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からしだね第95号

からしだね 十
二〇二〇年 七月  第九十五号
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 悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(ルカによる福音書一五・七)

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救われるには

 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」看守は明かりを持ってこさせて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。(使徒言行録一六・二五~三二)
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 パウロとシラスはローマの植民都市フィリピ(ギリシアの北方地方)で伝道していたが、讒言によって官憲に捕らえられ、牢に入れられた。この記事は、その夜の出来事である。不思議なのは、大地震が起こって牢の戸が開いたことよりも、看守が、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」との問いを発したことである。この問いは、そう簡単に出るものではない。自分が罪深い、救われねばならない哀れな存在だということは、中々自覚できることではないからである。神の力が看守を促したのであろう。パウロとシラスは看守に答えた。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。」と。簡明この上ない言葉である。キリスト教が一言で言い表されている。ここで注意すべきは、パウロたちの言葉は、一見、信仰が救いの条件のように表現されているが、真意はそうではない。文章や言葉ではこのように表現することしかできないが、信仰は救いの条件ではなく、信仰が救いなのである。信仰して何か別のものを賜って救われるのではなく、信仰即救いなのである。信仰を賜った者は救いを賜ったのである。これは信仰を賜った者には自明のことである。さらに言えば、「自分が救われるにはどうすればいいか」という真剣な問いが或る人に起こったとき、その人はすでに救われたのも同然なのである。


悔い改めと救いは同時

 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
 主よ、この声を聞き取ってください。
 嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
 主よ、誰が耐ええましょう。
 しかし、赦しはあなたのもとにあり
 人はあなたを畏れ敬うのです。

 わたしは主に望みをおき
 わたしの魂は望みをおき
 御言葉を待ち望みます。
 わたしの魂は主を待ち望みます
 見張りが朝を待つにもまして
 見張りが朝を待つにもまして。(詩篇一三〇・一~六)
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 神は、闇の泥沼で苦しむ人の魂の叫びを聞きたまい、御憐れみくださる。御手をさしのべて、御子主イエス・キリストによって救ってくださる。真の悔い改めと救いは同時である。


先なるもの

 我より先なるもの、根源的なものがあって、そのお方(神、キリスト)が私という「土の器」を用いて事をなされるのである。私の人生における近年の内的、外的な出来事を顧みれば、すべて私以上の大きな意志、力が働いていることを感じずにはおられない。神(根源的な力、意志、愛)が私を突き上げ、導き、原動力となり、愚鈍な私に行動を起こさせるのである。私の意志が主ではなく、私は従である。私は自分の考えで事を起こしているようであるが、真実はそうではない。私は迫られ、為さしめられるのである。神恩キリスト教会の設立も、一見、私の恣意による企てのように見えるが、決してそうではない。この無謀な企ては、神の御決意なのである。ゆえに、為されなければならず、必ず成就するのである。教会は信徒が造るものではない。教会はキリストの体であり、キリストがお働きになるために、自らがお造りになるのである。決して人間の業ではない。人間の造った教会なら永続せず、成長しないであろう。私はキリストの御意志によって働かされ、実行させられるのみである。
 信仰にかかることは、すべて先なるもの、根源的なお方の御意志によるのである。私たちが信仰の道に入るのも、決して人間の考えや決意によるのではない。それは神の御決意、御決断、御決定によるのである。ゆえに、これほど確かなことはない。救いは明らかである。今さらながら、信仰とはこのようなもの、つまり、上からのものであると気づかせられる。朝の目覚めに、このようなことを覚らされたゆえにメモしたものである。これもまた、神のお知らせ、御啓示である。


神の導き
 
 平凡な一日などない。「平凡だ」と思うのは、その人の感度が鈍っているのである。一日一日が、一瞬一瞬が神の創造であり、私たちもその中に在って、神の創造の一部を担っているのである。眼を転換すると、新型コロナに災いされている一日ですら、冒険に満ちたスリリングな一日へと変わるのである。創造は生き生きしており、変化であり、発展であり、喜びである。感受性が鋭くなると、神が聖書を通して、また、それ以外の様々な形で、私たちに語りかけていることに気がつく。例えば、家人のつぶやき、隣人の挨拶、新聞のベタ記事はもとより、その日の体調や天気、食べ物、庭に来る小鳥、道を横切る毛虫、路傍のスミレや犬ふぐり、スーパーマーケットの特売など、要するに身の内外の大小無数の出来事すべてが神の言葉である。神はこれらの出来事を通して私たちに語りかけ、導いてくださっている。信仰のない人には偶然としか受け取れない事柄も、信の眼には神の良き導き、御業であることが分かるのである。世の中の情報に惑わされず、受信機の感度を良くし、神のメッセージを聞き逃さないようにしたい。イザヤは神の導きについて、次のように預言している。
  
 あなたを導かれる方は
   もはや隠れておられることなく
 あなたの目は常に
   あなたを導かれる方を見る。
 あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。
 「これが行くべき道だ、ここを歩け
 右に行け、左に行け」と。(イザヤ三〇・二〇~二一)

 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え
 まだ語りかけている間に、聞き届ける。(イザヤ六五・二四)
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 神の導きは、体験するしか仕方がないものであるが、驚くべき事実である。最近の個人的な出来事を記せば、次のとおりである。二月初めから、プロバイダの変更、パソコンの買い換え、エアコンの修理・クリーニング、広報委員の当番など、閑居の私にしては生活に多くの変化があった。パソコンの立ち上げ、ブログの開設等では旧友のSさんに手助けをいただき、ファイルの追加、エクセルやスキャナーの使い方など広報関係ではご近所のTさんにご教示をいただいた。理解・習得はこれからの課題であるが、これらに関連して、多くの気づきやヒントを得ることができた。導きは、文章に記すと平板になってしまうが、実のところ不思議としか言いようがない。すべて、主イエスの導き、お助けであると信ずる。
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ七・七~八)
         *
 主イエスの確かな御言葉である。信じて行動を起こそう。主は生きておられる。


終末のしるし

 中国の武漢に発した新型コロナが今や世界中に広まり、毎日、多くの新たな感染者と死者が報道されている。我が国においても緊急事態宣言が出され、様々の場当たり的な対策が打ち出されているが、コロナは一向に収まる気配がない。私が住んでいる四国の片田舎も例外ではなく、いつ誰が感染してもおかしくない状況である。武漢の悲惨な有様を対岸の火事として眺めていたが、気がつけば自分の尻に火がついている。呆気にとられる他ない。世界経済もリーマンショックの時以上の、未曾有の不況に陥りつつある。世の終わりが始まろうとしているのか。各国の政治家や学者、専門家はもとより、タレントや素人が硬軟様々の発言をしている。
 聖書には、終末の徴や出来事が黙示文学的に、つまり天変地異やドラマチックな表現で象徴的に記されているが、どこまでも暗示や警告に止まっている。イエスも、「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」(ルカ二一・七)という弟子の質問に対して真正面からは答えておられない。世の終わりは、父なる神のみが知りたまうことだからであろう。私たちは、無責任なデマに惑わされず、杞憂に陥らず、自分ができる用心を怠らず、一日一日を神の導きに従い、主イエスの御跡をたどっていくばかりである。必ず良き出口が見つかるであろう。むしろ、今回のパンデミックを機会に、新たな時代が始まることを期待したい。私たちは、不安や恐れに捕らわれず、希望に生きたいものである。


マイタウン
 
 四月から地域の広報委員を務めさせていただいている。当番が回ってきたのである。これまで地元のことには全く無関心であったが、事務を引き継いでみて、自分が地域のことを何も知らないことに驚いた。三十数年前、この地に住み着いたころは、大方が田圃で、ご近所は四、五軒しかなかった。今は、戸建てやコーポが建ち並び、すっかり住居地域に変わってしまった。若い家族が多いから子供も多く、伊予市では活気ある地域の一つであろう。とまれ、一年の任期である。たいしたことはできないが、町内会の下僕として仕えさせていただくのみ。これも神のご用命である。新たな出会い、新たな発見もあるはずだ。老若男女、皆共に生きる人たちである。

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 神がわたしたちを憐れみ、祝福し
 御顔の輝きを
   わたしたちに向けてくださいますように
 あなたの道をこの地が知り
 御救いをすべての民が知るために。

 神よ、すべての民が
   あなたに感謝をささげますように。
 すべての民が、こぞって
   あなたに感謝をささげますように。(詩篇六七・二~四)

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今月の祈り

 父なる神よ、地域の若い人たちを祝福してください。それぞれ仕事や子育てに励みながら、地域社会を支える中核として大きな役割を果たしています。新型コロナが一日も早く終息し、若い世代が存分に楽しみ、安心して活躍できる世の中になりますように。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
℡080・6384・8652
E‐mail masa73@gc5.so-net.ne.jp
https://sinonkirisutokyoukai.blog.ss-blog.jp/
《読者の皆様へ》 
 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。


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