それは、私が苦しんだり悩んだりしたのではない。神の子(キリスト)がお生まれになるために、神が苦しまれたのである。

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無 題

 神はのっぺらぼうのわたしに
 鼻から命の息を吹き込んでくださり
 み言葉を聞く耳と
 み名を賛美する口と
 み業を見る眼とを与えてくださった。
 一つとしてわたしに功はない。
 神にいかほどのご苦労があったことか。
 主のみ名はあがめられよ。


神の命


 庭の片隅で小さな蘇鉄が成長を続けている。郵便受けの邪魔になるので、毎年葉を乱雑に切られ、痛めつけられているのに、少しずつ大きくなっている。蘇鉄は、蘇鉄という具体的な形をとった神の命であるゆえに、成長して止まない。神の命に停滞や死はなく、常に新しいからである。「からしだね」や「神恩無量」も、聖書集会も、それが御心に適うかぎり命であり、絶えず成長する。命は神の力だからである。会員それぞれが、御心に謙虚に聞き従わなくてはならない。
              

天使と悪魔

 天使とは、マリアに受胎告知をしたガブリエルのごとく、人間に深い真理や神秘を告げ知らせる神の働きである。また、天使は、広く人間に働きかけて、善心や隣人愛を起させ、それを行わしめる。これらの働きは実在であるから、これを人格化すれば、天使の形をとるのである。ゆえに、「善なる働き=天使」であって、同じものと見てよい。このように、天使は実在するゆえに、悪魔(サタン)もまた実在する。悪魔は人間に悪を働きかけ、実行させる実在である。
        

アサリオン

 五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。(ルカ一二・六―七) 
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 主イエスの御言葉である。神は、五羽が千円で売られている雀のような私たちでさえ、慈しみ、育み、教育し、仕事を与え、家と家族を与えて今日まで養ってくださった。たとえ女が自分の乳飲み子を忘れることがあっても、神が私たちをお忘れになることはない。私たちは、神が御自らの手のひらに刻みつけて守って下さっている(イザヤ四九・一五―一六)。だから、私たちは安心である。人生は決して無意味ではない。私たちには使命があるはずである。

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無教会松山聖書集会  三原正實
〒七九九‐三一一一愛媛県伊予市下吾川四八八―三
[電話]080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
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《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、父なる神、子なる神(主イエス・キリスト)、そして聖霊なる神、を信じさせていただきましょう。まことの信仰(救い)を求める方のご連絡をお待ちします。



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からしだね第72号

からしだね  十
二〇一八年八月  第七十二号
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たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
愛がなければ、無に等しい。(Ⅰコリ一三・二)

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荒野の四十年

 申命記八・一―一〇は、モーセが出エジプト以来の旅を総括回顧し、イスラエルの民に対して神の戒めを守るよう諭す場面である。テーマは主の導きと恵みである。場所は、約束の地パレスチナを眼前に望むヨルダン川東岸。イスラエルの民はシナイ半島の荒れ野を四十年間彷徨し、今、まさに乳と蜜の流れる土地に入ろうとしている。モーセの語る言葉は慰めと希望に満ち、感動的でさえある。それはなぜかと言うと、読者はイスラエルの民の苦難の歴史を、自らの人生と重ね合わせて読むからである。イスラエルの人々の「四十年の荒れ野の旅」は、戦後の荒廃と貧困の中で挫折や失敗、迷いを重ねながら生き抜いて来た私たちの人生そのものである。それは、沃地ではなく、索漠とした孤独と屈辱の荒野であった。貧しい家に生を享け、病気や事故、災難をはじめ様々の苦難を舐めさせられた。世の人々の侮辱や無視、容赦ない仕打ちも味わった。今、それらを振り返ってみると、すべては主なる神の導きであったと知られるのである。この荒野の四十年において私たちは神から十戒を授けられる。それによって、私たちの犯してきた罪の重さを知らされ、心底から震え上がるのである。シナイ山で十戒を授けられるのではなく、十戒を授けられるところがシナイ山である。神の声、御言葉に出会うところがシナイ山である。
 
 私たちが神に救いを求め、罪の奴隷から救われるためには、苦難に打ちのめされ、悶絶し、そして蘇息する必要があったのである。思えば、大病をし妻子を抱えて苦境に陥ったこともある。人生に絶望し、不条理を呪い、悲運を嘆いたこともあった。しかし思わぬ助けもあり、失業もせず、なんとか路頭に迷わずに済んだ。主がマナを与えて下さったのである。「主の口から出るすべての言葉」によって生かされてきたのである。この間、貧しく質素ではあったが、衣食住なに一つとして欠けることはなかった。神の賜わる様々の恵みに気がつかなかっただけなのである。信仰を賜った今、「自らの四十年」を顧みると、すべては神の訓練であり、お導きであったと頷くことが出来る。神とも仏とも思わなかった私を捨ておかず、神の方から現われて下さったのである。荒野の四十年と十戒とは、十字架の贖いを賜るために、どうしても経験しなければならないことだったのである。イスラエルの民は、これからヨルダン川を渡らなければならないが、私たち信徒は、イエス・キリストの十字架の贖いによって、今、すでに良い土地に導き入れられている。平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、小麦、大麦、葡萄が実る土地である。不自由なくパンを食べることができ、豊かな資源や何一つ欠けることのない自然と気候・風土に恵まれている。また教育・福祉・医療・経済などの制度や社会システムもそれなりに整っている。気がつけば、私たちは、不毛の荒野から「乳と蜜の流れる土地」に、すでに渡っていたのである。これはどういうことであろうか。イスラエルの民は、これからヨルダン川を渡るのであるが、私たちは場所的移動をしたわけではない。信仰を賜ると、場所はそのままで荒野が沃地になるのである。しかも、それは、「ものは考えよう」などという主観的な思い込みではなく、客観的事実として、である。神の御業の不思議である。これは体験するほかない。よって、「あなたの神、主をたたえなさい」。


口を利けなくする悪霊

 イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。(ルカ一一・一四)
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 ここからベルゼブル論争が始まるのであるが、ここでは「口を利けなくする悪霊」に着目したい。「口が利けない」というのは、その原因がそもそも器質的なものか、精神的なものか、いずれとも解しかねるが、当時は、病はすべて悪霊のしわざと考えられていた。イエスが悪霊を追い出されると、その人はものを言い始めた。イエスは悪霊を「神の指」、つまり「神の力」で追い出されたのである。これで終わるなら、これはイエスのなされた数多い奇跡の一つであって、現代の私たちに何の関係もないエピソードである。そこで私たちに関係のある読み方をしてみたい。「口の利けない人」というのはそもそも誰なのか、ということである。それは、神を信じず、従って神を賛美することなく、神に祈り、神に感謝を申し上げることが出来ない人たちのことではないか。世辞や悪口、嘘、偽りなど、余計なことはいくらでも言うが、神を賛美することができない不信仰な人たちのことである。もともと神の恵みの下に生かされて生きているのにそれを認めようとしない人々である。これを傲慢という。主は、そのような捨てられて当然の私たちを、御自らの十字架の贖いによって悔い改めさせ、信仰の道へと導いて下さったのである。そして、口の利けなかった私たち「汚れた唇の者」(イザヤ六・五)に、「主の祈り」を授け、ものが言えるようにして下さったのである。「わたしの口に新しい歌を、わたしたちの神への賛美を授けて」(詩篇四〇・四)下さったのである。こうしてみると、「口が利けない」というのは、今日においても、器質的、精神的な原因というより、悪霊のしわざと考えるべきであろう。それは、神の力によって悪霊を追い出してもらわねば治らない病気なのである。

 聖書には、私たちに関係のないことは記されていない。「イエスは天を仰いで深く息をつき、耳が聞こえず舌の回らない人に向って、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。すると、たちまち耳が開き,舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」(マルコ七・三四)。イエスは、今も、私たちの耳元で叫ばれている。


何処へ
 
 ゴーギャンの代表作に『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』がある。人は、意識するとしないとに拘わらずこの問題を抱えている。自分は何のためにこの世に生れて来たのか。自分の一生は何だったのか。このまま死んでいけるのか。根本的に問わない限り、根本的な答えは与えられない。大疑の下に大悟あり、である。自分の欲に振り回されてこの世の価値を追い求め、仮にそれを得たとしても、それだけでは一生は空しく過ぎ去る。人生に大きな躓きや挫折は避けがたい。が、後になって、それもまた自分に必要なことであったことが分かる。やがて、財産も地位も名誉も学問も能力も、それだけでは無であることに気づかされる時がくる。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」(ルカ九・二五)ということを悟らされる日が来る。神によって、私たちはそのように導かれているのである。
ゴーギャンの問いは、人類の普遍的な問いである。人間にしてこの問いに満足な答えを与えた者はかつてなかったし、これからも恐らくあるまい。独りイエス・キリストのみが、「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っている」(ヨハ八・一四)と言われたのである。私たちはこの主について行くのである。

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友よ食べよ、友よ飲め。
愛する者よ、愛に酔え。(雅歌五・一)
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深海魚

 深海魚光に遠く住むものは
  つひにまなこも失ふとあり

 これは、「私の耳は貝のから 海の響きをなつかしむ」(ジャン・コクトオ)などの訳詩で有名な堀口大学の歌である。彼は一九六七年の歌会始の召人であり、その時の彼の歌である。深海魚とは誰を指すのか、当時識者の間で話題になった。ここではそんな穿鑿はさておき、信仰の観点から、「世の光イエス」を信じることができない人々を深海魚と捉えたい。イエスは言われた、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ八・一二)と。イエスは光としてこの世に来られたのに、光を光と認めないのは、見る人の心が暗いからである。あまりに深く日常性に埋没して深海の中にいるので、闇が闇と感じられなくなってしまった。「まなこ」を失ってしまったのである。世の人々は、自分は起きている、目覚めている、と思っているが、じつは目を開けたまま眠っているのである。人はみな目覚める必要がある。イエスを信じて光の世界に入れて頂いて初めて、今まで生きていた世界が闇であったことが分かる。そして、死んでからではなく、この世において、神と共に永遠の命を生きることができるようになるのである。「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(マコ一三・三七)。


突貫の道

 六月二日の朝日新聞に「幸田露伴の突貫の道」という特集記事があった。小説『五重塔』などで有名な明治の文豪、幸田露伴の二十歳の時の三十六日間の決死行を辿ったものである。幸田青年は北海道余市の電信分局に入ったばかりであったが、ある夏の夜そこを出奔する。実家のある東京を目指して。所持金は汽車賃のほか殆んどなく、船や馬車も利用したが、大方は徒歩によった。当時、鉄路は福島県郡山までしか開通していなかったから、そこを目指した。野宿を重ねながら野垂れ死に寸前までいったが、やっとのことで郡山に辿り着き、なんとか東京に帰ることができた。記事よれば、出奔の動機はいま一つはっきりしないそうだ。青年は、自分でも説明できない何ものかに、得体の知れない鬱勃たるものに突き動かされたのであろう。青春の賭け、冒険とも思えるが、この決断がなければ後年の露伴がなかったことは確かだ。後戻りのきかない決死行は、エジプトを脱出したイスラエルの民の荒野での四十年や、兄エサウからのヤコブの逃亡(創世記二八章以下)を想起させるものがある。私たちも、平凡な人生とはいえ、選択と決断を繰り返してきた。多くの失敗や挫折、迷いや彷徨、苦難を経て、知らぬ間に信仰の岸辺へと導かれたのである。信仰には決断と飛躍が求められる。しかし、打ちひしがれた自分にもはやそんな力はない。他の道がすべて絶たれ、四面楚歌の中で、やむにやまれず深いヨルダン川を渡るのである。パスカルの言葉で言えば「賭け」である。それも自分の力ではない。促されて、押されて飛ぶのである。そして後に知るのである、すべては神の導きであったことを。恩寵の選びであったことを。露伴の「突貫」は一心であり、一念であり、専心である。その意味で信仰の道に一脈通ずるものがある。

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主に従う生活

 茨に代って糸杉が
 おどろに代ってミルトスが生える。
 これは、主に対する記念となり、しるしとなる。
 それはとこしえに消し去られることがない。(イザヤ五五・一三)
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 主に導かれて日々を生きる信仰生活に入ると、それまでのような自らの悪業が招いていた不幸や苦難、次々と襲ってくるわけのわからぬ呪いのような煩いや災厄、様々の困難が次第に消え失せ、代わって順調で平穏な生活が始まる。体験的事実である。悪趣自然閉。神が地獄の扉を閉じて下さるのである。すべての困難や悩みがなくなるわけではないが、それらは己が担うべき十字架として前向きに受け止めることができるようになる。感謝の生活が始まる。主に従う道である。
         *
 「神恩無量」は、時々の気づきやお知らせ、独白や対話を記しているのであって、聖書知識や聖句の解説ではない。そういうことなら、世に多くの知者、学者、聖職者がいる。多くの専門書がある。それらに拠るべきである。御言葉は食べるものであって、あれこれ頭でもてあそぶものではない(ヨハネ六・五五)。「神恩無量」は救いを記しているのである。

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憩いのみぎわ            

 唯一まことの神、主を信じ、主に祈りを奉げる日暮しをさせて頂く。これ以上、何を求めることがあろう。暮しは質素でも特に欠けるものはない。これで十分である。加齢による体の衰えは恵みのしるし。もはや迷ったり、道を逸れたりする恐れはない。これ以上の安心はない。何がどうなろうとなるまいと、信仰こそ最上の賜物である。
         *
「からしだね」は、神から出される公案に対して私たちが提出する答えに似ている。各自がいろいろと知恵を絞って、「こんなものでしょうか」「あんなものでしょうか」と書いて師に見ていただくのであるが、「未徹在!」としてことごとく却下されるのである。

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無教会松山聖書集会 三原正實

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からしだね第71号

からしだね  十
二〇一八年七月  第七十一号
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十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、
わたしたち救われる者には神の力です。(Ⅰコリント一・一八)

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   キリスト讃歌         

主よ、わたしは思っていました
生まれたのはわたしだと
しかしそうではなかった
生まれたのはあなたでありました

主よ、わたしは思っていました
育ての父がわたしの父であると
しかしそうではなかった
天の父がまことの父でありました

主よ、わたしは思っていました
命はわたしのものであると
しかしそうではなかった
命はあなたのものでありました

主よ、わたしは思っていました
妻はわたしが選んだのだと
しかしそうではなかった
あなたが与えてくださったのでありました

主よ、わたしは思っていました
子どもはわたしが生んだのだと
しかしそうではなかった
子どもは神の命でありました

主よ、わたしは思っていました
神の国は天上にあると
しかしそうではなかった
今ここが神の国でありました

主よ、わたしは思っていました
産みの母がわたしの母であると
しかしそうではなかった
マリヤ様がわたしの母でありました

何もかもが御手の中にある
すべては神の中の出来事である 
息も鼓動も意志も思念も行動も
なべて御心による
時も日も月も年も
すべては神のリズムである
宇宙も世界も万物も出来事も
一切は神の愛の顕われである

新しい歌を主に向かってうたい
喜びの叫びをあげよ
よろずのものよ、
主の御名を讃美せよ。

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マグダラの女

 ルカ八・二に、「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア・・」という記事がある。七は完全数で多数を意味するから、この女には悪霊という悪霊が欠け目なく身に住み着いていた、ということになる。そうすると、マグダラのマリアとは誰のことなのか。ルカ七・三六以下の「罪深い女」がそうだとか、いろいろ言われている。しかし、そんな他人事で興味本位に聖書を読んでも仕方がない。他でもない、マグダラのマリアとは、つまり、煩悩具足、罪悪深重のこの自分のことではないか。「その男はあなただ」(サム下一二・七)。


目覚める

 世の人々は、自分は起きていると思っているが、目を開けたまま眠っているのである。目覚めなければならない。不信仰の人は、神の御目には、死んでいるのである。甦らなければならない。御言葉を二つ挙げる。

*多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。(ダニ一二・二―三)

*はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。(ヨハ五・二五)


願いは叶う

 求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(ルカ一一・九―一〇)
       *
 信仰は理屈ではなく体験である。思い込みではなく事実である。祈りが聞かれたか、聞かれないかは、信仰の目をもって見なければ分からない。私たちは神に求めるものを打ち明け、祈り続けるべきである。全能の神は、いつの間にか私たちが願う以上のことを、予期しなかったやり方で叶えて下さっている。真実はあなただけが知る。マザー・テレサは言っている。「もしその願いが神の栄光のためであれば、イエスさまはかなえてくださいます。もしそうでなければ、お願いは忘れてしまいましょう。神は、何がわたしたちにとって善いことなのか、ご存じなのです。」


文語の力

 心が打ち砕かれて悲痛の極にあるとき、支えとなるのは、聖書の言葉である。私は新共同訳を常用しているが、時に他の訳を見ることがある。最近たまたま詩篇第三十四編の文語訳を目にし、神の御心を感じた。他の訳であれば、心に響かなかったであろう。紙数の都合で、六節と十八節の二節のみ掲げるが、他の訳と読み比べて頂きたい。

⑥この苦しむもの叫びたればエホバこれをきき、そのすべての患難(なやみ)よりすくひいだしたま へり

⑱エホバは心のいたみかなしめる者にちかく在(いま)してたましひの悔頽(くひくづほ)れたるものをすくひたまふ

いつもそうとは限らないが、その時は私はこの文語訳に救われたのである。なぜ、新共同訳や口語訳でなかったのか。説明は困難であるが、文語訳には詩的言語、宗教的言語としてのリズムと力があり、人の魂への射程が深いのかも知れない。名訳と言われる所以であろう。主は、確かに私の叫びを聞き給い、救い出してくださったのである。


ベテスダ

 エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの回廊があった。その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。それは、時々、主の御使いがこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。(ヨハ五・一―五)。
       *
 というふうに記事は始まる。このうち、〔 〕の部分は、残念ながら新共同訳では削除されており、従ってこの記事は口語訳によっている。思うに、この男は、長い間、熱心に救いを求めてきた。いろいろな先生や講師の教え・説教に接する機会もあった。仲間たちはそれらの治療によって心が開かれ、次々と癒されていった。しかし、この男は真面目に求道してはいたが、どんな話を聞いても、胸に響かなかった。自分の罪が本当には分からず、頑なで、心の底から悔い改めることがなかったからである。結果、いつも取り残され、半身不随のまま癒されることがなかった。主はひと目でこの男を見抜かれ、その人にただ一言、「起きて、あなたの床を取り上げ、そして歩きなさい」と言われた。すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った(ヨハ五・六―九)。奇跡である。男は、その時、イエスがご自分の命でもって、罪をすでに贖ってくださってあるのを全身で知らされたのである。この男は、実は私なのである。イエスは、「救われたいのなら、自分を欺いてはならない。そして、あなたが後生大事にしている、古い教えやガラクタの聖書知識を捨てなさい。空っぽになったら、今、ここで、新しい葡萄酒を満たしてあげよう。」と言われている。「御言葉はあなたの近くにある」(ロマ一〇・八)、イエスはすぐ傍におられるのである。


相続人

 あなたがたは、神の子とする霊を受けたのです。もし子供であれば、相続人でもあります。しかもキリストと共同の相続人です。       (ロマ八・一五―一七)。
        *
 パウロは実に思い切ったすごいことを言う。聖霊を賜った者は神の子である。ゆえに、キリストと同じく神の相続人である。「共同の」とあるが、神は無限者であるから、集合論で習ったとおり、この世の有限な財産相続とは違って、いくら子供が多くても、相続分が半分になったり、三分の一になったりはしない。一人一人みな同じ無限を頂くのである。キリストが頂くものと芥子粒のような私が頂くものとがまったく同じなのである。有り難いことではありませんか。「わたしたちは皆、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリ三・一八)。神から主と全く同じものを賜るのだから、真に畏れ多いことながら、これもまた納得せざるを得ないのである。


わたしはある

 神はまことにおられるのか。誰もがこの問いを問う。信仰者でさえ、というか信仰者であるからこそ、このように問わざるを得ない時がある。使徒信条の一番初めに「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」とある。その神はどのようなお方かと言うと、ヨハネによる福音書には「神は霊である」(四・二四)とあり、ヨハネ第一の手紙には「神は愛です」(四・八、一六)とある。そして、「いまだかつて神を見た者はいません。」(四・一二)と御丁寧に記されている。私たちは、電気や電波、重力など、目に見えなくとも存在するものがあることは知っている。それは主として実験や体験をとおして知っているのである。だから、本当に知るとか信じるということは、理解したり盲信したりすることではなく、自分の身をもっての体験なのである。初めの問いに帰って、神は存在するのか、神は霊なのか、神は愛なのか、それは、まさにあなたが証しし、告白すべきことなのである。それ以外の証明はない。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出三・一四)と神は仰っておられるのだから。


把握不可能

 「無限」「永遠」という言葉がある。辞書を引けばその意味は載っている。しかし、その実、無限や永遠は、有限なる人間には把握不可能なものである。便宜上、一応分かったことにして処理しているだけなのである。これは「神」も同様である。神を把握したり、神を規定することはできない。もしできたとしたら、それは神ではない。私たちは、神が御自身を啓示して下さった限りにおいて、ほんの少し知識を持っているのみである。


道具

 私のこの小さな務めは必ず実を結ぶであろう。なぜなら、それは私が為していることではなく、ある貴いお方がなさっていることだから。私は道具であり、土の器に過ぎないのである。わたしたちは、「死者の中から復活させられた方のものとなり、神に対して実を結ぶようになる。」(ロマ七・四)
        * 
 雨も雪も、ひとたび天から降れば
 むなしく天に戻ることはない。
 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
 種蒔く人には種を与え
 食べる人には糧を与える。
 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
   むなしくは、わたしのもとに戻らない。
 それはわたしの望むことを成し遂げ
 わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザ五五・一〇―一一)

 この小さな冊子も、イザヤの預言のように、私が与えた使命を必ずや果たしてくれるだろう。

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北風よ、目覚めよ。
南風よ、吹け。
わたしの園を吹き抜けて
香りを振りまいておくれ。(雅歌四・一六)

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マルタとマリア     

 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ一〇・三八―四二)
        *
 短い記事なので全文を掲げた。この話の中の姉妹がヨハネ十一・一以下のマルタ、マリアと同じ人物とすると、この村はベタニヤということになるが、今は問題としない。
 客はイエスだけでなく、弟子たちもいたので、マルタは大忙しであった。一方、妹のマリアは何もせずにただ座ってイエスの話に聞き入っている。そこでマルタは、「主からもマリアに手伝うようにおっしゃってください」とつい不満をもらしてしまう。これに対し、イエスは、「マルタ、マルタ」と親しく呼びかけ、あなたはあれもこれも処理しなければと心を使っているが、無くてならないものはただ一つだけである。本当に必要なものはこの世的なものの彼方にある。マリアはわたしから命の水を頂こうとして良い方を選んだ。それを取り上げてはならない、と言われた。もとよりイエスは、マリアが働かずにいることを喜ばれたのではなく、マリアの信仰を求める心、主の御言葉にひたすら耳を傾けるその心を喜ばれたのである。この記事の意味するところは疑いようもないが、次のような、別の受け取り方もできるのではなかろうか。
 
 マルタは主を迎えて、そのもてなしに忙しいのだが、姉妹のマリアは主の足もとに座って、話に聞き入っている。マリアにとって、今は御言葉を聞くべき時なのである。私たちにもそういう時がある。明日でもない、明後日でもない、海の果てでもない、宇宙の高みでもない、「今、ここ」が大事なのである。神の呼び声がかすかに心の奥底にとどき始めているのである。といって、マルタの気配りが不必要なのではない。マルタの働きがあってこの家は保たれているのである。「主よ、マリアに手伝ってくれるようにおっしゃってください」というマルタに、主は、おだやかに告げる。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」観想的なマリアと活動的なマルタの姉妹。マルタにもかつて主の御言葉にじっと耳を傾けたときがあったのである。すでに信仰をいただいて、霊的に成熟した女性として、てきぱきと家事を切り盛りしている。今は、マリアが信仰を賜る時なのである。なんという愛すべき、すばらしい場面であろう。
 
 あるいは、こうも受け取ることができる。「ある村」は私たちの魂である。そこへ主が来られた。魂には御言葉に耳を傾けるマリアと忙しく立ち働くマルタという二つの心がある。どちらもなくてはならない。一方だけでは生きてゆけないのである。私たちは、時にはマリア、時にはマルタであることが大事なのである。ただ主が来られた今は、静かに御言葉を聞く時なのである。マリアの心は非日常、マルタの心は日常といってもよい。信仰は非日常の世界(あちら)である。そこで癒され、清められ、力をいただいて、また日常の世界(こちら)に戻るのである。どちらか一方ではいけない。行ったきり、修道院に閉じこもりきり、ではダメなのである。信仰生活はこの繰り返しである。主も人里離れた所へ行って祈られ、また人々の中に戻って来られた(ルカ五・一六、マコ一・三五外)。祈りや黙想によって霊に満たされ、苦難の道、十字架の道を命の限り生き抜くのがキリスト者の人生である。活動と観想という信仰生活の二つの側面は互に排除し合うものではなく、互いを完成させていくものである。こう考えると、マルタとマリアは実は私たちの心の働きを語っているのである。
もっと言うならば、私たちの人生の目的は、天国へ早く行くことではない。天国へ行ける資格を有しながら、この世にあって福音のために働くことである。パウロも同じ意見のはずである(フィリピ一・二一―二四)。
 聖書の記事は生きており、読む人によって多様な受け止め方ができる。御言葉に接する読者が主体的に何を汲み取るかが問題なのである。ましてや記事の註解を記憶したり、受け売りしたりすることではない。

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神恩無量        
~何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日である~
        *
タラントン

 今いるところが自分の持ち場、今していることが自分の使命なのだとつくづく思わされる。古希はすでに過ぎた。日々、老化とつきあいながら、神様から賜った一タラントンを死蔵せず、どう活用していくか。賜物は与件であり、他人のものを見ても仕方がない。パウロはⅠコリント十二章に神から授かる霊的な賜物を列挙している。曰く、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気をいやす力、奇跡を行なう力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力。これらはパウロ自身が見聞したものであろう。そのうちの幾つかはパウロ自身も与えられていたものと思われる。賜物はすべて唯一の霊の働きであり、信徒全体がキリストの体、一人一人はその部分、と示されている。そして、各自に与えられた賜物、分に応じて、自ずと役目が定まるのである。周りを見て、賜物の優劣や大小を云々するのは、天上の事柄をこの世の事柄へと貶めるものである。キリストも「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハ二一・二二)と言われた。全体を統御なさるのはキリストなのである。私たちは、己が分に応じて、キリストのみを見つめ、任された守備範囲をまもるのである。そこに自分しかできない仕事があるはずである。四番でピッチャーでなくて結構である。球拾いの役目がありがたいのである。分相応である。「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ一二・四八)のである。一タラントンで十分なのである。本物の真珠なら小さくても価が高いのである。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マコ一〇・四三―四五)。仲間と自分を比べ、競いがちな私たちに対し、キリストはこう〆おかれたのである。


駱駝

 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持が神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい(ルカ一八・二四―二五)」。これは財産のみに限らない。私たちは何もかも捨てて裸になって、今、ここで、神の御言葉のみに従うのでなければ神の国に入ることは出来ない。これまで溜め込んできた知識や昔習った古い教え、つまりガラクタをすっかり捨てて、心をカラにしなければ新しい福音は入らない。しかし、いくら言われても、何度聞いても、自分のことではないと思う。ゆえに、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。


神の先手

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハ一五・一六)。私たちは、自分が自分の意志でこの道に入ったと思っているが、実はそうではない。その前に神の御意志があったのである。神が先で私は後。すべては神のお導きである。御手の内である。

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無教会松山聖書集会  三原 正實 


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からしだね第70号

からしだね  十
二〇一八年六月  第七十号
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園の泉は命の水を汲むところ
レバノンの山から流れて来る水を。(雅歌四・一五)

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涙COBOL      

 先般、御父さま、イエスさまの御前で悔い改めをさせていただいた。復活祭の感話会で私が敬愛する兄弟に行き過ぎた発言をしてしまったからである。「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ七・五)。これまでも、何度も繰り返してきた私の過ちである。「からしだね」や信仰についての自分の考え方に固執し、それを兄弟に押し付け、つい逸脱してしまった。その元は驕りであり、高慢である。慙愧の至りである。弁解の余地はない。それは神の御目に悪と見られることであった。「わたしの罪は重すぎて負いきれません」(創世記四・一三)。私は神の手にかかり、打ちのめされ、苛まれた。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(ヨブ四二・五―六)。ただ十字架を仰ぐのみであった。主は、私のような愚かで頑な者のために十字架におかかり下さったのである。神のお叱りを受け、一週間、痛みと苦しみの中にあった。これが神の罰であり、恵みであり、愛のしるしであると感じた。「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(詩二三・四)。傲慢の角が一本折れた。苦痛は次第にやわらぎ、赦しと慰めをいただいた。いくぶん魂の浄化をみたような感じさえする。*神の憐れみが悔い改めに導いて下さったのである。「嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に変えて賛美の衣をまとわせ」て下さったのである(イザヤ六一・三)。手に絡みついた**蝮を火の中に振り落したパウロのごとく、神の力で毒は体に回らなかった。今や前進あるのみである。*ロマ二・四参照。**(使徒二八・五)

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神恩無量         
~何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日である。
 起き臥しも神恩無量の御手の中~           
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主の祈り

 キリスト教には、旧新約聖書という基礎の上に色々な教えや難解な学問があるが、すべては主の祈りに帰するのである。無知無学の私のような平信徒であろうと、偉い聖書学者や神学者であろうと、ローマ法王であろうと、マザー・テレサであろうとルターであろうと内村鑑三であろうと、皆、神様の前に幼児となって主の祈りを称えるのである。主の祈りは、①主が教えてくださった祈り、②主が祈られた祈り、③主が一緒に祈ってくださる祈り、という三つの意味が考えられる。私は、「からしだね」第五十八号(二〇一七年六月)に次のように書いたことがある。「主の祈りは、一人で称えるのではない。イエスさまと一緒に称えるのである。並んで称えるのではない。イエスさまがこの身となって称えられるのである」。今、改めてそう思う。私たちキリスト者は、主の祈りという唯一無二のものを賜っている。主の祈りは、親が子に教えるように、このように祈れ、こう唱えよと、主が一語一語を口ずから私たちに教えて下さった祈りである。命のある限り、朝に晩に、父なる神に真向い、無力な、裸の人間として、この祈りを祈らせて頂く。

インマヌエル

 滝沢克己(1909―1984)は、西田幾多郎とカール・バルトの影響下でインマヌエルの哲学という思想を展開した。インマヌエルとは「神われらと共にいます」の意味で、人間の根源的事実である。滝沢はこれを第一義の接触という。第二義の接触は、人がこの事実に目覚めるときに起きる。第二義の接触によって、人は宗教的な生を生きることになる。さて、滝沢は、神と人間との関係を、不可分・不可同・不可逆であるとした。即ち、神と人とは元々切っても切れない関係ということで不可分。しかし、全である神に対し人は無であり不可同。神から人間への啓示はあっても、人間の方から神へ至ることはできないという意味で不可逆、というのである。滝沢は第一義と第二義の関係も不可分・不可同・不可逆であるとしている」。滝沢に関する本を処分してしまったので、以上はインターネットのウィキペディアによる。長々と引用したのは、次のことが言いたかったからである。つまり、A「キリストの復活」とB「人間の救い」の関係である。キリストの復活は同時にそれを体験した人の救いである。ゆえに、AとBは不可分である。しかし、キリストの復活と人間の救いは別個の出来事である。ゆえにAとBは不可同である。そして、キリストの復活によって人間が救われるのであって、人間が救われたからキリストが復活するのではない。ゆえにAとBは不可逆である。「キリストの復活」と「人間の救い」にも、不可分・不可同・不可逆という関係が成り立つのである。今日、四月一日は復活祭である。キリスト教が立つも倒れるも、パウロが言うとおり、イエス・キリストの復活にかかっている。福音書でその個所めくりながら、こんなことに思い至ったのである。

変貌

 イエスが、ペトロ、ヨハネ、及びヤコブを連れて山に登られたときのことである。祈っておられるうちに、イエスの姿が彼らの目の前で変わり、栄光に包まれてモーセ及びエリヤと語り合われた。共観福音書のいずれにもある記事である。実際の出来事か、幻視か、内的な出来事か、いずれとも言えないが、この経験で弟子たちはイエスが誰であるかを、はっきりと知らされた。イエスは尋常のお方ではなく、もとより単なる預言者ではない。モーセやエリヤのような大預言者を超越したお方、つまり「神の子、メシア」であることを、三人の弟子たちが啓示によって初めて知らされた出来事であろう。これからいよいよ十字架への道を歩む決意を固められたイエスの身と心に異常な精神力とエネルギーが満ち
溢れた。そのオーラを目撃した弟子たちが、*ヌミノーゼの感情を体験したことは確かある。変貌の記事はその神秘を表わしているのである。ルカ九・二〇のペトロの告白「(あなたは)神からのメシアです」をビジュアル化すると、この変貌の記事になるのではなかろうか。いずれにしても、弟子たちはここで、イエスが神の子、メシアであることを本当に知らされた。このことは、現代の信徒の私たちにも起こることである。決して過去のことではない。*ヌミノーゼとは、聖なるもの、神霊的なものという意味。

花ひらく

 桜が満開である。見事というほかない。この桜に教えられた。桜の木は成長すると、季節に違わず花ひらく。これは神のお力によるものである。万物は神の言葉によって成るからである(ヨハ一・三)。信仰も同じである。人間の力ではなく、神のお力によって信仰の花がひらくのである。信仰の道に入ることも、その深化もすべて神のお仕事である。人間の介在する余地がない。「光あれ。」(創一・三)と神が耳元で告げて下さるのである。すべては神のお導きのまま、み旨のままである。よって、人が他人の信仰に手出しすることはできない。小さな桜であろうと、二分咲き、三分咲きであろうと、やがて神が満開にして下さるのである。太陽で暖め、雨で潤し、枯木に莟をつけ、下草を刈り、その木に最も相応しい環境を整え、根と枝を張らせ、幹を太らせ、育んで下さるのである。今さらながらこのことに気づかされた。毎度、愚かなことである。 

捕まる
 
 ヨナは、「ニネべへ行ってこれに悔い改めるように呼びかけよ」という主なる神からの使命を嫌い、船に乗って逃げ出した。しかし、主は大風を吹かせ、船は転覆しそうになる。災難の原因は自分にあると白状したヨナは、船員たちによって大荒れの海に投げ込まれた。巨大な魚に飲み込まれ、ヨナは三日三晩を魚の腹の中で過ごすが、魚は、主の命によって、ヨナを陸地に吐き出した。以上は、旧約聖書の珠玉とも言うべき「ヨナの物語」の前半のあらましである。彼はこの後、結局ニネべへ行かざるを得ないのである。思うに、神がお決めになったことは、人がそれからいかに逃れようとしても、逃れることはできない。神は、御意志を貫かれずにはおかないということである。神はどのような手段でもお取りになられる。「神にできないことは何一つない」(ルカ一・三七)のだから。私たちも懸命に神の御手から逃げ回って、遂にとっ捕まったのである。ニネべの人々はヨナの説教を聞いて悔い改めたが(ルカ一一・三二)、今日、果たして私たちの言葉に耳を傾ける人がいるだろうか。

天使
         *
 あなたがたは、「天使はどこにいる。見たことも会ったこともないが」と言う。「愚かな人だ」(Ⅰコリ一五・三六)。天使がいないのなら、あなたが天使になればいいではないか。
  
  御使いたちよ、主をたたえよ
  主の語られる声を聞き
  御言葉を成し遂げるものよ
  力ある勇士たちよ。
  主の万軍よ、主をたたえよ
  御もとに仕え、御旨を果たすものよ。(詩篇一〇三・二〇―二一)



 「この地に住み着き、信仰を糧とせよ。」(詩篇三七・三)
この御言葉は、今日、私が目にしたとき、実現した(ルカ四・二一)。

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今月の祈り

 御父さま、「からしだね」が七十号を迎えることができました。感謝でございます。あなたは、良きものを何も持ち合わせていない私たちを憐れみ、御知恵と御力を賜り、今のような形へと導いて下さいました。このささやかな冊子を、私たちの集会の信仰のあかしとして、また伝道の武具としてあなたが作って下さるのです。私たちが次の一号に心を尽くし、力を尽くすことができますよう、励まして下さい。

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無教会松山聖書集会  三原正實 




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からしだね第69号

からしだね  十
二〇一八年五月  第六十九号
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あなたの香油は
どんな香り草よりもかぐわしい。(雅歌四・一一)

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無知の知         
 
 西田幾多郎の哲学、つまり西田哲学は『善の研究』が有名だが、難解であることでも知られる。その哲学の根本思想が絶対矛盾的自己同一である。以下、私の理解(誤解?)している範囲で少しご紹介したい。私たちの普通に生活している世界においては、矛盾するAとBが同一であることはあり得ない。例えば、善と悪、信と不信、賢と愚が同一であることはない。しかし、私たちの存在のより深い次元においては、絶対的に矛盾するものが実は同じことである、というのである。例えば、私たちが愛なき自分であることを心の奥深くで知らされた時こそ、愛に目覚めたときである。自分ほど悪い人間はいないと知らされた時こそ、善心が起こったときである。自分の不信を知らされたときこそ、まことの信を賜ったときである。その具体例として、マルコ福音書の「癲癇の子を治す」記事が挙げられる。「父親は言った。『霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。』イエスは言われた。『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください。』(九・二二―二四)。同様に、自分の「無知」を知った時が「知」なのである。絶対矛盾的自己同一である。
 これに関連して、即非の論理をご紹介したい。「山は山ではない。だから山だ」という論理である。禅仏教の鈴木大拙はこの即非の論理を、大乗仏教の根本原理、仏教的思惟の根本としている。この論理は、肯定されている概念(山)をいったん否定し(山ではない)、この否定を経てもういっぺん肯定(山だ)に戻ったときに初めて、その概念に対応するところの物が真実にとらえられると言うのである。これが般若の智慧である。人間は、経験の世界と経験を超えた世界すなわち霊性の世界とに同時に属している存在である。例えば、神や仏、自由、不死というような概念は、すべて霊性の世界での話である。その人間が物の真実をとらえる方法が即非の論理なのである。例えば、「死は死である」と無反省に肯定して不安の念を抱いているが、「死は死でない」と分れば死を恐れる必要はない。こうして、否定を経た上での「死」は、「在りのままの在る」であるから、もはや主観的な情意の対象にならないのである。しかし、この論理は、論証的思惟によって認識されるのではなく、ただ霊性的自覚という体験においてのみ得られるというのである。つまり、宗教体験が不可欠なのである。主イエスが、ある夜訪ねてきたニコデモに言われたように、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ三・三)のである。
 幾多郎と大拙は生涯の親友であった。大拙の座禅における見性の体験を緻密かつ強靭な論理的頭脳によって突き詰めたのが西田哲学であるとさえ言われる。キリスト者は聖書があればそれでよいのであって、西田哲学や禅仏教をあえて学ぶ必要はない。しかし、真理には当然通底するところがあるので、思いついて筆をとったまでである。興味のある方は、『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』、鈴木大拙の『日本的霊性』(いずれも岩波文庫)を一読されたい。

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神恩無量         

~何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日である。
 起き臥しも神恩無量の御手の中~          
       *
オマージュ

 黒崎幸吉は、一九二一年、三十五歳の時、住友本社における幹部への道を捨て、無教会の伝道者となった。世間の人々の目からは、まことにもったいない、*愚かな決断としか見えなかったであろう。しかし、住友の重役なら黒崎でなくとも、帝大卒のエリートなら誰でも勤まる。黒崎は、世間の価値観や人々の意見ではなく、内なる神の声に従ったのである。イエス・キリストは、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ一〇・四二)と言われたが、黒崎も良い方を選んだのだ。それは、神に選ばれて歩むただ一つの道である。それを止めることは誰にもできない。黒崎はその後、ドイツ等への留学を経て聖書学者となり、私たちに詳細かつ懇切な聖書註解を遺した。彼の畢生の大業である。こういう仕事は世智弁聡の者にはできない。黒崎は渾身の力をふりしぼって、地道な大仕事をやり遂げたのである。この黒崎註解は、知無く学無き私たちにとって、まさに**エベネゼル(助けの石)のごとく世の荒野に屹立している。感謝して仰ぐべきである。私もWeb版をたまに利用させて頂いているが、これもどなたかのご労苦の賜物である。黒崎は、ルカ一〇・四について註解して曰く、「主の福音を伝える者は、財布も袋も靴も携える必要がない。主が彼らを守り、福音を伝えられる者を通して彼らの必要を充たしたまうからである。もし、絶対に主を信頼するならば、一物をも携えずに伝道の生涯に発足することができる。神の召命を信じて、伝道の生涯に突入する者もこれと同じ」。この言葉に、彼自身の若き日の決断が如何なるものであったかが読み取れるような気がする。*Ⅰコリ一・一八 **サム上七・一二(敬称略)

贈り物

 宇宙物理学者のホーキング博士が亡くなられた。彼のような天才は、神様から人類への贈り物である。神様の愛のあらわれである。神様はアインシュタインや彼のような天才を用いて、宇宙の秘密を少しずつ人間に明かされるのである。他の学問や芸術など様々の分野の天才も神様から私たちへのプレゼントである。しかし、主イエス・キリストこそ、神様から人類への最大の贈り物である。このお方に比較できるものは存在しない。

生きよ
       
 わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。(エゼ一六・六)
       * 
 失意と絶望の中で、確かに私はあなたの『生きよ』という言葉を聞いたような気がする。嘲られ、恥をかかされ、馬鹿にされ、無視され、かつての仲間さえ私を避けて通り過ぎた。だれ一人味方がなく、どこにも居場所がなかったが、孤独と屈辱と大病に耐え、なんとか生き延びることができた。血まみれ、泥まみれの中で、『生きよ』との声を聞いたからだ。『耐えよ』との声を聞いたからだ。あなたが共にいてくださったのだ。

知解

 「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。」(Ⅰコリ一五・三六)とパウロは言った。「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」(同一五・三五)と、信知すべき事柄をどこまでも知解しようとするコリントの人たちに対してパウロは怒ったのである。ここに信仰と理性・知性との断絶、根本的相違がある。コリント人は現代の私たちである。科学的で合理主義者である。頭で分かろうとするのである。信仰が分からないのである。

今、ここ

 福音は、二千年前の古臭い、埃をかぶったものではない。今日、初めて、私たちに告げられるピカピカの言葉である。喜びの知らせである。その声は、今、ここに響いている。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マコ一・一五)。福音は古くならない、いつも生まれたて。常に新しい。

呪い

 私たちは、信仰を得たとか救われたとか言って喜ぶが、神の恵みがどれほどありがたいものであるか、まだ本当には分かっていない。「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に『木にかけられる者は、すべてのろわれる』と書いてある。」(ガラ三・一三)。私は、真実、主イエスが私の身代わりとなって十字架におかかり下さったことによって、十字架のろいを免れたのである。十字架の主の御姿は、私が磔にされた姿なのである。神の恵みは私たちの理解を絶して大きい。

無道

 神は信仰によって世の人々を救おうとお考えになった。そして信仰は、*宣教によって人々にもたらされるのである。しかし実のところ、入信の人は希である。まことの信仰を賜ることは神の恩恵による。人間の側からは無道である。それを得る方策がないのである。人から神へは橋の架けようがないのである。信仰は**上から、神から一方的に来るのである。選びである。恩寵の賜物である。*「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(Ⅰコリ一・二一)**「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。」(ヤコ一・一七)

語る

 私は恐れずに書き、大胆に語るのである。神のほかに誰に遠慮する必要があろうか。誰を恐れるのか。主がこのように言っておられるではないか。「人々を恐れてはならない。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」(マタイ一〇・二六―二七)と。私は聞いたことを語るのである。

骨の骨

 すぐ横にいる人があなたの妻。神があなたのところへ連れて来られた人。あなたの「骨の骨、肉の肉」(創二・二三)。泣いても、笑っても。気に入ろうが、入るまいが。あなたのあばら骨で造った、あなたにぴったりの人。一生涯を連れ添って、人はこんな単純なことを悟らされるのである。

マイウェイ

 「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。」(ルカ一〇・二)これは、主イエス・キリストが七十二人の弟子を伝道に派遣するにあたって告げられた言葉である。この「行きなさい」を或る英訳聖書では、Go on your wayと訳している。私はこれを、「自分の道を歩め、それぞれのやり方で伝道せよ」というメッセージであると受けとめた。他の人の伝道を右顧左眄することはない。からしだね一粒ほどの働きであるが、私たちの今のこのままでよいのだ。私はこの英訳に力を得た。「主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。」(詩篇三七・四―五)

祝福

 文明とか文化とか、人間は誇るけれども、この世界は一粒の麦を播けば百五十粒の麦が穫れるように、もともと神が祝福して下さってある。私たちは、始めから恵みの中に生かされているのである。これが天地創造の要である。天地万物を完成されたのち、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創一・三一)。この宇宙に私というものが存在していること、生きているというより生かされていること、その不思議、驚き。創世記の初めにそのことが記されている。

信ずる

 私たちのアタマでは、神は「分かる」ものではない。つまり、神は知性や理性によって捉えることはできない。このため神は私たちに、知性や理性を超えた事柄については、「信ずる」という知恵をお与え下さったのである。

道具

 主よ、あなたはなぜ、私のようなつまらぬものを、かくも愛してくださるのか。離してはくださらないのか。私があなたのことを思うときは、あなたが私を思ってくださるとき。主よ、この土の器をあなたの手足として、口として 用いてください。

手渡し

 『からしだね』は、人目に晒すものではない。心の貧しき人々、真理に飢え渇く人々に届けるものである。不特定多数の人々に呼びかけるものでなく、会員と希望者のみを対象とする。ゆえに、原則として手渡しである。

インマヌエル

 神、この身になりてこの身を助くるなり。

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無教会松山聖書集会  三原正實

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からしだね第68号

からしだね  十
二〇一八年四月  第六十八号
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花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。(雅歌二・一二)

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イエスの問い     

 ルカ九・一八~二〇に基づき、ペトロの信仰告白について考えてみたい。イエスがパン五つと魚二匹でもって五千人もの人々を満腹させるという奇跡を行なった後のことである。イエスは、群衆がご自分についてどう言っているかと弟子たちにお尋ねになった。弟子たちは、洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか、昔の預言者が生き返ったのだとか、人々はいろいろ言っていますとお答えした。それに対してイエスは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とズバリお尋ねになった。イエスの問いには容赦がない。直球である。本当に聞きたいのは、人々の意見でなく、あなたはどう思っているかだ。イエスはいったい誰であるのか、弟子たちはずっと自問自答してきたことであろう。「神からのメシアです」ペトロは弟子たちを代表してお答えした。「神からの」は、神が油を注がれたの意で、ユダヤでは王や祭司や預言者が任職のときに、油を注ぐ儀式があった。それはともかく、ペトロの思い切った告白である。このような告白が人間の力だけでできるか、そこに大いなるものの促しがあったのではないか。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間(血肉)ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタイ一六・一七)。ペトロはマタイにあるように、人間の知恵ではなく、神の啓示によったのである。換言すれば、ペトロの告白は、発見の表白であった。イエスからメシアとしての印象を強く刻印され、そこから思わず発した言葉である。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」このイエスの問いは、現代の私たちへの問いでもある。一人一人が教義や学者や先達の意見でなく、自らの存在を賭けて答えねばならない。実に信仰はここに始まるのだ。信仰は知識ではない。私の決断である。先生がどうとか、他人がどう言おうが、そんなことはどうでもよい。信仰はただ一人の決断である。お前はどうなのか、どう思っているのか、ということである。恋愛も結婚も進学も就職も、人生の重要な決断は一人で下さなければならない。いわんや、信仰をや。

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神恩無量         
~何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日である~
         *
方向転換

 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」(ルカ九・二五)。
         * 
 人には、全世界とも引き換えにできないものがある。「永遠の命」「神の命」「神」である。「キリスト」である。あえて別の言い方をすれば、「まことの命」「真実の自己」である。人はこれを知るために生まれてきたのである。これを失ってはいかなる立身出世を遂げようと無。否、無以下である。人には絶対に失ってはならないものがある。これは信仰を戴いて初めて分かるものである。「魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」(詩篇四九・九)。それまでは、私たちは無意識のうちに全世界を我が物にしようとしていたのである。自我の拡大、自己中心の生き方である。それがことごとく挫折して(挫折せしめられて)、生き方が一八〇度転換するのである、(転換させられるのである)。これは自分の知恵や力によるものではない。そんなものがすべて否定されたところに、信仰の道が開けるのである。イエスに従うとは、自分の全存在を賭けて従うことである。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハ一四・六)と言われるお方に従うことである。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハ一二・二五)のである。

手ぶら

 イエスは、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために、十二人の弟子をお遣わしになるにあたり、次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持って行ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」(ルカ九・二~三)十二人の派遣に当たって、イエスはご自分の持っておられる力をお授けになり、準備をしてくださった。人間的に考えた準備は何一ついらない。否、持ってはいけないと命じられた。弟子たちは、何一つ準備せず、そのまま出かければよかった。神からの力をいただき、神の手足となって伝道に専念しさえすればよい。これは、私たちも同じである。講話や感話で何を語ろうか、どう語ろうか、など悩むことはない。必要なことは、すべて聖霊が教えてくださる。事前の準備もすべて聖霊が導いてくださるのである。むしろ、私たちが心得るべきことは、語るときには、自分を無にすることである。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起させてくださる。」(ヨハ一四・二六)。「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」(ルカ一二・一二)。この御言葉を胸に、私たちは恐れず大胆に語るのである。

賜る

 五千人のパンの記事は、共観福音書のすべてと、ヨハネ福音書にもある。それほどイエスの生涯にとって重要な出来事であった。この奇跡が現代の私たちに告げることは何か。私は、以前、『からしだね』第六十三号に、「羊」という題名で、マルコの五千人の供食について、私なりの解釈を書いた。短文なので再掲を許されたい。「『イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた』(マコ六・三四)。人は皆、飼い主のいない羊の群れの一匹に過ぎない。強がっているが、本当は、頼りない、憐れな存在である。そのことを自覚していないだけである。あるいは、気づかないふりをしているのである。私たは、目の前に欲しい物がいっぱいあるが、自分が心の奥底で本当に求めているものを知らない。主は、そんな私たちをじっと見ておられるのである。主は、帰るところさえないような私たちに、私たちの知らない食べ物を、なくてはならないまことの食べ物をくださる。五つのパンと二匹の魚を裂いて一人一人に分かち与えてくださるのである(マコ六・三五~四三)。これらの人々に、福音を伝道するにはどうすればよいのだろうか。」
 今回は、このマルコの並行箇所であるルカの記事に基づき、この奇跡についての私なりの見方を若干述べてみたい。日が傾きかけたので、弟子たちは群衆の食事や宿を心配して、「わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」(九・一二)とイエスに言う。確かに私たちキリスト者、信仰者は世の人々から隔絶したところにいる。同じ所に住んでいても、住んでいる世界が異なるのである。神と出会うときは、この世の人々と離れなければならない。大勢の群衆といても、家族といても、私たちは、一人である。信仰者はどこにいても孤独な存在である。しかし、記事の最後に、「すべての人が食べて満腹した。そして残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」とあるように、主は私たち一人ひとりに有り余るほどの豊かな糧を賜るのである。「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、
ふところに入れてもら」っているのである(ルカ六・三八)。
 信仰をいただいた者は、自分が霊的にも物質的にも、毎日、本当に豊かな恵みを賜っていることが分かる。それまでは、自分ほど不運な、不幸な者はない、哀れな者は無い。何の恵みにも与かっていない。あれがない、これがないと思って、不平不満で一杯だった。しかし、心の眼が開けると、何ともったいないことであったか、罰当りの自分であったかを悟らせていただくのである。何がどうなってもならなくとも、今のこのままが有り難いのである。衣食住、あらゆる物、もう十二分にいただいている。「ほむべきかな み名によりて うくれば物みな よからざるなし」(讃美歌五三四番)
 信仰を賜るとは、神を賜ること、神を賜るとはすべてを賜ることである。神の恵みに限度はない。無限である。五千人であろうと、一万人であろうと、一人一人が一切を賜るのである。すべての人が食べ飽きて心から満足するのである。ゆえに、良い真珠を探している商人は「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(マタ一三・四六)のである。

のさり

 作家の石牟礼道子さんが亡くなった。水俣病患者の実態を広く伝えた「苦海浄土」で知られる。訃報を大きく伝える二月一一日の朝日新聞。「天声人語」には次のように記されている。「石牟礼さんが患者から学んだ哲学は『のさり』だという。天からたまわったものを意味する。豊漁が『のさり』なら、病苦もまた『のさり』。『迫害や差別をされても恨み返すな。のさりち思えぞ(たまものだと思え)』」
 良きことも悪しきことも、賜物として受けとめる。水俣病患者の精神の深さ、豊かさに頭が下がる。主イエス・キリストの「受くべきバプテスマ」(ルカ一二・五〇)にも一脈通ずる聖性さえ感じる。私たちは多くの方々の代受苦のお陰で、受くべき難を免れたのである。極悪の罪人であるにも拘わらず、私たちは、なんと恵まれていることか。なんともったいないことか。己が重き罪を知らされるとき、毎日の平凡な暮らしが恩寵の極みに、不平不満が感謝へ、と変わるではないか。「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」(詩篇二三・六) 

聞く

 「主はサムエルを呼ばれた。『サムエルよ』サムエルは答えた。『どうぞお話しください。僕は聞いております』(サム上三・一〇)。主の呼び声が聞えたら、へりくだって耳を澄まそう。主の御声にすなおに心を開こう。主の御言葉は力、主の御声はこよなき慰め。慈しみに心を満たされ、命の水に身を浸そう。主よ、御言葉を賜え。しもべは聞いております。講師の考えや知識を聞くのではない。耳を開き、心を開いて、魂に響いてくる主の御声を、主の直説を聞くのである。私は「御言葉を待ち望みます」(詩篇一一九・一四七)。語る者も聞く者も、我を無くし、心を空しくして御言葉に出会うのである。語る者も己が語る言葉を聞いて共に喜ぶのである。
  「御言葉はあなたの近くにあり、
  あなたの口にあり、心にある。」(ロマ一〇・八)

ソドム

 創世記によると、「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。」(一九・二四)とある。聖書辞典によると、この罪と悪徳の町ソドムとゴモラは「死海の南東端にあったが、現在は海中に没している」とある。しかし、この記述をまともに信じてはなるまい。私たちがいま現に暮しているこの世界、この国、この地域、つまり、この世こそが、ソドムであり、ゴモラではなかろうか。ロトの物語は、遠い国の大昔の話ではないのである。主は、天から火を降らせる前にロトに言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる」(一九・一七)。「山へ逃げよ」と言う。この世の山ではあるまい。山とはキリストである。私たちが罪から救われるのは、キリストの福音をおいて世界のどこにもないからである。ロトと同じく、私にも連れて逃げるべき妻と二人の娘がいるのであるが、さて・・・

自己否定

 イエスの真の弟子であることはまことに難い。信仰の道は、自己肯定でなく、自己否定の道である。それこそが真の自己実現の道である。自分の願望でなく神の御意志を実現することである。これがまことの道である。「信に死し、願に生きる」のである。

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     石鎚山遠望

  神の座にませば輝く雪の嶺   正 實

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無教会松山聖書集会  三原正實 








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からしだね第67号

からしだね  十
二〇一八年三月  第六十七号
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(イエス)また言ひ給ふ『われら神の国を何になずらへ、如何なる譬をもて示さん。一粒の芥種のごとし、地に播く時は、世にある万の種よりも小けれど、既に播きて生え出づれば、万の野菜よりは大く、かつ大なる枝を出して、空の鳥その蔭に棲み得るほどになるなり』(マルコ四・三〇~三二 文語訳)

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魔の里                

 魔の里は、蠱惑の地とも呼ばれ、バニヤンの『天路歴程』では、*ベウラの国に大変近い所にあり、巡礼者の馳せ場の終わり近くに位置している。ここの空気は、おのずと人をものうくさせ、ここかしこにある魔の四阿(あずまや)に人が腰をおろしたり、寝たりすると、再び立ち上がったり、目覚めることはできないかも知れないという。また、魔女がさまざまの情慾に引き入れようとする所でもある。以前に『天路歴程』を読んだ時には、そのような落し穴もあるだろうくらいな軽い気持ちで受け取ったが、今回改めて読んでみて、「初めて本当のことが分った」(使徒一二・一一)。魔の里は外でもない、この私が陥っていた場所なのである。場所というより事柄である。それはズバリ、俳句である。私は、五年余り俳句に寄り道をし、それに力を入れて、信仰がなおざりになっていた。片手間の信仰になっていたのだ。しかし、二〇一六年五月、ある大きな力によって強引に俳句を捨てさせられ、信仰の本道に帰らせていただいた。私にとっては、俳句が魔の里であった。妖女に手もなく籠絡されていたのである。そのことに、やっと気づかせていただいたのである。   
 
 俳句は、面白くて難しい。やりだすと、深く、果てなく、思いどおりにならず、やめられない。悪女のような魔力がある。何よりも持てる時間のすべてを要求する。作句と信仰をスマートに両立できると思っていたのが甘かった。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」(マタイ六・二四)、まさにその通り。それはまた、「全身全霊であなたの神である主を愛せよ」(マルコ一二・三〇)という最も重要な掟にも反するのである。ともかく、信仰のみの道によくぞ帰らせて頂いた。あのまま俳句を続けていたら、リップバンウィンクルのように二十年も(仮に命があるとして)眠り込んでいたことだろう。なお抵抗する私に有無を言わせぬ強い力が働いた。お導きである。自分の知恵や力ではない。ただ神に感謝である。*ベウラの国とは、配偶ある地、神と人間とが夫と妻のように一体に結ばれるところ(イザヤ六二・四参照)。『天路歴程』では、この世の最終到達地で天国への待機場所。

またひとつ鯉のあぶくや寒ゆるむ 

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神恩無量         
~何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日である~ 
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レギオン

 ゲラサの墓場に住んでいた男は、永年取りついていた多くの悪霊がイエスによって追い出されると、正気に返って、イエスにお供をしたいと願い出た。イエスは、自分の家に帰り神があなたになさったことを人々に話して聞かせよと告げられた。救われた者は福音の証明者になる。キリスト者は、この「ゲラサの豚」(ルカ八・二六―三九)の記事を自分の自叙伝のように読むことができるのである。人は青壮年期は特に、心中に様々の葛藤を抱え、荒れ狂う精神そのものである。悪鬼、悪霊に支配されている。自分でどうしようもないのである。それで家庭や社会にとんでもないことをしでかす。自分が自分を破壊し、破滅に追い込むのである。ルカ八・二八の「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しいめないでほしい」は、悩める精神の叫びである。とても理性で抑えておくことはできない。その荒れ狂う様は、疾風怒濤つまりシュトルム・ウント・ドランクというべきである。精神の、身内のマグマである。罪である。精神分析学で言うリビドーという性的エネルギーや本能のなせる業とも言える。仏教の言葉では貪・瞋・痴である。しかし神は、そのような自己破滅的な、墓場のような荒れすさんだ所に住んでいる私たちに、どえらいことをして下さる。抗う私たちをお見捨てにならないのである。それがキリストの十字架による救いである。

担床

 ベトザタの池の傍の回廊に、三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスが、この横たわっている人に、「良くなりたいか」と言われると、病人は「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」と答える。イエスは、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言われた。すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした(ヨハネ五・二~八)。   
        *
 主は、この男のすべてを見抜かれて、救いの手を差し伸べられたのである。この男は、自らの罪のゆえに重病にかかっていた。周囲にいた病の人々は次々に助かっていったが、この男だけが取り残されていた。その男を主は憐れまれたのである。だから主は後に、「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」(ヨハネ五・一四)と言われたのだ。救いは、神が先手、私たちは後手である。私たちの方から手を伸ばしても、神には届かない。救いは一方的である。天から来るのである。そして、その救いは、即座である。今である。ここである。この病人のように、いつ来るか分からぬ救いを待ったり、人の手助けを当てにしたりする必要はない。私たちは、主に見抜かれて救われるのである。主の「起き上がりなさい」という一言を賜れば、それで足りるのである。助かるのである。私たちは、その声を魂の内奥に聞く。すると、罪が赦され、体も良くなって、すぐに立ち上がり、床を担いで歩きだすことができる。さて、この三十八年も病気で苦しんでいた人とは誰のことであろうか。

新天新地

 「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリント五・一七)。キリストの贖いによって罪を赦された者は、新しい霊と眼を賜り、全く新しい世界に生きることとなる。生きる目的や価値観がすっかり変わってしまう。世界がそれまでと全く異なった様相を見せるのである。その人は、外観は以前となんら変わったところのない匹夫下郎であるが、内面は以前の彼ではないのである。

莫妄想

 「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」(マタイ六・三四)私たちの小さなアタマはすぐ煮詰まって行き詰まる。特に夜は、悪い方へ悪い方へと、考えがちである。妄想に苦しめられるのである。しかし、一夜明けてみると、案外、事態は思っていたほど悪くない。それほど心配することはなかったのである。自力ですぐに何もかも解決しようとしても無理である。神様が良きように整え、良きように計らってくださるのである。

異次元

 この世の価値と神の国の価値とを比較してはならない。オリンピックの金メダルは、銀メダルや銅メダルと比較するもので、高価な真珠(天の国)と比較してはならない。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」(マルコ一二・一七)である。

第一声

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ一・一四)イエスが伝道を始められたときの第一声である。つまり、キリスト教はこの世で幸せになるための教えではなく、神の国に入れていただくための教えなのである。それが福音である。

超越

 百歳近い人の心の内には、七十代ごろまでの人とは異なる「幸福感」が存在する。東京都健康長寿医療センターと大阪大学などの研究から、こんな分析結果が浮かび上がってきた。「老年的超越」と呼ばれているもので、①思考に時間や空間の壁がなくなり、過去と未来を行き来する②自己中心性が低下し、あるがままを受け入れるようになる③自分をよく見せようとする態度が減り、本質が分かるようになる、といった特徴がある。八十五歳以上になると超越する傾向が強まり、大病を経験すると強まる傾向もあるという(以上、二〇一八・一・七付け朝日新聞グローブより)。  
 短い記事から軽々に判断は下せないが、この「老年的超越」という精神世界は、ある意味で宗教的な救いに通ずるところがあると思う。信仰という神の恵みに与らなかった人々にとっては、最後の慰めであろう。認知症にかからずに、憂いや悩みから解放されることは高齢者にとって願ってもないことだ。これがまことなら、社会の厄介者あつかいに耐え、何はともあれ平均寿命までは頑張るしかない。

兄弟姉妹

 「天にまします我らの父よ」と主の祈りを共に称えるとき、私たちは皆、兄弟姉妹なのである。私たちは、建前でなく、本当に兄弟姉妹になっているだろうか。その前提として、「霊が命を与える。肉はなんの役にも立たない」(ヨハネ六・六三)ことが本当に分って、一人ひとりが肉の関係を断ち切ってしまう勇気がなければならない。まことの信仰を賜った者同士が兄弟姉妹なのである。この世の兄弟姉妹でなく、神の国の兄弟姉妹なのである。まことの信仰を賜った者は、今すでに神の国の住人なのである。そのためには、「あなたがたは新たに生まれねばならない」(ヨハネ三・七)、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ三・三)。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(ロマ一二・一〇)である。
 また、ルカ一四・二五―三三には、イエスの弟子の厳しい条件が挙げられているが、そのうち二六節には「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」とある。自然の人情を超えなければ弟子であり得ないことが示されている。私たちは、この世の人から神の国の人になるのであるから、自ずとそのように変えられていくのであろう。これは人間の知恵や力を超えた事柄である。私たちも、肉の父母兄弟姉妹を愛するゆえに、さらに神の国の兄弟姉妹に変えていただくように、神に祈ろう。

解凍

 み言葉は、少しずつ解凍しておいしくいただく。固くて栄養価が高いから、いっぺんに食べると消化不良になる。とくに奇跡は氷結度が高いため、生のままでなく、すこし調理した方が滋養になる。

召命

 もう何年になるか。「からしだね」をある女性に届けている。時に聖書集会へのお誘いもしているが、まだその時が来ぬらしい。冊子には目を通してくださっているとのことなので、いずれは、と期待している。この方が、私が私の用でお伺いしているのではなく、私はあるお方のお遣いにすぎない、ということをいつ悟ってくださるであろうか。主イエスが自分を選んでくださり、お召しになっておられることにいつ気づかれるであろうか。「わたしに従ってきなさい」というイエス様の招きをいつまでお断りつづけることができるだろうか。そんなことを思いつつ、その日を楽しみにしているのである。

おあつまり

 「もっとも重要なことは、会の働きを神の働きとして保ち続けるということ」。この言葉は、マザー・テレサがご自分の創設された「神の愛の宣教者会」について言われたことであるが、私たちの聖書集会にもそのままあてはまることである。(マザー・テレサ『日々のことば』より)

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無教会松山聖書集会  三原正實












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からしだね第66号

からしだね  十
二〇一八年二月  第六十六号
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陰府くだり 
        
 使徒信条に「主は・・・十字架につけられ、死にて葬られ、〔陰府にくだり、〕三日目に死人のうちよりよみがえり・・・」とある。この〔陰府にくだり〕は、聖書にその記述はないのであるが、なぜ信条に入れられているのか。「ハイデルベルク信仰問答」四四には、「それは、わたしが最も激しい試みの時にも、次のように確信するためです。すなわち、わたしの主キリストは、十字架上とそこに至るまで、御自身もまたその魂において忍ばれてきた言い難い不安と恐れとによって、地獄のような不安と痛みからわたしを解放してくださったのだ、と。」とある。しかし、「初代の教会においては、これらの言葉は、キリストの死と復活のあいだの時間を示すものと理解された。この時間に、キリストは死者とともにあり、かれの体は墓にありながら、霊魂は生きていたというのである」(クランフィールド「使徒信条講解」六八―六九頁)。使徒信条の歴史的発展は複雑で、八世紀に最終的な形態をとるまでに様々の神学的な論争があったことであろう。従って、短い信条の中に様々の難解な箇所がある。素人の私としては、以上のような理解や解釈はそれとして、Ⅱコリント一二・二~三のパウロに倣って次のように言ってみたい。「私は十四年前、キリストに結ばれて救われた一人の人を知っています。その人は、それまで陰府に、地の底に打ち捨てられ、あがいていたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存知です。私はそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存知です」。つまり、キリストの「陰府くだり」は、他ならぬこの私のためであったのだと受け止めたいのである。
 
 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、
 あなたの聖なる者を
 朽ち果てるままにしておかれない」(使二・二七)。

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神恩無量         
~何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日である~
        *
大道

 加齢にともない、背骨が知らぬまに骨折している可能性がある、とのテレビのCMを見て、ひょっとしたらと思い立ち、過日、新しくできた近所の整形外科を受診した。この二、三年とくに背中と胴の曲がり具合が気になっていたからである。レントゲン写真を見ると、確かに背中が前後に曲がっているだけでなく、左右にも曲がっていたのには驚いた。予想外のことである。「骨折はないが、曲がりは今さら直しようがない」との若い医師の弁。「腹筋運動のようなことをしたら少しは直りますか」と問うと、「とんでもない。無理をせんといてください」とのことで、今のままを受け入れるしかない。歳をとれば万事このとおりだ。背中が丸くなるのは、父方の遺伝で、良くない事はすべて代々受け継ぐものらしい。私もニコデモのように、「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(ヨハネ三・四)と問いたい気分である。
 それはさておき、信仰は曲った道ではだめで、真直ぐな大道を歩まねばならない。「狭い門から入りなさい。命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ七・一三)とあるが、にもかかわらず信仰者の歩む道は正々堂々の大道なのである。
 
 荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。
 谷はすべて埋められ、
 山と丘はみな低くされる。
 曲がった道はまっすぐに、
 でこぼこの道は平らになり、
 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』(ルカ三・四~六)

 横道や脇道を進んではならない。自分の信仰がおかしいと思ったら元の出発点に引き返すことである。自分を欺いてはならない。その道は天国には通じていないのだから。バニヤンの『天路歴程』にはそのような破滅への脇道や落し穴がいくつも記されている。よって、共に信仰の大道を歩ませていただこう。
 
 そこに大路が敷かれる。
 その道は聖なる道と呼ばれ
 汚れた者がその道を通ることはない。
 主御自身がその民に先立って歩まれ
 愚か者がそこに迷い入ることはない。(イザヤ三五・八)

罪の女

 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。(ルカ七・三七~三八)
        *
 さて、この女はなぜ泣いたのか、涙を流したのか。悲しみか、そうではあるまい。では嬉し涙か。そうではあるまい。泣きながら浄福の中にいたのだと私は信ずる。この女には自分の功は何一つなく、ただ打ち砕かれた心だけがこの人のものであった。人は、それまでに人生の荒野や迷路で様々の苦難や失敗を経験しなければならない。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたはあなどられません。」(詩五一・一九)。それで、そこに天からの驚くべき賜が注ぎこまれた。信仰によって罪が赦されると、もはやその人は罪の中に生きていない。信仰から愛の行為が生みだされていく。これに対しイエスは、「あなたの罪は赦された」(ルカ七・四八)と宣言されたのである。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(ルカ七・五〇)。私たちも、この主の御言葉を聞いて、励まされ、この世という荒野をまた歩んで行くことができるのである。罪の赦しを多く感ずる人は、罪の赦しを多く受け取っている。神様は、何とかして私たちを悔い改めさせ、赦そうとしておられる。神様はみみっちいお方ではない。私たちを見抜いたうえで、全部、一時に赦して下さる。赦される方も、それにふさわしい根本的な悔い改め、回心を経験する。天地がひっくりかえるのである。

やぶこぎ

 高村光太郎に「道程」という詩がある。
  
  僕の前に道はない
  僕の後ろに道は出来る
  ああ、自然よ
  父よ
  僕を一人立ちにさせた広大な父よ
  僕から目を離さないで守る事をせよ
  常に父の気魄を僕に充たせよ
  この遠い道程のため
  この遠い道程のため

 光太郎はキリスト者ではなかったろうが、私たちはこの詩を天の御父への祈りとして読むことができる。松山聖書集会という小さな群れの前にも、きれいに出来上がった舗装された道はない。会員一人ひとりが藪漕ぎをしながら、道を切り開いてゆかねばならない。私たちの歩いた跡に道ができるのである。

 主は人の一歩一歩を定め
 御旨にかなう道を備えてくださる。(詩篇三七・二三)

 その道は、主イエス・キリストを信ずる道であり、神の国に通ずる道はこの他にない。イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ一四・六)。

盛会

 十二月二十四日のクリスマス祝会は、一年ぶりの人、半年ぶりの人、ごく最近参加の人、初めての人、それにいつもの三人で久しぶりに盛会であった。神はこのように、御自らの栄光のために、それぞれの人に働きかけて呼び集められるのである。「主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。』」(ルカ一四・二三)。おそらく、それぞれの人に神からのお遣いが来たのだろう。「信仰とは見えない事実を確認することです」(ヘブライ一一・一)。

落ちこぼれ        

 私たちの聖書集会に初めて参加された方が、ご自分のことを「教会の落ちこぼれ」と言って謙遜をされた。私はそれに対して、「私たちはみな人生の落ちこぼれです」と思わず言って笑ってしまった。信仰の道は、この世の人たちから見れば、「落ちこぼれ」が歩む道である。家、土地、富、権力、地位、名誉、成功、学歴、家柄など、世間の人が尊ぶことが信仰者には全く価値のないものとなり、信仰者の尊ぶ「十字架の言葉」は世間の人には愚かなことなのである。信仰者は世間に居場所がない。価値基準が逆転しているのである。よって、「落ちこぼれ」こそ私たちの集会の正客である。
        *
 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ一一・二八~三〇)
        * 
 「落ちこぼれ」こそが救われ、神の国へ入れていただけるのである。神は言われる。
        *
 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。(イザヤ五五・一~三)。
        *
 神の招きは、至れり尽くせりである。


聖都

 主の家に行こう、と人々が言ったとき
 わたしはうれしかった。
 エルサレムよ、あなたの城門の中に
 わたしたちの足は立っている。
 エルサレム、都として建てられた町。
 そこに、すべては結び合い
 そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。
 主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。
 そこにこそ、裁きの王座が
 ダビデの家の王座が据えられている。(詩篇一二二・一~五)
        * 
 私たちの聖書集会は、からしだね一粒ほどの小さな群れである。とはいえ、この集会は、そこに集う聖徒らにとって、聖なる都、新しいエルサレムである。まことの信仰を求める者たちが自ずと集まって来る。これは神の御手のなされる業である。聖徒らが集まり、讃美と祈りを献げるとき、単なる会議室が聖なる都に、新しいエルサレムに変わる。
        *
 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』(黙二一・二~四)

源流

 どんな大河もその源流はチョロチョロと山肌をつたう小流れに過ぎない。キリスト教もその初めはガリラヤの寒村の小さな群れであった。私たちの聖書集会がいかに小さくとも、集会に命があるかぎりその発展の可能性は無限である。無窮である。神に祝福を祈ろう!

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あらたまの辞       

 新年を迎えた。喜びである。今年こそと期するものがある。その気魄ある者に老いはない。
        * 
 新しい歌を主に向かってうたい
 美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。(詩篇三三・三)
        *
 新しい歌とは、詩や文章に限らない。溌剌とした人間の精神的・肉体的な活動、つまり創造的な生活や営みすべてが歌なのである。喜びの叫びなのである。主への讃美なのである。日々新たにされて生きる者には、自ずと新しい歌が生まれる。新たな命を賜るからだ。そのような人にして初めて「明けましたおめでとう」と言うことができるのである。永遠の命に目覚めた者は、酔生夢死のこの世の人々とは異なり、今すでに神の国に生きている。日々キリストと共にある。毎日が新しく、毎日が喜びに満ちている。人生は長さではない。「あなたの庭で過ごす一日は 千日にまさる恵みです。」(詩篇八四・一一)。

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無教会松山聖書集会  三原正實

















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からしだね第65号

からしだね  十
二〇一八年一月  第六十五号
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パラドックス        

 マタイの「山上の説教」とその併行個所であるルカの「平地の説教」について、「幸い」の個所を考えてみたい。ルカの「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」は、マタイでは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」となっている。「貧しい」と「心の貧しい」ではニュアンスが相当変わってくるし、「心の」が付くことで、理屈っぽくなっている。それだけにルカに比して、マタイはややインパクトに欠ける。ルカの方は(六・二〇~二一)、「貧しい人々は神の国が与えられ」「今飢えている人々は満たされ」「今泣いている人々は笑うようになる」と、全くの逆説で、理屈や道理が介在する余地がない。常識がひっくり返されている。細かい穿鑿はさておき、マタイとルカはどちらが救済力が強いだろうか。言うまでもない。主イエスの口からルカの記す御言葉を聞いた人々は驚いたことであろう。自分たちは最も貧しい哀れな取るに足りない者だと思っていたが、真実はその逆で、自分たちほど恵まれ、希望のある者はいないのだ。真理は逆説にある。一体、宗教や信仰は常識ではない。常識で済むなら信仰も宗教もいらない。常識は世間のものである。この世の落ちこぼれに常識を説いても誰も目覚めないし、救われない。信仰は逆説である。天地がひっくり返るのである。救われない者が救われるのである。マタイの真福八端(五・三~一〇)は八項目の高度な実践倫理であるが、ルカは三項目で、倫理的な言葉が使われていない。理屈抜きだけに衝撃力が強く、聴衆は驚いたことであろう。ここでは、完成度ではなく、インパクトを論じているのである。そして、マタイの八項目、ルカの三項目で、一つだけ選ぶとするならばどれであろう。この文章の、最初に掲げた「神の国(天の国)」をいただくことであろう。あとのものは、その中にすべて含まれているのではなかろうか。

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今月の祈り

 新しい朝を迎えさせて下さいました御父さま、感謝でございます。どうか今日も一日、御導き、御守り下さい。私が今日なすべきことを、積極果敢に果たし遂げることができますよう、どうか、その意志と知恵と力をお授けください。私の願いではなく、あなたのみ心が成りますように。

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〔私の好きな聖句〕 

 いかに美しいことか
 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
 彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
 救いを告げ
 あなたの神は王となられた、と
   シオンに向かって呼ばわる。(イザヤ五二・七)

 目がある。聖書を読むための
 耳がある。神の声を聞くための
 口がある。神の言葉を告げるための
 手がある。祈るとき合わせるための
 足がある。遣わされて行くための
 だから福音を宣べ伝える。

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神恩無量         
~何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日である~
        *
至芸

 柳家小三治という噺家がいる。テレビの大喜利には出ないが、今一番の落語の名人で、人間国宝である。その小三治が記者に「落語をおもしろくやるコツ」を問われて、次のような話をしている。
 「落語をおもしろくやるコツ。『秘中の秘』ですねえ。でもだれに言ってもいいんですよ。私の師匠の師匠、四代目の柳家小さんが、落語は初めて聞く客に初めてしゃべるつもりでやれって言った。しょっちゅう来ている人もいるし、無理じゃねえかって思ってました。でも、何とか一生懸命やろうとしてました。あるとき、はっと思ったから、よほど追い詰められていたんでしょう。客もよく知ってる。はなし手もよく知ってる。だけど、噺の中に出てくる登場人物は、この先どうなるのか何も知らない」。そう思ってやると、いつもやってる噺じゃなくなる。今日の八つつあん、今日の熊さんどう?って。いつもとおんなじかもしれないけれど、心が違う。」(二〇一七・一一・一七朝日新聞「語る」―人生の贈りもの―)。
 なんとも見事な話である。長々と引用したのは他でもない。聖書講話や説教に通じるものがあると感じたからである。聖書の「名所」と言われるほどの個所なら、聞く方も話のスジはよく知っている。「タリタ、クム」で少女が起き上がることは誰一人知らぬ者はない。だから、通り一遍の話なら、これほどつまらぬものはない。聖書知識や語句の説明、教訓を付け加えても糊塗すべくもない。会堂長のヤイロをはじめ登場人物は、これから何が起きるか、当然のことながら何も知らない。一方私たちは、この話の結末を知っていることにかけては、神様と同レベルなのである。従って、いやしくも講話とか説教とか呼ぶに値する話なら、そこに語り手の力量を超えた何かが働かなければならない。聞く方も、我を無くして心を開かねばならない。彼我相応ずるその時に、何がどう語られ、何が起こるか、語り手にも聞き手にも予測がつかない。そこはもう神の領分ではなかろうか。その時こそ、まことの奇跡が起きるのである。「いつもやってる噺じゃなくなる」のである。

どんづまり

 長血の女とは誰であろう。若い時から儒教、仏教、文学、心理学、人生論など、様々の教えや教訓に右往左往し、加えて、観念論、唯物論といった思想や哲学、マルクス主義やケインズ経済学、さらには自然科学などの学問をかじり、無意識のうちに真理や救いを求め、結果はいずれも消化不良。生涯かけて暗中模索を続けてきたこの私ではなかったか。長血の女の洩らす血とはなんであろう。それは、神なくして、信仰なくして自分中心に生きてきた、この罪の私が犯す偽りと悪に満ちた言葉と所業、仏教の言葉で言えば悪業煩悩でなくてなんであろう。長血の女とはこの私のことなのである。「娘よ、あなたの信仰(あなたが今与えられた信仰)があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮しなさい。」なんと、穏やかな、慰めにみちた主イエスの御言葉であろう。これは私に与えられた言葉なのである。「もうその病気にかからず」つまりあれやこれやの教えに惑わされるな、もうあなたは救われたのだ、わたしを信じて生きなさい、と読みたい。人は、どんづまりになって、この長血の女のように、放蕩息子(ルカ一五・二〇)のように、(神)イエスの前に身を投げ出して救われるのである。神は私たちが人生に行き詰って御自分のもとに帰って来るのをじっと待っていて下さるのである。

奇跡

 マルコ五・二一の「タリタ、クム」(娘よ、起きよ)は神の絶対命令である。「神にできないことは何一つない」(ルカ一・三七)のである。このことは、肉体的な生と死のことだけではない。不信仰の私たちは、*眼を開けたまま眠っているのであり、生きたまま死んでいるのである。「タリタ、クム」というキリストの呼び声を魂の奥底で聞く、今、ここにおいて、眠りから覚め、死から起き上がり、永遠の命に目覚めて、神に対して生きることができるようになる。それがまことの命であり、キリスト者である。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(ヨハ五・二五)。キリストの奇跡物語には、この自分が救われることが記されているのである。他人事として捉えては何の足しにもならない。つまるところは霊性的自覚である。
*「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」(ロマ一三・一一)

サムエル

 思うに、神は、その御意志を貫かれずにはおかない。神は眠りの中にも入って来られ、幼子のような純真な魂に語りかけられるのだ。サムエルは答えた。「主よ、どうぞお話しください。僕は聞いております。」(サム上三・一〇)。主の使命が告げられるに違いない。主はそのために深く長い眠りから私を呼び覚まされ、「銀を精錬するように精錬し」(ゼカ一三・九)、魂を浄化してくださったのだから。たとえ聖書を繙いても、あなたの御声が聞こえなければ、それは空しい。私の語る言葉が、あなたの御言葉でなければ、それは空しい。私の手の業があなたの御業でなければ、それは空しい。あなたが私になってくださるのでなければ、それは空しい。あなたが共にいてくださるのでなければ、すべて空しい。

がらくた

 お釈迦様が菩提樹の下でお悟りをひらいたとき、こうお思いになった。「わたしがいま悟った法は、はなはだ深く、悟りがたく、深妙であって、人々にこれを説いてもただ疲労困憊するのみであろう」。そのとき、梵天(仏法の守護神)が「世尊よ、法をお説きください。世間にはごく少数ながら、あなたの説法を聞いて、悟る人もあるでありましょう」。梵天王にそう勧められて、お釈迦様は決心し、次のように偈文をもってお答えになった。「いま、われ、甘露の門をひらく。耳ある者は聞け、ふるき信を去れ。梵天よ、われは思い惑うことありて、この微妙の法を説かなかったのである」(増一阿含経十九勧請品)。
 これと同様のことが、イエス・キリストによって、もっとわかりやすく、具体的に説かれている。それは、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(ルカ五・三八)。という御言葉である。新しい教え(福音)は、旧い考えやがらくたの知識を全部捨てて、からっぽの心になって、聞かなければならない。旧い酒、つまり旧い教え、と混ぜてはならない。今までいろんなことを聞きもし、学びもした。誰それがああ言うた、こう言うた、あの本やこの本にこんなことが書いてある。そんなものを一度すっぱり捨て去る。新しい教えは、まっさらの心になって、「今、ここ」で聞くものだ。というのは、わたし(イエス)が語るのは、あなた方の「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」(Ⅰコリ二・九)なのだから。

腰縄

 信をたまわるとは、どきんと胸に響くこと、飛び上がること、身に堪えること。これは聖霊の業である。聖霊は力である。信仰とはああだろうか、こうだろうかと思い計ることではない。聖フランチェスコは、ある日聖堂で、*マタイ一〇・九~十についての説教を聞き、激しく感動し、その場で靴も杖も捨て、ただ一本の縄を腰に巻くだけになったという。私ども凡人は、とてもこうはいかないけれども、それでもその時には何かがあるだろう。何も起こらなかったら、それはおそらく信仰ではあるまい。*「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」



 今年の春から秋にかけて、十六世紀のネーデルランドの画家ブリューゲルの「バベルの塔」展が東京と大阪で開催された。有名な絵である。その題材は、よく知られているとおり、創世記十一章の短い記事で、ノアの洪水後の出来事である。人々は、「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」としたが、これを知った神は、人間の高慢を危惧し、人々の言葉を混乱させて全地に散らし、この町の建設を中止させた、という。この絵は、新聞やテレビで見ただけだが、確かにダイナミックで迫力に満ち、想像力をかきたてる。
 さて、現代の「バベルの塔」は何であろうか。核兵器や原発をはじめ、生命科学、情報通信、金融、領土問題、温暖化その他あらゆる分野で、人間の力を過信した無謀な企てが続いている。人間には懲りるということがないらしい。いずれ、先の敗戦のように、またベルリンの壁や津波に襲われた原発のように、ことごとく神が崩壊されるであろう。ところで、私たちもそれぞれが心に「バベルの塔」を持っている。高慢や傲慢である。自己中心主義である。それは、どんどん高くなる一方で「天まで届き」、神にぺしゃんこにされた時から、求道が始まるのである。



 「それでは、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」とのイエスの問いに、「あなたはメシア、生ける神の子です」と即座に告白したペトロに、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。あなたに天の国の鍵を授ける」と言われた(マタイ一六・一三~一八)。主は、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白する私たちの信仰の上に教会(集会)を建てられるのである。この信仰は揺るがない。信仰が岩であり、ペトロなのである。そのような信仰を持つものに「天国の鍵」が授けられるのである。何も十二弟子のペトロに限ったことではない。

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無教会松山聖書集会  三原正實







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からしだね第64号

からしだね  十
二〇一七年十二月 第六十四号
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白井きくの言葉

 クリスチャンは特に神が選びたもうた者である。約束の言葉によって生まれた者である(ヨハネ一・一三)。神はエサウでなくヤコブを選んでご計画を実行されたように、今はクリスチャンをご計画の担い手としてお用いになられる。わたし達は神から割り当てられた御用をすればよいので、地上でした業、一人一人の業が高く評価されるのでは決してない。無限大な神のご計画の中に自分を投げ入れて、神の御導きに従うとき、最後の日の救いは確実である。その約束がある限り、わたし達は感謝とよろこびとをもって、命じられる馳場を一人一人が走ることができる。(『ローマ人へ』一四五㌻)

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サマリアの女        

 サマリアにあるヤコブの井戸辺である。旅に疲れた主イエスは、そこへ水を汲みに来た女に水を所望され、水についての問答が始まる。イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と不思議なことを言われる。女はついに「主よ、その水をください」と言う。そしてイエスが女に「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は「わたしには夫はいません」と答える。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」。
 私たちは、苦しんだから、悩んだから、聖書を学んだから、古今の哲学や諸学問を修めたからといって救われるのではない。また、先祖の宗教や因習を守って助かるのでもない。私たちは若い頃から、マルクス主義や実存主義など、その時々に流行した様々の思想を信奉したり、それに影響されたりして生きてきた。人間、生きている限り、つねに何かを信じている。その対象は、思想や哲学、自然科学や技術といったものだけでなく、ざっくばらんに言えば、金、若さ、健康、腕力、権力、名誉、美貌、学歴、家柄、才能など世の価値である。いわゆる偶像崇拝である。身持ちの悪いサマリアの女は、思想や価値の対象をとっかえひっかえしてきた私たちのことなのである。そして、その遍歴が五人の夫で、今はまた別の価値と連れ添っているのである。しかし、女は、つまり私たちは、それによっても満たされない自分であることに気づかされていく。イエスは、私たちの心をお見通しであり、私たちは見破られて救われるのである。「主よ、渇くことがないように、また、この井戸にくみに来なくてもいいように、その生きた水をください。」とサマリアの女のように主に願い出る者が「永遠の命にいたる水」を賜るのである。女が「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」と言うと、イエスは「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と告げられた。一方的に神の恩恵によって、憐れみによってお救いをいただくのである。主の方から私たちの方へ近づいて来られるのである。いや、もう来て下さっている。今がその時である。(ヨハネ四・六~二六についての感話) 

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私の好きな聖句

 それゆえ、主は恵みを与えようとして
   あなたたちを待ち
 それゆえ、主は憐れみを与えようとして
   立ち上がられる。
 まことに、主は正義の神。
 なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。
 主はあなたの呼ぶ声に答えて
 必ず恵みを与えられる。(イザヤ三〇・一八~一九)

 神は、私たちの苦しみや悩み、窮状をとっくにご存じである。私たちが助けを求めてみ名を呼ぶのを待っておられる。神は待ち疲れ、じっとしておられず、立ち上がって門のところまで迎えに出て下さっている。放蕩息子の帰りを待つ父親のように。  

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神恩無量       
~何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日である~
        *
希望

 被造物は、神の子たちの現われるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。(ロマ八・一八~二二)
        *
 真の信仰者、真のキリスト者が現われるのは、人間世界だけの出来事ではない。全宇宙的な出来事である。久遠の昔より待ち望まれていたことであり、全宇宙が、全被造物が渾身の力をもってただ一人のキリスト者を産むのである。まことに真のキリスト者、神の子の誕生は、それほどに稀なことであり、産みの苦しみがあるゆえに、天上に、そして地上に喜びがあるのである。こうして、被造物はやがて、空も海も陸も、動植物も鉱物も、バクテリアにいたるまで、あらゆるものが無駄に消尽されて滅びることなく、調和ある宇宙・完成された世界において、その本来の使命を達成することができるのである。本有の生命を成就することができるのである。神は、これらのことを旧約と新約によって、そして特に使徒パウロに啓示された。何という偉大な御計画であろうか。この穢れた世に、真のキリスト者、神の子をつぎつぎとお産みになる、栄光の神をあがめ、讃美したてまつる。アーメン!神に感謝!

土の器

 「神はそのすべての業を、つねにただ人間を通じてのみなされる」(ヒルティ『眠られぬ夜のためにⅠ』)。これはまことである。神の器となって神の業をする人も、される人も、その時はそのことにまったく気がつかない。ずっと後になって、そうであったかと思い当たるのである。これもまたお知らせである。土の器が自分の意志としてなしたことが、実は神によって用いられていたのである。

礼服

 本を選ぶというが、その実、人が本に選ばれている。このことは、本に限らず、服や靴などの物はもとより、人間関係、趣味、思想などあらゆることに当てはまるのではなかろうか。つまり、自分が主体のようでいて、実際は相手方に主導権がある。私が神を信ずるということも、真実は、神によって私が選ばれているのである。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタ二二・一四)この聖句、まことなるかな。自分が婚礼の礼服を着ていないことに気づかない人が多い。

御手

 主よ、私が誤ったことを言ったり行ったりすると、あなたは心を痛められます。そのあなたの苦しみが私の上に、心の苦しみとなって重くのしかかってきます。私はそれによって、私の誤りを知ります。あなたが知らせてくださるのです。「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる。」(詩篇一三九・四~五)

うぶ

 イエスは言われた。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタ一八・三)。信仰を賜るには、子供のようにならなければいけないのである。では、子供のようになるとはどういうことか。うぶな心になることである。「知恵ある者や賢い者」(ルカ一〇・二一)には、これらのことは隠されるからである。学問や知識といった夾雑物を振り捨て、頭も心もカラッポにして、その時その場かぎりで、一期一会の心で御言葉を聞くのである。メモをしたりするのが、真面目なようで一番愚かなのである。御言葉は生きているから、聞くたびに新しい。響くものがある。信ある者もなき者も同じ心構えでありたい。

註解
 
 「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ六・二〇)を始め、聖書には多くの御言葉が記されている。これらの聖句について、いろいろ註解書を調べてあれこれ解釈するよりも(それも時に必要ではあるが)、大事なことは、それをそのまま信ずることである。主イエス・キリストの言葉は、そのとおりに成るからである。なぜなら、「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が霊を限りなくお与えになるからである」(ヨハ三・三四)。キリストを信じ、聖句を真受けにすることにより、私たちは、それまでの挫折や迷妄、苦難への囚われから解放され、希望を持って自分の足で歩き始めることができる。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(ヨハ五・八)。御言葉はあげつらうより信ずることである。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」(マタ九・一三)と言われたイエスは、きっと「わたしが求めるのは信仰であって、解釈や学問ではない」と言われるであろう。

体験

 ペトロとヨハネは答えた。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使徒四・二〇)。まことにそのとおりである。私たちの福音伝道は、人に教えてもらったことや本から得た知識を伝えるのではない。この身をもって直に体験した救いと恵みを伝えるのである。そうせずにはおれないのである。

くるぶし

 ペトロは生れながら足の不自由な物乞いの男に言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍りあがって立ち、歩きだした(使徒三・六~八)。この足の不自由な男とはだれか。私のことである。イエス・キリストの十字架の贖いによって救われ、癒された人はだれも、ペトロと同じ言葉を病み伏す人々、挫折した人々、打ちひしがれた人々に告げるのである。「イエス・キリストを信じ、生きて行きなさい」と。



 私どもは小さな集会であるが、その中には腰痛で足腰が立たなくなった者がいる。喀血した者がいる。聖日礼拝の最中に二度も救急車で運ばれた者もいる。外見的には惨憺たる有様であるが、一向に悲愴な感じはない。年をとれば、病を持つ身なれば、当たり前のことである。やがてこの肉体は死ぬのである。すべてはそのご催促である。しかし、「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐みの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる。」(詩篇一〇三・三―五)のである。なんと有り難いことではないか。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」(イザヤ四〇・三一)。神の国へ!

藤袴

 散歩の途中、風の中にうっすらといい香り。この季節、あたりを見回すとどこかに金木犀が咲いている。いい香りがすれば、必ず人はその元を探そうとする。そこで思う。松山聖書集会は会員に機関誌『からしだね』を配布するのみで、一般向けにはなんら広報をしていない。言い訳めくが、情報社会は情報の大海であり、少々の発信なら、してもしなくても同じだからである。しかし、私たちの集会と『からしだね』に本物の信仰があれば、必ずやそれはいい香りをあたりに放つにちがいない。するとそれに人は引かれるのではないか。そんなことを考えながら歩いていると、小川の土手から何ともいえぬ芳香がただよってきた。秋の七草のフジバカマである。好事家が植えたもので、去年はアサギマダラの群れがやってきた。美しい大形の蝶で日本列島を縦断する。「今年は来るのが遅いですな」と犬を連れた人が言う。それでも五、六匹舞っている。「この場所をどうして見つけるのですかな」とその人がまた言う。誰しも思うことは同じだ。そこにまことの信仰さえあれば、人はおのずと集まって来るのではないか、そんなことを私は思うのである。

キリスト

 主イエスこそまことのキリスト者であった。

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無教会松山聖書集会  三原正實






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