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からしだね第90号

からしだね  十
二〇二〇年 二月  第九十号
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 貧しい人々は、幸いである、
 神の国はあなたがたのものである。
 今飢えている人々は、幸いである、
 あなたがたは満たされる。
 今泣いている人々は、幸いである、
 あなたがたは笑うようになる。(ルカによる福音書六・二〇~二一)

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イエスとトマス

 ヨハネ福音書によると、イエスは十字架刑に処せられ死にて埋葬された後、三日目の朝、空虚になった墓の外で泣いていたマグダラのマリアにまず最初にお現われになった。復活されたのである。また、その日の夕方、弟子たちがユダヤ人を恐れて家に鍵をかけて閉じこもっていると、どのようにして入って来られたのか、イエスが部屋の真ん中にお立ちになり、弟子たちに言葉をかけられた。弟子たちは主を見て喜んだのであるが、トマスはその時いなかった。次の記事はこの場面の続きである。
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 十二の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」(ヨハネ二〇・二四~二九)
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 疑い深いトマスは、主イエスの復活を信じられない、信じようとしない私たちの代表である。しかし、その私たちもいつの日か、「わたしの主、わたしの神よ」と叫ぶ時が来る。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と復活の主に言われたトマスのごとく。それは、慚愧の時であり、それ以上に歓喜の時である。一切の疑いが晴れたのである。
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 わたしたちを造られた方
   主の御前にひざまずこう。
 共にひれ伏し、伏し拝もう。
 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民
 主に養われる群れ、御手の内にある羊。
 今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。(詩篇九五・六~七)


臨死体験

 いささか旧聞に属することで恐縮であるが、二〇一四年九月のNHKスペシャル「立花隆 思索ドキュメント 臨死体験」について考えてみたい。寝つきが悪い時などに時々見る録画の一つである。
 この番組は、著名な評論家の立花隆氏が臨死体験者をはじめ、世界的な医学者や科学者、研究者を訪ねて対話を重ね、臨死体験について様々の角度から思索を進めていくという趣向である。御覧になった方も多いだろう。しかし立花氏はもとより、人はなぜ臨死体験に深い興味を抱くのであろうか。それは、臨死体験という特異な体験、つまり「死に瀕してあの世とこの世の境をさまよう体験」(広辞苑)を調べることにより、死後の世界が在るか否かを知りたいという根源的な欲求があるからであろう。ちなみに、臨死体験者は魂が肉体を離れる体外離脱などの体験によって、皆一様に死後の世界を確信し、死を恐れなくなると報告されている。それでは、肉体は死んでも、心(意識)は死なないのだろうか、という古来からの大きな問題が残る。また、臨死体験とは一種の脳内現象に過ぎないという科学者の見解も有力である。「知の巨人」といわれる立花氏は、人は死んだら心は消えるとの科学的な立場に立ちながらも、なおこれらの事柄を考え、答えを見いだそうとしている。彼は用心深く、信仰や宗教に立ち入ることを避けているようだ。

 しかし、この問題は、死ぬ時どんな体験をするかもさることながら、要するに神の存在、死後の世界があるかないか、の問題に帰するのであり、結局、医学や科学からのアプローチでは解決できないのである。人間の知恵の限界である。そして、答えはすでに何千年も前に出されているのではなかろうか。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」(Ⅰコリント一・一九)と、パウロが神の言葉(イザヤの預言)を引用しているとおりである。父なる神を信じ、主イエス・キリストによる罪の贖いを信ずる私たちには、永遠の命が約束されているのである。人は死んでもおしまいではない。これは人間の知恵ではなく、神の啓示なのである。これが信仰である。科学は万能ではない。ここが分かれ道である。そしてこれは臨死体験とは関係のない事柄である。
 臨死体験は、結局は、死に瀕したが死ななかった人のリアルな体験や記憶であり、さらに科学的に解明されればそれでよいのである。もとより、臨死体験者が死後の世界を信ずることは、私たちが言うところの信仰とは直接関係がない事柄である。


内的生活

 私はなんら為すことのない老人にすぎない。他人の眼には、私の暮しは典型的な老人の閑居にしか見えまい。確かにそうである。内的生活ということを理解しない人は、私が忙しいと言うと嗤う。外向的な人は内向的な人のことを理解できず、変人だと思うのが関の山である。私はこれでけっこう忙しいのである。しかし、説明しても無駄だからそれ以上は言わず、一緒に笑うのである。




 人生の終わりに近づいたせいか、近ごろ「道」ということよく考える。古来、人生は道になぞらえられ、宗教や哲学はもとより文学、映画、歌などで様々に表現されてきた。「道」という言葉は、私たちに 深い思いを抱かせる言葉である。そこで、いささか三題話めくが、「道」について寸考してみた。
 「僕の前に道はない、僕の後ろに道は出来る」高村光太郎の「道程」という詩の最初の言葉である。森林を鉈で切り開いていくような開拓者の気魄を感ずる。
 また、現代日本画の第一人者である東山魁夷画伯の代表作「道」は、青と緑のなだらかな野山の中を、なるい坂道が果てしなく伸びてゆく、希望を感じさせる絵である。  
 そして、芭蕉の有名な句、「この道や行く人なしに秋の暮」である。この道は、芭蕉のたたずむ夕暮れの淋しい道であり、芭蕉が人生を賭けて歩んでいる俳諧道でもあろう。芭蕉はだれに理解されなくとも、追随者はいなくとも、蕉風の確立に向けて一人行くのである。それは門弟たちには理解できぬ根源的な孤独であり、孤高の道である。
 さて、それでは今の自分にとって、「道」は、光太郎の詩と、東山画伯の絵と、芭蕉の句の、いずれに該当するのかである。正直に告白するが、老いたりとはいえ、信仰の道を拓く気概は残されており、先には永遠の命への希望の道が続いている。しかし、それは一方で、身内からも理解されることなく、ただ一人歩む孤独の道でもある。つまり、いずれも私にとって真実であり、心象風景なのである。最後に、聖書から「道」に関する聖句を紹介したい。
 
 信仰の道をわたしは選び取りました。
 あなたの裁きにかなうものとなりますように。(詩篇一一九・三〇)

信仰は生き方であり、人生であり、道なのである。そして、何よりも私たちには、イエスの御言葉がある。
 
 わたしは道であり、真理であり、命である。
 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ一四・六)

イエス御自身が道なのである。信仰者は、イエス・キリストという道をただ独り歩んで行くのである。あえて群れる必要はないのである。坦々とただ信じ、ただ生きて、ただ死んでいく。行く先は御父のもと、主イエス・キリストの御許である。


神の子は神の父

 神は、神の子を自覚した者によって、その存在を得る。ゆえに、神の子は神の父であり、神を生むのである。つまり、神の子は神によって生まれるのであるが、神はその神の子によって生まれるのである。この意味において、神と神の子は、同時存在、同時消滅、相互依存の関係にある。信仰は、究極のところ、一人一人の出来事である。


神の御苦労

 ささやかな伝道活動と信仰生活であっても、その背後にはその人の人生経験のすべてと、信仰に至るまでの苦難、苦闘がある。とはいっても、それは信者の功績ではない。信者は限りなく抵抗をつづけたのであるが、神に押し切られたのである。すべては無限なるお方の意志と力に帰せられるべきもの。苦難、苦闘は神にあったのである。信者の苦難、苦闘と見えて、実は神の御苦労であったのである。


告別の祈り

 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、
 地上であなたの栄光を現しました。(ヨハネ一七・四)。
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 イエスのこの世への「告別の祈り」の一節である。この祈りは、また「大祭司の祈り」とも言われるが、イエスはこの後、ユダヤ人に告発されて十字架につけられ、最後に「成し遂げられた」と言って、息を引き取られるのである。掲出の聖句は、私たちが人生の終わりに、父なる神に向かって語りかける言葉でなくてはなるまい。


山鳩の巣

 猫の額ほどの小さな庭であるが、毎年初冬のころ庭師に剪定してもらう。雑木ばかりなので、半日で仕上げるのであるが、今回は椿事があった。棟梁がオリーブの木の上に山鳩の巣を見つけたのである。卵が二つあるという。細い枝で隠れて見えなかったものが、刈り入れで顕わになったのだ。彼は、巣はそのままにして脚立を降りたのだが、家内がそのことを聞くや、卵を棒でつつき落としてしまった。鳥の糞で洗濯物が汚れてしまうというのである。主婦としてはもっともな意見で、反対のしようもなかったが、卵のポシャった二筋の流れが憐れであった。一抹の無力感と罪悪感が残る。何といっても命をつぶしてしまったのだ。主よ、赦し給え。

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 主に向かって歌い、ほめ歌をうたい
 驚くべき御業をことごとく歌え。
 聖なる御名を誇りとせよ。
 主を求める人よ、心に喜びを抱き
 主を、主の御力を尋ね求め
 常に御顔を求めよ。
 主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を
 主の口から出る裁きを心に留めよ。(詩篇一〇五・二~五)

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今月の祈り

 アッバ、御父さま。今日一日の御導き、御守り、感謝でございます。おかげさまで、家族一同、平穏無事に今日一日を過ごすことができました。どうか、今夜も、また明日も、御導きに与かりますように。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
[電話]080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。

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