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からしだね第96号

からしだね ✞
二〇二〇年 八月  第九十六号
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 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。(マルコによる福音書九・四一)

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†突風を静める 

 ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。(ルカ八・二二~二五)
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 奇跡物語である。イエスが突風や荒波という自然現象をも支配する力をお持ちの方であることが記されている。しかし、イエスが神の御子であることを信ずる者は、この記事を文字どおりの史実として受け止めねばならない、ということはない。むしろ、いつでも、どこでも、誰にでもあてはまる信仰的事実として受け取りたい。イエスが、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われたことに着目したい。人生は平穏な日ばかりではない。私たちは、思ってもみないときに、病気や事故、災難に出くわす。そんな時、うろたえ、嘆き、その状態から一刻も早く逃れたいとあせるのである。信仰者とて例外ではない。しかし、私たちが少し落ち着きを取り戻し、イエスが共にいてくださることに目を向けると、事態はそれほど悲観したものではなく、相応の解決策があることに思い至ることが多い。それは、単に心の持ちようということではなく、私たちを神が支えてくださるからである。また、私たちが気がつかなくても、実際に神の介入によるお助けを賜るのである。仮に最悪のことを覚悟しなくてはならない場合でも、イエスにすべてをお任せすることが出来るのである。イエスは、外界を変え、内界を静めてくださる。イエスをキリストと信じ、その生き方に従うとはこのようなことである。


†なりゆきまかせ(特別寄稿)  暮天子
 
 古希間近になって人様から「これまでの人生を振り返り、信念を述べよ」と問われ、語るべきものを持たないことに、いささか唖然とする思いです。
 ただ最近の新聞紙上で、年下の正岡子規を俳句の師と仰いだ内藤鳴雪翁の号が、「なりゆき」をもじったものであることを知り、また樹木希林さんの「一切なりゆき」が多くの人の共感を得て、ベストセラーになっていることを聞くと、昔から多くの人が「なりゆき」で満足して生きてきた気がします。確かに、「なりゆき」の人生では、人に誇れる生き方ではないかも知れませんが、そもそも信念を貫いて一生を強く生きられる人が、どれ位いるものでしょうか。
 私自身これまで、ほとんど「なりゆき」で生きてきたし、これからもそうでしょう。もともと信念とか信条とかは、好みではありません。守れないことが分かっていますし、押し通せるほどの充実した気力・体力を持ったこともありません。
 人生の一つの分岐点と言える高校受験は、単に、兄と同じ学校だと面倒がないと母親が希望したから。大学の選択は、アルバイトで生活費を賄う必要から、学生寮が大きな大学で求人が多そうな都市を選んだに過ぎません。そもそも大学に行けることが、当然とは思っていませんでした。中小企業の社宅に住まわせてもらっている両親は、高齢でいつクビになってもおかしくない立場。その時は、私が就職して支えるしかありません。未来があちらに行くかこちらに流れるかは、自分の思惑の外でした。それならば、何ごとにも執着せず、無理にでも「この世の一切は空なり」とか「世間はみな虚仮」と自分に言い聞かせた方が、少しは楽に生きられます。ただ幸にも、社長が「もうそろそろ、よかろ」と両親に告げたのは、私が就職して二年目。数年間もの猶予をもらえたのは、とても有り難いことでした。
 両親を連れ、何とか新しいアパートに目処がついた時、一つの山を越えた感とともに、これから先は両親の面倒を見ることで、一生独身もありうると覚悟していました。ところが、今振り返ってみれば、いつの間にか子供にも孫にも恵まれ、おまけにマイホームを手に入れて、質素だけど穏やかな老後まで過ごせています。こうした人並みの人生が得られたのは、四十年近く仕事を勤め上げたことも重要ですが、何と言っても日本の高度経済成長の波と自分の働き盛りがうまく重なったことが大きいでしょう。運悪く、いわゆる「氷河期」に遭遇して、就職に恵まれなかった世代がいます。今まさに新型コロナ禍に巻き込まれ、途方に暮れている世代もいます。彼ら彼女らに比べ、私はただ幸運だったとしか言いようがありません。
 人生は、結末の多くが「ドボン」に至る巨大なアミダくじかも知れません。いろいろな所に岐路が潜み、そこを踏み誤れば崖下に落ちる。病気、事故、災害、不況、悪意などの様々なアクシデントがいつ襲ってくるのか、普通の人では予測がつきません。私の一生がどうにかなったのは、信念の強弱や善し悪しではなく、ただ「なりゆき」に恵まれたせいでしかないと思っています。
 さて、人生の残りも少なくなってきましたが、これからの「なりゆき」もラッキーが続くのか、それともアン・ラッキーに遭遇することになるのか。どちらになるにせよ、一日一日を「それなり」に生きていこうと思っています。

―編集者から―
 今号は旧友の暮天子さんに特にお願いして、「我が信念」というテーマで寄稿していただいた。順風満帆ともいえる半生が、軽快な才筆で綴られている。ご同慶の至りである。ところで、福音書では、人生は湖を小舟で渡るのに譬えられている。平穏な日々も、いつ突風に襲われるか分からない。巻頭のルカ福音書の記事は、私たちにそのことを教えてくれる。暮天子さんは、いわば「なりゆき」を神としておられるわけであるが、私は、いずれまことの神の導きにより、氏の信念が信仰に昇華される日が来ることを信ずるものである。
        *
 知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら
 あなたは主を畏れることを悟り
 神を知ることに到達するであろう。(箴言二・二、五)


†神恩キリスト教会への道

 新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。(マタイ九・一七)
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 私たちが教会や信仰グループに近づくきっかけは、聖書について学びたい、キリスト教について知りたい、信仰に興味や関心がある、人生の悩みや苦難から救われたいなど、人それぞれであろう。しかし、求道と言えるほどの真剣な信仰は、ごく少数の人々に許された恵みである。大抵の人は信仰と言っても、表面的で、形だけのきれい事に終始している。齢五十を過ぎた私が最初に戸を叩いたのはカトリック教会であったが、そこは聖書を学ぶことよりも、日曜毎の聖日礼拝が中心で、信徒はいわば檀家である。信徒はローマカトリック教会という上意下達の体制に所属し、ミサに参列することで満足する。聖書はあまり読まない。それが彼らの信仰なのである。私にとって信仰とは救いを求めることであったから、これに飽き足らず、洗礼を受ける直前になって教会を離れた。
 次に私が訪ねたのが、無教会である。これはプロテスタントの一派で、内村鑑三が創始したものである。信者の集まりを集会と呼び、洗礼の必要はなく、「信仰のみ、聖書のみ」である。司祭や牧師はいない。会議室の一室で聖日礼拝を行う。礼拝は聖書の学びが中心で、信仰歴の長い者が分担で聖書講話を担当する。その点は私の好みにあったが、結果的に、この集会からもすぐに退会した。講話の内容に今ひとつ満足が得られず、先輩方の「信仰」に若干の違和感を持ったからである。無教会とはこれで縁が切れたはずであったが、それから数年後、二度目の退職を機に、集会に復帰を認めてもらった。他に行くべき教会がなかったからで、私もずいぶん勝手なものである。すると、「おまえも講話をやれ」と言われ、隔週毎に素人なりに聖書講話を担当させてもらった。また、私の提案で小さな信仰誌「からしだね」を発行することになり、編集を任せてもらった。こうして約十年が経過した。
 
 しかるに、昨年三月、この集会と再び別れることとなった。その原因は、信仰に対する考え方の違いが次第に明らかになってきたからである。私は、「真の信仰には自己変革が求められる、微温的であってはならない、形だけのきれいごとの信仰なら無教会の存在理由はない。特に、集会の指導的立場にある者は、自らの信仰を常に問い直すべきである」と信じており、それを近年、機会ある毎に発言してきた。信仰は、信仰歴の長さや聖書知識の多さではない。熱心や真面目でもない。何よりも、悔い改め、回心の有無を曖昧にしてはならない、と思うからである。私は、各自の自主的な信仰刷新を求めたつもりだが、先輩たちからは、「それは他人の信仰を批判するもの、裁くもの」として断固斥けられた。私の考え方は確かにラディカルであり、若い時に無教会の先輩から受けた教えを後生大事に守っていこうとする集会の体質とは、どうしても相容れなかったのである。このようなことから、私がこの集会を出た方が双方のためによいと確信するに至った。思えば、私と聖書集会とは、最初から最後までいわば同床異夢だったのである。異質の私が無理な要求をし、彼らの平穏を乱したのである。長きにわたり、棘の多い私に寛容に接してくれた聖書集会の面々には、深く感謝を表したい。
 とまれ、以上のような経緯から、私は自分の信ずる道を行くこととなり、無謀にも神恩キリスト教会を立ち上げた。新しい信仰の息吹には新しい革袋が必要だからである。教会という名称は使うものの、内村鑑三の精神を受け継ぐものであることに違いはない。笑う人は笑うがよい。「七十歳をとっくに過ぎたお前に何ができる」と。私にも成算があるわけではない。ただ神の導きを信ずるのみである。古いぶどう酒を飲みたい人には古い革袋がある。新しいぶどう酒がいい人はこちらへ来ればよい。神はそれぞれを良き方向へ導いてくださるであろう。


†Kさんからの葉書

 「からしだね」を郵送してしばらくすると、高齢のKさんから葉書が届く。私は、いつも彼の文面を、イエス様から私に対する励ましの言葉として受け止めている。イエス様は、彼の筆を借りて、私を力づけてくださるのだ。主は生きておられる。イエス様は「からしだね」の真実の執筆者であり、最も厳しい読者でもある。心を神に向け、熟慮して書かなければならない。神のご催促である。


†花菖蒲

 五月の朝、切り花の花菖蒲の莟から二つ三つ清楚な花が現れた。私はそこに咲ききろうとする花の意志、命の力を感じた。そうでなくては、花瓶の水だけで咲くはずがない。そして、信仰を思う。信仰も命である。信仰者は、神から賜った小さな信仰の花を生涯咲かせるのである。

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 神は羽をもってあなたを覆い
 翼の下にかばってくださる。
 神のまことは大盾、小盾。
 暗黒の中を行く疫病も
 真昼に襲う病魔も
 あなたの傍らに一千の人
 あなたの右に一万の人が倒れるときすら
 あなたを襲うことはない。
 あなたの目が、それを眺めるのみ。(詩篇九一・四、六~八)

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今月の祈り

 父なる神よ、新型コロナによる肺炎がこのまま終息しますように。六月初旬の今、我が国における感染は、なんとか山を越したようです。これは、国民の賢明な予防や活動自粛によるもので、自治体間の競争も功を奏しました。経済が活力を取り戻し、日常生活が徐々に戻ってきますように。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
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《読者の皆様へ》 
 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。

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からしだね第95号

からしだね 十
二〇二〇年 七月  第九十五号
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 悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(ルカによる福音書一五・七)

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救われるには

 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」看守は明かりを持ってこさせて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。(使徒言行録一六・二五~三二)
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 パウロとシラスはローマの植民都市フィリピ(ギリシアの北方地方)で伝道していたが、讒言によって官憲に捕らえられ、牢に入れられた。この記事は、その夜の出来事である。不思議なのは、大地震が起こって牢の戸が開いたことよりも、看守が、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」との問いを発したことである。この問いは、そう簡単に出るものではない。自分が罪深い、救われねばならない哀れな存在だということは、中々自覚できることではないからである。神の力が看守を促したのであろう。パウロとシラスは看守に答えた。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。」と。簡明この上ない言葉である。キリスト教が一言で言い表されている。ここで注意すべきは、パウロたちの言葉は、一見、信仰が救いの条件のように表現されているが、真意はそうではない。文章や言葉ではこのように表現することしかできないが、信仰は救いの条件ではなく、信仰が救いなのである。信仰して何か別のものを賜って救われるのではなく、信仰即救いなのである。信仰を賜った者は救いを賜ったのである。これは信仰を賜った者には自明のことである。さらに言えば、「自分が救われるにはどうすればいいか」という真剣な問いが或る人に起こったとき、その人はすでに救われたのも同然なのである。


悔い改めと救いは同時

 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
 主よ、この声を聞き取ってください。
 嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
 主よ、誰が耐ええましょう。
 しかし、赦しはあなたのもとにあり
 人はあなたを畏れ敬うのです。

 わたしは主に望みをおき
 わたしの魂は望みをおき
 御言葉を待ち望みます。
 わたしの魂は主を待ち望みます
 見張りが朝を待つにもまして
 見張りが朝を待つにもまして。(詩篇一三〇・一~六)
         *
 神は、闇の泥沼で苦しむ人の魂の叫びを聞きたまい、御憐れみくださる。御手をさしのべて、御子主イエス・キリストによって救ってくださる。真の悔い改めと救いは同時である。


先なるもの

 我より先なるもの、根源的なものがあって、そのお方(神、キリスト)が私という「土の器」を用いて事をなされるのである。私の人生における近年の内的、外的な出来事を顧みれば、すべて私以上の大きな意志、力が働いていることを感じずにはおられない。神(根源的な力、意志、愛)が私を突き上げ、導き、原動力となり、愚鈍な私に行動を起こさせるのである。私の意志が主ではなく、私は従である。私は自分の考えで事を起こしているようであるが、真実はそうではない。私は迫られ、為さしめられるのである。神恩キリスト教会の設立も、一見、私の恣意による企てのように見えるが、決してそうではない。この無謀な企ては、神の御決意なのである。ゆえに、為されなければならず、必ず成就するのである。教会は信徒が造るものではない。教会はキリストの体であり、キリストがお働きになるために、自らがお造りになるのである。決して人間の業ではない。人間の造った教会なら永続せず、成長しないであろう。私はキリストの御意志によって働かされ、実行させられるのみである。
 信仰にかかることは、すべて先なるもの、根源的なお方の御意志によるのである。私たちが信仰の道に入るのも、決して人間の考えや決意によるのではない。それは神の御決意、御決断、御決定によるのである。ゆえに、これほど確かなことはない。救いは明らかである。今さらながら、信仰とはこのようなもの、つまり、上からのものであると気づかせられる。朝の目覚めに、このようなことを覚らされたゆえにメモしたものである。これもまた、神のお知らせ、御啓示である。


神の導き
 
 平凡な一日などない。「平凡だ」と思うのは、その人の感度が鈍っているのである。一日一日が、一瞬一瞬が神の創造であり、私たちもその中に在って、神の創造の一部を担っているのである。眼を転換すると、新型コロナに災いされている一日ですら、冒険に満ちたスリリングな一日へと変わるのである。創造は生き生きしており、変化であり、発展であり、喜びである。感受性が鋭くなると、神が聖書を通して、また、それ以外の様々な形で、私たちに語りかけていることに気がつく。例えば、家人のつぶやき、隣人の挨拶、新聞のベタ記事はもとより、その日の体調や天気、食べ物、庭に来る小鳥、道を横切る毛虫、路傍のスミレや犬ふぐり、スーパーマーケットの特売など、要するに身の内外の大小無数の出来事すべてが神の言葉である。神はこれらの出来事を通して私たちに語りかけ、導いてくださっている。信仰のない人には偶然としか受け取れない事柄も、信の眼には神の良き導き、御業であることが分かるのである。世の中の情報に惑わされず、受信機の感度を良くし、神のメッセージを聞き逃さないようにしたい。イザヤは神の導きについて、次のように預言している。
  
 あなたを導かれる方は
   もはや隠れておられることなく
 あなたの目は常に
   あなたを導かれる方を見る。
 あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。
 「これが行くべき道だ、ここを歩け
 右に行け、左に行け」と。(イザヤ三〇・二〇~二一)

 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え
 まだ語りかけている間に、聞き届ける。(イザヤ六五・二四)
         *
 神の導きは、体験するしか仕方がないものであるが、驚くべき事実である。最近の個人的な出来事を記せば、次のとおりである。二月初めから、プロバイダの変更、パソコンの買い換え、エアコンの修理・クリーニング、広報委員の当番など、閑居の私にしては生活に多くの変化があった。パソコンの立ち上げ、ブログの開設等では旧友のSさんに手助けをいただき、ファイルの追加、エクセルやスキャナーの使い方など広報関係ではご近所のTさんにご教示をいただいた。理解・習得はこれからの課題であるが、これらに関連して、多くの気づきやヒントを得ることができた。導きは、文章に記すと平板になってしまうが、実のところ不思議としか言いようがない。すべて、主イエスの導き、お助けであると信ずる。
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ七・七~八)
         *
 主イエスの確かな御言葉である。信じて行動を起こそう。主は生きておられる。


終末のしるし

 中国の武漢に発した新型コロナが今や世界中に広まり、毎日、多くの新たな感染者と死者が報道されている。我が国においても緊急事態宣言が出され、様々の場当たり的な対策が打ち出されているが、コロナは一向に収まる気配がない。私が住んでいる四国の片田舎も例外ではなく、いつ誰が感染してもおかしくない状況である。武漢の悲惨な有様を対岸の火事として眺めていたが、気がつけば自分の尻に火がついている。呆気にとられる他ない。世界経済もリーマンショックの時以上の、未曾有の不況に陥りつつある。世の終わりが始まろうとしているのか。各国の政治家や学者、専門家はもとより、タレントや素人が硬軟様々の発言をしている。
 聖書には、終末の徴や出来事が黙示文学的に、つまり天変地異やドラマチックな表現で象徴的に記されているが、どこまでも暗示や警告に止まっている。イエスも、「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」(ルカ二一・七)という弟子の質問に対して真正面からは答えておられない。世の終わりは、父なる神のみが知りたまうことだからであろう。私たちは、無責任なデマに惑わされず、杞憂に陥らず、自分ができる用心を怠らず、一日一日を神の導きに従い、主イエスの御跡をたどっていくばかりである。必ず良き出口が見つかるであろう。むしろ、今回のパンデミックを機会に、新たな時代が始まることを期待したい。私たちは、不安や恐れに捕らわれず、希望に生きたいものである。


マイタウン
 
 四月から地域の広報委員を務めさせていただいている。当番が回ってきたのである。これまで地元のことには全く無関心であったが、事務を引き継いでみて、自分が地域のことを何も知らないことに驚いた。三十数年前、この地に住み着いたころは、大方が田圃で、ご近所は四、五軒しかなかった。今は、戸建てやコーポが建ち並び、すっかり住居地域に変わってしまった。若い家族が多いから子供も多く、伊予市では活気ある地域の一つであろう。とまれ、一年の任期である。たいしたことはできないが、町内会の下僕として仕えさせていただくのみ。これも神のご用命である。新たな出会い、新たな発見もあるはずだ。老若男女、皆共に生きる人たちである。

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 神がわたしたちを憐れみ、祝福し
 御顔の輝きを
   わたしたちに向けてくださいますように
 あなたの道をこの地が知り
 御救いをすべての民が知るために。

 神よ、すべての民が
   あなたに感謝をささげますように。
 すべての民が、こぞって
   あなたに感謝をささげますように。(詩篇六七・二~四)

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今月の祈り

 父なる神よ、地域の若い人たちを祝福してください。それぞれ仕事や子育てに励みながら、地域社会を支える中核として大きな役割を果たしています。新型コロナが一日も早く終息し、若い世代が存分に楽しみ、安心して活躍できる世の中になりますように。

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 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。


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からしだね第94号

からしだね 十
二〇二〇年 六月  第九十四号
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 あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。(マタイによる福音書五・一三)

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 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(マタイ一六・二六)
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 「命」とは、肉体的に生きているという意味ではあるまい。イエス・キリストの御言葉は、「命あっての物種」などという俗諺ではない。御言葉の言う「命」とは、私たちがこの世に生を享け、存在している理由、本分、真実であろう。それを失ったら、たとえ一国の宰相になろうと、莫大な富を手に入れようと、生まれてきた甲斐がないのである。良心をなくしてしまえば、たとえ高位高官に任ぜられようとも、生きている意味がない。これは神に指弾されて、初めて気がつく事柄である。大事なのは世間の評価ではない。神に真向かい、神から与えられた各自の小さな使命を果たすことである。キリストの御言葉に耳を傾け、その御跡に従うことである。これ以上の務めはない。


長血の女

 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。(マルコ五・二五~三〇)
         *
 この物語は、長いあいだ婦人病で苦しんでいた女性が、主イエスに救われた奇跡である。当時のユダヤ社会においては、生理中の女性は汚れた存在と見なされていたから、十二年間も出血の止まらないこの女性がいかに苦しんだかは、察するに余りある。この女性は多くの医者にかかって、ありとあらゆる治療法を試みた。財産も使い果した。しかし、病気は悪くなる一方で万策尽きたような状況にあった。そんな時、イエスの噂を聞いたのである。女性は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思い、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。汚れた身で後ろから触れるということは、社会的には非難されるべき企てであるが、女性は必死の思いでそうしたのであろう。すると、すぐ出血が完全に止まって病気がいやされたことを体に感じた。血の源(もと)が涸れて、病気が治ったのを感じたのである。

 さて、このイエスによる奇跡的な治癒の物語はいったい何を語っているのか。長血の女とは誰のことなのか。私は、ある初老のキリスト者のことを思うのである。彼は平凡な勤め人で、多くの男性と同じように仕事中心の人生を歩んでいたが、四十代のなかば頃から急に生活が乱れ始めた。仕事や昇進が順調なのをよいことに、家庭を顧みず、老親の介護を妻に丸投げし、女遊びにうつつを抜かしたのである。そのあげくに、天罰であろう。彼は、親の死に目にも会えず、大病を患い、仕事は左遷、家庭は崩壊という状態に陥った。気がつけば、お先真っ暗、何の拠り所もない。今日明日をどう生きていけばよいか分からない。そこから彼の求道が始まったのである。当時の彼には知る由もなかったが、これが神の導きだったのである。彼は長血の女のように、藁にもすがる思いでいろいろの教えを聞き歩き、あちらこちらと救いの道を尋ねたが、もとよりコトはそんな簡単には運ばない。彼が自分の罪と悪を深く知らされ、悔い改めに導かれるまでには、なお十年余を要したのである。「わたしはいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします。」(詩篇一四三・五)

 「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」(詩篇三四・一九)。彼が救われ、立ち上がることが出来たのは、御子イエス・キリストが彼の罪を償ういけにえとして十字架におかかりくださったことを、啓示によって知らされたのと同時であった。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリ五・二一)。

 イエスは救いを求める者を探してくださる。私たちが身を隠さず御前に出てくるのを待っていてくださる。このお方には何も隠すことはない。何もかも知られているのであるから、何もかもありのままに話すのである。長血の女のように、御前に進み出てひれ伏し、懺悔する彼に、イエスは言われた。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。主イエスに出会い、その愛によって彼は生まれ変わったのである。「もうその病気にかからず」という主イエスの御言葉が彼の胸に深く響いた。ひとたび主イエスの救いを賜った者は、二度と罪の虜(とりこ)になってはならないのである。私たちは、この世に肉の身をもって生きている限り、信仰の道、聖化の道を辿りつつも、どこまでも不完全な存在である。しかし彼は、自分の力によってではなく、キリストによって罪が贖われ、すっぱりと罪の根を断ち切られた。長血の女性に起ったごとく、罪の源が涸れて、病気が治ったのである。これが救いである。


神の御前に

 神の御前に生きる身とならせていただければ、他のことはどうでもよいことである。来世があろうとなかろうと、世界の終わり、キリストの再臨、最後の審判がどうであろうと、この愚身が復活しようとせまいと、さらには幸も不幸も、短命も長寿も、願いが叶おうが叶うまいが。その他何であれ、神の御心のままに、神におまかせである。私たちは神の内に、神によって生き、活動し、存在するのである。


迫害

 世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。(ヨハネ一五・一八~一九)
         *
 キリスト者に対する迫害は今日でもある。もとよりそれは、キリスト教初期のような、あるいは我が国のキリシタン弾圧のような凄まじいものではない。キリスト教が世界宗教となったおかげで、今ではキリスト者は十字架につけられたり、焼き殺されたり、投獄されたりすることはない。世界史はキリスト教の勝利の歴史である。しかし、迫害は時代と共に形を変えて続いている。例えば、ある人がキリスト教の信仰生活に入ろうとすると、まず家族が猛反対する。友人や職場の同僚、隣近所の人々からいわれなき悪口、雑言、侮辱のみならず、誹謗、中傷さえ浴びることがある。よくて変わり者として敬遠されるという具合である。「わたしは彼らの幸いを願うのに、彼らは敵対するのです。」(詩篇三八・二一)。彼らは自分が迷信や因襲に捕らわれていることに気がつかず、自分こそが正しいと信じているのである。そのくせ、彼らはクリスマスやバレンタインを祝ったり、結婚式を教会で挙げたりする。信仰が伴わないのを恥と思わないのである。その一方で、隠れキリシタンのテレビを見ると、幕府の不義と愚かさ非難するだけの見識は持っているのである。

 要するに世間がそうだからそうするのであって、彼らにとっては、「世間」つまり「世」が「神」なのである。そして、この世を支配し、人々の目をくらましているのが「世の神」つまりサタン(悪魔)である。サタンは福音に巧妙に抵抗し、あらゆる手を使ってキリスト教の邪魔をする。神とサタンは絶対に相容れないからである。誤解のないように言うが、キリスト教に反対する人々がサタンだというのではない。その人たちは自分が気づかぬ内にサタンの道具として使われているに過ぎない。キリスト者から見ると、迫害はこの世の神、サタンのなせる業である。従って、迫害されることは真の信仰の証であり、信仰が本物になってきた証拠である。悪魔と神(信仰)との戦いである。しかし、迫害にもメリットがある。迫害は信仰を試し鍛えてくれる。これを克服できなければ本物の信仰とは言えない。そして、信仰は決して負けることがない。負けているようで負けていないのである。御子イエスは十字架上に死して負けたように見えるが、復活によって死に打ち勝たれた。サタンに打ち勝たれ、天にあって父なる神と共に世を統べておられるのである。神は人類をその罪から救済するという大業を御子によって完遂されたのである。すべては神のご計画である。私たちもいろんな形で迫害を受ける。しかし、主イエスは言っておられる。「義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ五・一〇~一一)と。また、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ五・四四)と。負けるが勝ちである。私たちは、負けることを学ばねばならない。聖パウロの言のごとく、キリスト者は弱いときにこそ強いからである。主が共に戦ってくださるのである。


ブログ

 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。(ヨハネ二一・六)
         *
 このほど、旧友Sさんの指導と助けを得て、「からしだね」のブログを立ち上げることができた。感謝である。これで小さな伝道の窓が一つ開けた。細い道が通じた。これは、主イエスの言われるように、舟の右側に網を打ったことになるのかもしれない。私は取るに足らぬ者ながらも、ガリラヤ湖の漁師であったペトロやアンデレと同じく、人間をとる漁師にされているのである(マルコ一・一七)。急がずに少しずつバックナンバーを掲載し、充実していきたい。旧友のように、神に用いられて自分が気づかぬうちに神の御用をさせられる人は幸いである。その人は、知らずに神の御意志に仕え、知らぬうちに天に富を積んでいるのである。これも、わが神恩キリスト教会に対する主イエスのみ恵みである。

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 悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 主に信頼し、善を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
 あなたの道を主にまかせよ。(詩篇三七・一、三~五)

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今月の祈り

 父なる神よ、新型コロナウィルスによる肺炎が世界を席巻し、予防や医療が追いつかなくなっています。また、生活や経済が破壊されつつあります。人々は恐怖に怯えています。どうか、私たちがこの未曾有の危機を乗り越えることができますようお助けください。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
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《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。

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からしだね第93号

からしだね 十
二〇二〇年 五月  第九十三号
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 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録三・六)

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受胎告知

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
(ルカ一・三〇―三五)
         *
 処女懐胎。これは人知では絶対に納得できぬものである。自然科学(医学・生物学)と神学の断絶である。神にできないことは何もないのだから、と処女懐胎をアタマから信じるしかないのか。無理やり受け入れるしかないのか。私の場合、キリストの十字架によって自分が救われるという体験がまずあって、この事実からイエスを神の子、キリストと信ずることができた。そこから処女懐胎を受け入れることができたのである。いかに優れた人でも、人間には他者の罪を贖うことはできないからである。ましてや、全人類をや。イエスは単なる人間ではなく、神の力、聖霊によって生まれた神の御子なのである。罪の贖いも処女懐胎も、キリスト教の根幹は人知を超えた事柄である。全能の神の御計らいである。よって、これを信ずることができるのも、自分の力ではなく神の力による。神とは、十字架とは、救いとは、啓示の出来事であって、もともと人間の分別を超えたものである。


弱いときにこそ強い
 
 コリントの信徒への手紙(Ⅱ)の第十二章に大変興味のある記事がある。パウロは十四年前に、第三の天つまり楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたという。それは、おそらく幻を見た経験であろうが、すばらしい啓示であった。「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」という。「とげ」は、パウロを痛めつけるために、「サタンから送られた使い」であるという。それが具体的に何を意味しているかはっきりしないが、パウロの肉体的な弱さや病気のことと考えられる。そこで彼は、この「使い」を離れ去らせてくださるよう、三度主イエスにお願いをした。ここから、次の本文が続く。
         *
 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
(Ⅱコリント一二・九~一〇)
         *
 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と主イエスが言われた具体的状況は記されていないが、察するに、これは主の御言葉を聞いたというよりも、パウロの「気づき」であろう。「啓示」といっても差し支えない。パウロは、サタンの使いである「とげ」のもたらす痛み、苦しみ、困難について何度も主に祈る中で、次のようなことを「はっと悟った」のであろう。信仰生活や伝道生活は、自分の力に頼ってやるものではない。自分は弱くてよいのだ。無力でよいのだ。自力に頼むからこそ行き詰まる。他と競争する必要はない。弱さのままでよいのだ。伝道や宣教の主体はイエス・キリストなのだ。自分は土の器にすぎない。自分は主に用いられるままにおまかせすればよいのだ。強くなって、自力で何事もやろうとすることが、主イエスのお力を妨げていたのだ。自分というものが空っぽになればなるほど、主がお働きになるのだ。パウロはそのことに気づいたのである。そして、「わたしは弱いときにこそ強い」と自分の弱さを喜び誇ることができたのである。自分の無知、無力を思い知らされ、自分がまったく頼りにならない、当てにならない存在であることが分かった時、つまり、自分が無になった時こそ、神の御働きが十全に現れるのである。これはパウロにとって、ダマスコでの回心後の大きな経験であったろう。またそれは、今日の私たちをも慰め、力づけてくれるものである。私たちは何か事をやろうとしても、すぐに行き詰まり、自分の無能、無力、弱さを嘆くが、自分の力によって事が成るのではない。善きことはすべて神が私という土の器を用いてなさるのである。伝道は神の御業である。私たちは弱いままでいい。行き詰まったときこそ、神がお働きになられる。何がどうなろうと、神にまかせまいらせるのである。


神の導き

 「わたしが、先祖に与えると誓った地、イスラエルの土地に導き入れるとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分を汚したすべての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる。お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」と主なる神は言われる。(エゼキエル書二〇・四二~四四)
         *
 エゼキエルは、紀元前五九八年の第一次捕囚でイスラエルからバビロンに連れて来られた捕囚民の一人で、祭司であった。彼は捕囚地バビロン(現在のイラク中部)において主の顕現に接し、預言者としての使命を与えられた。預言者とは、神によって召され、国家や民族の危機に際して、神の警告やメッセージを支配者や民に伝えた人たちである。しかし、王や支配階級はもとより民も預言者の声に聞き従わなかった。いつの世も、真実を語る者は敬遠され、嫌われるのである。前掲の聖句は、預言者エゼキエルがイスラエルの長老たちに告げた主なる神の言葉で、紀元前五九一年のことである。捕囚民の長老たち数人が主の御心を問うためにエゼキエルを訪ねてきたのである。イスラエルの民は出エジプト以来、主なる神に導かれてきたが、パレスチナに定住するや主に背いて偶像を礼拝し、掟を守らなかった。主はこれを憤られ、ついにバビロニアによってエルサレムを攻め滅ぼされた。しかし、主は後に、御自分の民への愛ゆえに、先祖への誓いのゆえに、イスラエルの民を赦し、捕囚から解放して再びパレスチナに導き入れてくださるのである。
         *
 主よ、あなたは御自分の地をお望みになり
 ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。
 御自分の民の罪を赦し
 彼らの咎をすべて覆ってくださいました。
 怒りをことごとく取り去り
 激しい憤りを静められました。(詩篇八五・二~四)
         *
 捕囚からの解放、そして故国への帰還、そのとき民は彼らの主を、導きの神を知るようになる、と主なる神は言われるのである。イスラエルの民のパレスチナへの帰還が適ったのは、第一次捕囚から実に六十年後のことであった。
 この預言をここに取り上げたのは、二六〇〇年前の神の言葉が、現在の私たちにそのまま当てはまるからである。御言葉は永遠であり、現に生きて働く力である。私たちは信仰の道に入って後、それが神の御手による導きであったことを悟らされる。神がましますことを信ずるようになるのである。自分が賢かったからでも、立派だったからでもない。愚かな、悪の塊であり、つまらぬ、取るに足らぬ自分が、人生の行き詰まりの果てに、神の憐れみによって一方的に救われたことを知らされるのである。新約の民である私たちは、旧約の民とは異なり、イエス・キリストの十字架を体験することによって救われる。そして、過去の自分の罪や犯した数々の悪を思い知らされ、自分を嫌悪するようになる。悔い改めである。ここから信仰生活が始まる。


サマリアの女

 イエスはサマリアのシカルという町に来られ、旅に疲れて一人で井戸のそばに座っておられた。そこへ、わけありの女が水をくみに来た。イエスはその女に「水を飲ませてください」と声をかけ、そこからイエスと女との対話が始まる。イエスは御自分の言うことを信じさせるため、女の素性を言い当てる。
         *
 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたはありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」(ヨハネ四・一六~一九)
         *
 この井戸端において、イエスは、「永遠の命に至る水」について教えを語られた(今回は省略)。しかし、サマリアの女はその事よりも、恥ずべき過去を図星されたことに驚き、水がめをそこに置いたまま町へ行って人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」(ヨハネ四・二九) 
 私たちは、イエスの御言葉や詩篇の聖句などによって、サマリアの女のごとく自分の罪や悪を暴かれ、恥ずべき過去を思い知らされ、丸裸にされてしまうことがある。否、自分が知らずに犯して来た数々の悪や、無意識のゴミ箱に捨てたはずの恥辱さえ示される。神は、頑是ない子供を諄々と諭すように、聖書の読むべき個所を次々にお示しになり、私たちの罪、過ちを明らかにされる。まさに神の指、聖霊の御働きである。そんな時、聖書は神の言葉であり、私たちは神の御手の中にいるのだとつくづく思わされる。神の御言葉によって打ち砕かれ、そこから回心へと導かれる人は幸いである。聖書は他人事ではなく、自分のことが書かれているのである。また、そう読まなければ、聖書を読んでも詮方ない。

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 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
 主よ、この声を聞き取ってください。
 嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
 主よ、誰が耐ええましょう。
 しかし、赦しはあなたのもとにあり
 人はあなたを畏れ敬うのです。
 
 わたしは主に望みをおき
 わたしの魂は望みをおき
 御言葉を待ち望みます。
 わたしの魂は主を待ち望みます
 見張りが朝を待つにもまして
 見張りが朝を待つにもまして。(詩篇一三〇・一~六)

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今月の祈り

 主よ、私たちがお互いに、他の人々の罪や間違いを責めるのではなく、自分の罪やおごり、至らなさに気づくことができますように。かたくなな私をどうかお導きください。

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からしだね第92号

からしだね  十
二〇二〇年 四月  第九十二号
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心の清い人々は幸いである、
その人たちは神を見る。(マタイによる福音書五・八)

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ロトの妻 (創世記一九章)

 神は堕落と背徳の町ソドムとゴモラを滅ぼす決断をされた。しかし、神はアブラハムを御心に留めておられるゆえに、彼の甥のロトをソドムから救おうとされた。ある夜、ロトの家に泊まった二人の客人、実は、彼らは御使いであった。彼らは、自分たちがこの町を滅ぼしに来たことをロトに告げ、身内の者を連れてこの町からすぐ逃げるようにと言った。ロトは嫁いだ娘たちのところへ行ってそのことを話したが、婿たちは本気にしなかった。夜が明けるころ、御使いたちは、「さあ、早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町の巻き添えになってしまう」とロトをせきたてた。彼らが町外れまで来たとき、御使いたちは言った、「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。さもないと、滅びることになる」。ロトたちがやっと目指す小さな町まで逃れたとき、神はソドムとゴモラの上に天から硫黄の火を降らせ、町と住民をことごとく滅ぼされた。そして、何ということか。ロトの妻は後ろを振り返るなという神の戒めに従わず、途中で後ろを振り向いたので、塩の柱になってしまった。
 旧約聖書のこの物語は、信仰生活をいとなむ今日のキリスト者への教訓でもある。罪に染まった町、ソドムとゴモラとは他でもない、今日の我が国である。原発の重大事故を一向に反省するでなく、ギャンブルなら何でも揃っているこの日本に更にカジノを作ろうとする。人々は損得と享楽の追求に走り、政府は腐敗して無責任極まりない。マスコミも批判精神を失った。このような国に神が審判を下さぬはずがない。天から硫黄の火が降らぬはずはない。
 このような曲った世にありながら、キリスト者の生活は、一日一日が神の国への旅路である。神の御旨に沿い、主イエス・キリストの御跡に従う生活である。信仰とはただそれだけなのである。ロトの妻は、残してきた財産であろうか、この世に未練があって振り返った。悪徳の町は、それに引かれる者には美しく見えるのである。キリスト者は、損得、強弱、美醜といったこの世の価値にもはや惑わされることなく、永遠の命の国を目指して歩んでいるはずである。お互い、執着心を捨て、塩の柱にされないようにしたい。
 「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ五・四~五)


真の幸い

 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ十一・二七~二八) 
        *
 子や孫がもっと元気であったら、優秀であったら、美しくあったら、と願わぬ人はいない。しかし、これが欲というもので、ないものねだりである。そこには感謝の心がない。他との比較の世界にいる限り、いくら恵まれていても相対的満足しか得られない。「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」というイエスの御言葉は、比較や差別や分別の世界を超えている。ただ「神の言葉を聞き、守る」、他の一切を顧慮しないところに出たときに真の幸いがあるのである。神を信じる以外に絶対的満足はないのである。主イエスは有名な「マルタとマリア」の記事で、「必要なことはただ一つだけである」(ルカ一〇・四二)と姉のマルタに言われた。人生において大事なことはあれやこれやではない。それは、ただ一つ。妹のマリヤのように、主の御言葉に耳を傾けることである。


ヨブの苦難

 型どおりの美しい信仰から、神に選ばれたまことの信仰へと導かれる。義人ヨブは突然襲って来た災難によって悲惨な境涯に陥れられた。これは神の黙許の下にサタンが為した試みであったが、人間には知りようのない世界の消息である。ヨブは全財産とそれまでの確たる地位とをあっという間に失い、息子、娘を亡くし、妻にも見放される。さらに、全身を重い皮膚病に侵され、灰の中に座って素焼のかけらで体中をかきむしる。
        
 わたしの生まれた日は消えうせよ。
 なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
   死んでしまわなかったのか。
 せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。(三・三、一一)
        
 彼は自身に対する不当な扱いを神に訴え、神にあらがう。自分は正しいと確信していたからである。慰めるために訪ねてきた三人の友人たちは、ヨブの苦しみを理解せず、「罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあろうか。全能者の戒めを拒んではならない」と神の側に立ち、因果応報の論理でヨブを責める。ヨブの不慮の災難に同情し、憐れんでくれるはずの親しい友、その彼らが慰める振りをして苦しめる。ヨブが罪を犯したからそのような目に遭うのだ、自業自得だ、との厳しい見方をするのである。苦しみや不幸や災難は、所詮、当人以外には他人事。ヨブは自分がこのような苦境に陥ったその不条理をどこまでも神に問うのである。しかし、「神がわたしに非道なふるまいをし、わたしの周囲に砦を巡らしている」(一九・六)とあらがいつつも、神への信仰を貫き通すのである。
        
 わたしは知っている。
 わたしを贖う方は生きておられ
 ついには塵の上に立たれるであろう。
 この皮膚が損なわれようとも
 この身をもって
   わたしは神を仰ぎ見るであろう。
 このわたしが仰ぎ見る。
 ほかならぬこの目で見る。
 腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。(一九・二五~二七)

 ヨブは友人たちと重くかつ果てしのない議論を重ね、互に反論し合い、語り尽くした。そして最後に、ヨブは苦しみのどん底で神に出会うのである。嵐の中に神が顕現し、神はその御言葉の力と権威でもってヨブを圧倒する。神の御業は人間の理性や知性をはるかに超えた驚くべきものであることを、ヨブは改めて思い知らされ、その御前にひれ伏す。

 主は嵐の中でヨブに答えて仰せになった。
 
 これは何者か。
 知識もないのに、言葉を重ねて
 神の経綸を暗くするとは。
 男らしく、腰に帯をせよ。
 わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
 
 わたしが大地を据えたとき
   お前はどこにいたのか。
 知っていたというなら
   理解していることを言ってみよ。
 誰がその広がりを定めたかを知っているのか。(三八・一~五)
        
 神に選ばれるということは、このようなことである。神を愛する者、否、愛される者は、神に徹底的に打ち砕かれるのである。「地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを、すべての罪のゆえに罰する。」(アモス書三・二)とあるとおりである。神を求めること、神に選ばれることは恐ろしいことである。何よりもキリストの十字架がそれを表わしている。まことの信仰の道は安易にたどれるものではない。それは神に選ばれた者のみが歩む道である。だから苦難は当たり前である。しかし、その苦難は神がお引き受けくださり、神が忍耐してくださるのである。この論理は通常の論理ではない。ゆえに信仰者は世に理解されなくて当然である。

 ヨブは主に答えて言った。
 
 あなたは全能であり
 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
 「これは何者か。知識もないのに
 神の経綸を隠そうとするとは。」
 そのとおりです。
 わたしには理解できず、わたしの知識を超えた
 驚くべき御業をあげつらっておりました。
 「聞け、わたしが話す。
 お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
 あなたのことを、耳にしてはおりました。
 しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
 自分を退け、悔い改めます。(四二・一~六)
         
 ヨブは神の顕現によって、その圧倒的な御言葉と御力によって、ぺしゃんこにされ、頭の上げようがなくなった。己の無知と分限を知らしめられた。これが救いである。彼は塵と灰の上に伏し、自分を退ける。友との論争の中で自己の義(ただしさ)を主張し、神にあらがったことを悔い改めるのである。しかし、痛悔は最も甘美なる瞬間でもある。ヨブはもはや何も要らなくなった。全能なる神にまみえることができたのだから。救いは逆説である。安易な考えで信仰に手を出すべきではない。まことの信仰とは美しい、きれいごとではない。神に強いられ、導かれて歩む苦難の道である。ヨブは神に選ばれた者であり、また最も神に愛された者である。ゆえに最も重い苦難に遭わねばならなかったのである。真理は逆説であるばかりでなく、因果応報の論理を超えている。神の顕現、神との出会いにおいて、ヨブはそのことをはっきり自覚せしめられたのである。

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 主に向かって歌い、ほめ歌をうたい
 驚くべき御業をことごとく歌え。
 聖なる御名を誇りとせよ。
 主を求める人よ、心に喜びを抱き
 主を、主の御力を尋ね求め
 常に御顔を求めよ。
 主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を
 主の口から出る裁きを心に留めよ。(詩篇一〇五・二~五)

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自主返納

 昨年末に運転免許証を自主返納した。五十年間無事故無違反である。今年一月に七十三歳になったばかりなので少し早いのであるが、実は、もう二十年近く車を運転しておらず、運転すれば事故の元であるので、免許を返納したのである。退嬰的なようではあるが、遠くへは汽車か電車で、日用は電動アシストの自転車で事足りる。いろんな家庭の事情に加え、近年は視力も衰えるなどして、自ずからこのような暮らし方になってきたので、これも神のお導きであろう。唯一の資格もなくなり、老躯の始末の他にもはや残るものはない。
 体は正直である。老いによる体の衰えはまぎれもない現実である。アタマはいろいろと別の理由をさがし、言い逃れをしようとするが、事実はごまかせない。病も老いも、体の方から教えてくれるのである。それによってやっとアタマが気づく。神は事実をもって教えてくださるのである。

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今月の祈り

 父なる神よ、あなたのみ光によって私たちは自分の罪を知らされます。私たちをまことの悔い改めにお導き下さい。主イエスよる救いの恵みをお与えください。アーメン。

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からしだね第91号

からしだね  十
二〇二〇年 三月  第九十一号
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 祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。
 そうすれば、そのとおりになる。(マルコによる福音書一一・二四)

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カナの婚礼

 ヨハネ福音書の第二章に、瓶の水がぶどう酒に変わった奇跡が記されている。それはガリラヤのカナという村で婚礼があった時のことである。イエスは母や弟子たちと共に婚礼に招かれていたが、宴の途中でぶどう酒が足りなくなった。イエスは、母のとりなしに応え、召使いたちに百リットルも入るような大きな水瓶六つに水を満たさせ、それを世話役のところへ運ばせた。すると、瓶の水はすべて良いぶどう酒に変わっていた。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」と聖書は語る。 
 この奇跡は何を物語るのであろうか。いろんな読み方があってよいのだが、私は次のように受け止めたい。すなわち、大きな瓶の水とは私たちのことであり、イエス・キリストを、特にその十字架の罪の贖いを信ずる信仰によって、何の変哲もない私たちが聖なる者へと変えられていく。この不思議が、神の業がここに記されているのである。これ以上の奇跡はない。変わるはずのないものが変えられていく。自分の力や努力によってではない。信仰の力によるのである。これは信仰者の実体験であり、真のキリスト者は傍目には分からなくとも実に奇跡的な人生を送っているのである。
 イエス・キリストは御言葉による教えのほかに、数多くの奇跡をなされた。それらの伝承はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書に記されている。詳細は省くが、それらの出来事は、当時においてもまったく驚くべき出来事であった。「それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた」(マルコ五・四二)とある。しかし、最大の奇跡は、私たちがキリスト者となり、主イエスのみあとに続く者とされたことである。まさに、瓶の水がぶどう酒に変わりつつあるのである。このことは、キリスト者となった誰もが抱く実感ではなかろうか。
 
 上記のぶどう酒の奇跡に関連して、思いつく断片を記してみたい。仏典の言葉と錬金術についてである。これらはキリスト教とは異なった領域にありながら、人間の聖化、変容という点で通底するものがあるからである。
 周知のとおり、中世には錬金術が盛んであった。卑金属を金や銀などの貴金属に変化させようと様々の実験がなされ、もとより成功はしなかったのだが、これが後の化学の発達を促した。この錬金術に新たな意味を見つけたのが、分析心理学で有名なユングである。ユングは深層心理、つまり人間の無意識を研究する中で、錬金術師は単に物質的な金を作ることではなく、自分の精神を変えることにも関心を向けていたのだと洞察した。より高次の人間への変容である。ユングはそれを個性化や自己実現という彼独自の理論へと発展させていったのである。
 仏典には能令瓦礫変成金(のうりょうがりゃくへんじょうこん)という言葉がある。瓦礫(がれき)のようなつまらぬ物を、この上なく高貴な金に変えしめる、という意味である。つまり、取り柄のない私たち、石、瓦、礫(つぶて)のごとき我らが仏力によって高貴な人間に変容せしめられることを言う。これもまた、人間の聖化を表わしている言葉である。


アスペルガー

 二〇一九年六月、七十六歳の父が四十四歳の長男を包丁で刺し殺すという悲劇が引きた。父親は元農水次官という超エリートである。長男はアスペルガーという発達障害で、中学時代からいじめを受けて社会にうまく適応できず、大学時代までの七年間にわたり家庭内暴力を続けていた。十年以上前に長男は実家を出たが、事件前の五月下旬に実家に舞い戻り、両親と同居したばかりであった。この間、父親はこの長男の自立のために、献身的な世話や支援をしてきたのであるが、息子はひきこもり状態で、父や母にひどい暴言や暴力を繰り返していた。妹はこの弟のことが原因でいくつも破談になり、数年前に自殺した。また、母親はうつ病となり二〇一八年十二月に自殺を企てたが、未遂に終わった。父親は、同居を再開したものの、その翌日に息子から暴行を受け、恐怖感から殺害を考えるようになった。事件の日、この長男は隣接する小学校の音がうるさいと激昂し、父親は長男が何かしでかすのではないか、また、自分が殺されるのではないかと非常な恐怖をおぼえ、とっさに包丁を取りに走った。以上が報道等から知り得た事件の概要である。
 
 八〇五〇問題という現代日本を象徴する事件である。父親殺しはギリシア神話のオイディプス王や仏説観無量寿経の阿闍世王の物語が有名であるが、今回の子殺しは現代の悲劇である。父親と同世代の私は、この出来事をとても他人事とは思えない。発達障害、ひきこもり、家庭内暴力、いじめ、虐待など、人の目につきにくい、解決困難な事柄が一見普通の暮しに隠れているのが、豊かなはずのわが国の高齢社会の実態である。
 十二月十六日、被告は東京地裁の裁判員判決で懲役六年(求刑懲役八年)の実刑判決を受けた。判決は「被告の犯行は体格の大きい長男を三十カ所以上傷つける一方的なもので、被告の『殺すぞと言われてとっさに包丁を取った』という話は信用できない」とし、ひきこもる長男を長年支えてきた事情を考慮しても、弁護団が求める執行猶予にはできないとした。何しろ殺人事件である。医療機関はもとより福祉事務所や警察など関係機関にもっと相談すべきであったという裁判官や裁判員の意見もあった。もっともな意見であり、立場上そう言わざるを得ないのであろうが、精神の発達障害やひきこもりの実態を知らない人の、常識的な見解のようにも思える。この長男のようなケースの場合、公的機関や医療機関がどの程度機能するか、頼りになるか、経験者ならよく知っている。
 
 今回の事件のように、ひきこもりや発達障害に家庭内暴力が伴うのは最も解決困難な問題の一つである。アスペルガーにも程度の違いがあって、一概には言えないが、当人は、社会に適応できない被害者意識でいっぱいの、いわば手負いの獣のような存在である。欲求不満や生き難さからくる攻撃性を、自分を支えてくれている家族に向けるのである。暴言を吐き、暴力をふるい、癇癪を爆発させるのである。それがどれほど家族を傷つけ、苦しめるか。自分が家族への加害者であり、不幸の原因であることを彼らは理解できないのである。このような「大のおとな」を抱えた家族の苦難、悲惨、忍耐は、体験した者でないと到底分からない。これが父親の限界を越えたからこそ今回の事件が起こったのである。アスペルガーやひきこもりの実態を知らないで、被告をさらに鞭打ち、裁き、責めるのは酷というものであろう。この問題の遣り切れなさは、有効な解決策が見出せないところにある。精神障害は病気と違って治らない。言い聞かせたり、なだめたり出来る相手でもない。本人も家族も共に助かる道はないのであろうか。
 
 今回の事件の予備軍は、身の回りにもいっぱいいるのではなかろうか。被告は、私たちを代表してこの恐ろしい罪を犯したのではなかろうか、とさえ思うのである。とはいえ、被告の罪はあまりに重い。被告に同情はしても、殺人は決して赦されるものではない。「殺してはならない」は「モーセの十戒」の第六戒である。被告の長男にも当然ながら生きる権利がある。彼は彼で、健常者よりもはるかに生きづらい世の中を必死で生きていたのである。長男も被告も私たちも、神がお造りになった神の命を共に生きているのであって、だれもその命を奪うことは許されない。
 十二月二十日、被告は裁判確定までの間、保釈が認められた。地裁には退けられたが、被告が高齢であること、逃亡の恐れがないことなどから、東京高裁によって認められたのである。殺人犯の保釈は異例のことだという。情状酌量の結果であろうが、せめてもの慰めである。
 なお、十二月二十五日、被告は懲役六年の一審判決を不服として控訴した。被告の弁護団の出したコメントの要旨は次のとおりである。「判決には事件に至った経緯・動機について、量刑に大きな影響を及ぼす事実誤認がある。事実に基づいた適切な判決に服することが本当の償いになると申し上げ、本人の了解を得て控訴に至った」(二〇一九年十二月二十六日の朝日新聞)。控訴は、本人の意志というよりも弁護団の主導のようだ。確かに、この事件の審判は、一審のみで終わらせるべきではない。事件の背景を国民一人ひとりがよく考え、議論を尽くすべきであろう。「裁判は神に属することだからである」(申命記一・一七)。
 
 私たちは、アスペルガーのような発達障害者との共生の道を探さなくてはならない。しかし、その道はまだ見出せていない。ここで、私は神に頼らざるを得ない。キリスト教は愛の教えである。「神は愛」(Ⅰヨハネ四・八)だからである。主イエス・キリストは、「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ一二・三一)と教えられ、さらに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである」(マタイ五・四四~四五)と言われた。まして、家族ならなおさらである。たとえ、それが家庭を破壊するような者であっても。キリスト者は、自分が傷ついても愛を貫かなければならない。神に祈りつつ、うめきつつ、神の導きを信じ、一日一日を耐え忍んでいく。イエスは言われた、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ九・二三)と。苦難の道であろうと、それは主が共に歩んで下さる道である。しかし、信仰のない人たちはどうすればいいのか。


聖家族

 聖家族とは、幼児イエスと聖母マリアおよび聖ヨセフの三人の家族をいう。美しいキリスト教絵画のテーマでもある。私たちは聖家族という言葉から、ガリラヤの田舎のつつましい、平和な家庭を思い浮かべ、一つのあこがれを抱く。それで間違いはないのだが、私は戦後まもない我が家を思い出すのである。父は貧しい左官職人で、母はその足らざるところを呉服物の行商で補った。みすぼらしい場末の借家で、私たち兄弟姉妹四人を養ってくれたのである。貧しくとも幸せであった。キリスト教徒ではなかったが、そこにこそ聖家族が実現していたのだと、今にして思うのである。私がこのように言うのを、その僭越を、神はお赦しくださるであろう。聖家族はどこか異国の話ではあるまい。王侯や富者の宮殿や豪邸ではなく、親子で囲む一家団らんの小さな食卓こそ、聖家族のあかしであろう。そこに神の祝福があるのである。だからそれは世界中、至るところにあるはずである。神はその規範をナザレの家族でもってお示しくださったのである。

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 天は神の栄光を物語り
 大空は御手の業を示す。
 昼は昼に語り伝え
 夜は夜に知識を送る。
 話すことも、語ることもなく
 声は聞こえなくても
 その響きは全地に
 その言葉は世界の果てに向かう。(詩篇一九・二~五)

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今月の祈り

 御父様、若い夫婦が互いに相手を大切にし、子供たちを慈しみ、虐待やDVのない愛の溢れた家庭を築くよう、お導き下さい。貧しくとも平和で温かい、小さな家族を祝福して下さいますように。主イエス・キリストの御名によってお願い申し上げます。アーメン。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
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《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。
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からしだね第90号

からしだね  十
二〇二〇年 二月  第九十号
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 貧しい人々は、幸いである、
 神の国はあなたがたのものである。
 今飢えている人々は、幸いである、
 あなたがたは満たされる。
 今泣いている人々は、幸いである、
 あなたがたは笑うようになる。(ルカによる福音書六・二〇~二一)

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イエスとトマス

 ヨハネ福音書によると、イエスは十字架刑に処せられ死にて埋葬された後、三日目の朝、空虚になった墓の外で泣いていたマグダラのマリアにまず最初にお現われになった。復活されたのである。また、その日の夕方、弟子たちがユダヤ人を恐れて家に鍵をかけて閉じこもっていると、どのようにして入って来られたのか、イエスが部屋の真ん中にお立ちになり、弟子たちに言葉をかけられた。弟子たちは主を見て喜んだのであるが、トマスはその時いなかった。次の記事はこの場面の続きである。
        *
 十二の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」(ヨハネ二〇・二四~二九)
        * 
 疑い深いトマスは、主イエスの復活を信じられない、信じようとしない私たちの代表である。しかし、その私たちもいつの日か、「わたしの主、わたしの神よ」と叫ぶ時が来る。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と復活の主に言われたトマスのごとく。それは、慚愧の時であり、それ以上に歓喜の時である。一切の疑いが晴れたのである。
        *
 わたしたちを造られた方
   主の御前にひざまずこう。
 共にひれ伏し、伏し拝もう。
 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民
 主に養われる群れ、御手の内にある羊。
 今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。(詩篇九五・六~七)


臨死体験

 いささか旧聞に属することで恐縮であるが、二〇一四年九月のNHKスペシャル「立花隆 思索ドキュメント 臨死体験」について考えてみたい。寝つきが悪い時などに時々見る録画の一つである。
 この番組は、著名な評論家の立花隆氏が臨死体験者をはじめ、世界的な医学者や科学者、研究者を訪ねて対話を重ね、臨死体験について様々の角度から思索を進めていくという趣向である。御覧になった方も多いだろう。しかし立花氏はもとより、人はなぜ臨死体験に深い興味を抱くのであろうか。それは、臨死体験という特異な体験、つまり「死に瀕してあの世とこの世の境をさまよう体験」(広辞苑)を調べることにより、死後の世界が在るか否かを知りたいという根源的な欲求があるからであろう。ちなみに、臨死体験者は魂が肉体を離れる体外離脱などの体験によって、皆一様に死後の世界を確信し、死を恐れなくなると報告されている。それでは、肉体は死んでも、心(意識)は死なないのだろうか、という古来からの大きな問題が残る。また、臨死体験とは一種の脳内現象に過ぎないという科学者の見解も有力である。「知の巨人」といわれる立花氏は、人は死んだら心は消えるとの科学的な立場に立ちながらも、なおこれらの事柄を考え、答えを見いだそうとしている。彼は用心深く、信仰や宗教に立ち入ることを避けているようだ。

 しかし、この問題は、死ぬ時どんな体験をするかもさることながら、要するに神の存在、死後の世界があるかないか、の問題に帰するのであり、結局、医学や科学からのアプローチでは解決できないのである。人間の知恵の限界である。そして、答えはすでに何千年も前に出されているのではなかろうか。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」(Ⅰコリント一・一九)と、パウロが神の言葉(イザヤの預言)を引用しているとおりである。父なる神を信じ、主イエス・キリストによる罪の贖いを信ずる私たちには、永遠の命が約束されているのである。人は死んでもおしまいではない。これは人間の知恵ではなく、神の啓示なのである。これが信仰である。科学は万能ではない。ここが分かれ道である。そしてこれは臨死体験とは関係のない事柄である。
 臨死体験は、結局は、死に瀕したが死ななかった人のリアルな体験や記憶であり、さらに科学的に解明されればそれでよいのである。もとより、臨死体験者が死後の世界を信ずることは、私たちが言うところの信仰とは直接関係がない事柄である。


内的生活

 私はなんら為すことのない老人にすぎない。他人の眼には、私の暮しは典型的な老人の閑居にしか見えまい。確かにそうである。内的生活ということを理解しない人は、私が忙しいと言うと嗤う。外向的な人は内向的な人のことを理解できず、変人だと思うのが関の山である。私はこれでけっこう忙しいのである。しかし、説明しても無駄だからそれ以上は言わず、一緒に笑うのである。




 人生の終わりに近づいたせいか、近ごろ「道」ということよく考える。古来、人生は道になぞらえられ、宗教や哲学はもとより文学、映画、歌などで様々に表現されてきた。「道」という言葉は、私たちに 深い思いを抱かせる言葉である。そこで、いささか三題話めくが、「道」について寸考してみた。
 「僕の前に道はない、僕の後ろに道は出来る」高村光太郎の「道程」という詩の最初の言葉である。森林を鉈で切り開いていくような開拓者の気魄を感ずる。
 また、現代日本画の第一人者である東山魁夷画伯の代表作「道」は、青と緑のなだらかな野山の中を、なるい坂道が果てしなく伸びてゆく、希望を感じさせる絵である。  
 そして、芭蕉の有名な句、「この道や行く人なしに秋の暮」である。この道は、芭蕉のたたずむ夕暮れの淋しい道であり、芭蕉が人生を賭けて歩んでいる俳諧道でもあろう。芭蕉はだれに理解されなくとも、追随者はいなくとも、蕉風の確立に向けて一人行くのである。それは門弟たちには理解できぬ根源的な孤独であり、孤高の道である。
 さて、それでは今の自分にとって、「道」は、光太郎の詩と、東山画伯の絵と、芭蕉の句の、いずれに該当するのかである。正直に告白するが、老いたりとはいえ、信仰の道を拓く気概は残されており、先には永遠の命への希望の道が続いている。しかし、それは一方で、身内からも理解されることなく、ただ一人歩む孤独の道でもある。つまり、いずれも私にとって真実であり、心象風景なのである。最後に、聖書から「道」に関する聖句を紹介したい。
 
 信仰の道をわたしは選び取りました。
 あなたの裁きにかなうものとなりますように。(詩篇一一九・三〇)

信仰は生き方であり、人生であり、道なのである。そして、何よりも私たちには、イエスの御言葉がある。
 
 わたしは道であり、真理であり、命である。
 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ一四・六)

イエス御自身が道なのである。信仰者は、イエス・キリストという道をただ独り歩んで行くのである。あえて群れる必要はないのである。坦々とただ信じ、ただ生きて、ただ死んでいく。行く先は御父のもと、主イエス・キリストの御許である。


神の子は神の父

 神は、神の子を自覚した者によって、その存在を得る。ゆえに、神の子は神の父であり、神を生むのである。つまり、神の子は神によって生まれるのであるが、神はその神の子によって生まれるのである。この意味において、神と神の子は、同時存在、同時消滅、相互依存の関係にある。信仰は、究極のところ、一人一人の出来事である。


神の御苦労

 ささやかな伝道活動と信仰生活であっても、その背後にはその人の人生経験のすべてと、信仰に至るまでの苦難、苦闘がある。とはいっても、それは信者の功績ではない。信者は限りなく抵抗をつづけたのであるが、神に押し切られたのである。すべては無限なるお方の意志と力に帰せられるべきもの。苦難、苦闘は神にあったのである。信者の苦難、苦闘と見えて、実は神の御苦労であったのである。


告別の祈り

 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、
 地上であなたの栄光を現しました。(ヨハネ一七・四)。
        *
 イエスのこの世への「告別の祈り」の一節である。この祈りは、また「大祭司の祈り」とも言われるが、イエスはこの後、ユダヤ人に告発されて十字架につけられ、最後に「成し遂げられた」と言って、息を引き取られるのである。掲出の聖句は、私たちが人生の終わりに、父なる神に向かって語りかける言葉でなくてはなるまい。


山鳩の巣

 猫の額ほどの小さな庭であるが、毎年初冬のころ庭師に剪定してもらう。雑木ばかりなので、半日で仕上げるのであるが、今回は椿事があった。棟梁がオリーブの木の上に山鳩の巣を見つけたのである。卵が二つあるという。細い枝で隠れて見えなかったものが、刈り入れで顕わになったのだ。彼は、巣はそのままにして脚立を降りたのだが、家内がそのことを聞くや、卵を棒でつつき落としてしまった。鳥の糞で洗濯物が汚れてしまうというのである。主婦としてはもっともな意見で、反対のしようもなかったが、卵のポシャった二筋の流れが憐れであった。一抹の無力感と罪悪感が残る。何といっても命をつぶしてしまったのだ。主よ、赦し給え。

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 主に向かって歌い、ほめ歌をうたい
 驚くべき御業をことごとく歌え。
 聖なる御名を誇りとせよ。
 主を求める人よ、心に喜びを抱き
 主を、主の御力を尋ね求め
 常に御顔を求めよ。
 主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を
 主の口から出る裁きを心に留めよ。(詩篇一〇五・二~五)

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今月の祈り

 アッバ、御父さま。今日一日の御導き、御守り、感謝でございます。おかげさまで、家族一同、平穏無事に今日一日を過ごすことができました。どうか、今夜も、また明日も、御導きに与かりますように。

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からしだね第89号

からしだね  十
二〇二〇年 一月  第八十九号
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 だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(マタイによる福音書六・二四)

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レビヤタン

 旧約聖書に出てくるレビヤタンという神話的な動物がいる。ワニ、竜、蛇のようなイメージの怪物らしい。とても人間の手に負えるようなシロモノではない。しかし、神はもっと恐ろしいお方である。レビヤタンの鼻に綱をつけ、顎にくつわをかけ、小鳥のようにもてあそばれるのである(ヨブ記四〇・二五~三二参照)。思うに、このような怪獣が世界のどこかにいるというよりも、私たちは皆、これを身の内に飼っているのではなかろうか。もっと言えば、信仰に入る前の私たちは、レビヤタンそのものだったのではなかろうか。深層心理学的に言うと、荒れ狂うリビドーであり、理性で制御できない肉的な欲望の力である。聖書の言葉で言うと、罪あるいは悪魔(人を罪に誘う者)の支配である。神はこのような私たちの鼻面を取って引き回し、打ち据え、懲らしめ、八つ裂きにされるのである。パウロは、ロマ書で自分に内在する罪について、悲痛な告白をしている。
 「たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは自分の望む善は行なわず、望まない悪を行っている。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(七・七~二四節)。
 
 パウロのダマスコ城外における劇的な回心の背後には、律法に束縛され、それを厳守しながらも、罪から逃れられないパウロの葛藤があったのである。パウロにとって、復活の主イエス・キリストとの出会いは、律法からの解放であり、罪の赦しであり、救いの出来事であった。福音であった。人は、律法によっては決して救われず、滅びるしかない。ただ主イエス・キリストの十字架の贖いによって救われる。迫害者パウロは使徒パウロへと激変した。このことが、この段落を締めくくる「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝いたします。」(七・二五)という短い言葉に込められている。嘆きから感謝への転換である。
 レビヤタンは、竜や蛇のイメージからしてサタン(悪魔)や人間の根源的な罪とつながっている。私たちが罪、つまり、神に背く得体の知れない暗い衝動から救われるためには、このオロチの頭をキリストに砕いていただくしかないのである。キリストは、そのために十字架にかかられ、蛇はキリストのかかとを砕いたのである(創世記三・一五参照)。


葬式考

 他人の葬式を心配する人がいる。余計なことである。死に際しても世間体を気にするのである。自分の生死の問題が解決できていないのに、人のことが気になる。愚かなことである。いかに豪華な祭壇であろうと、大勢の弔問客があろうと、大僧正の読経があろうと、あるいは高名な神父や牧師によって司式がなされようと、人は死ねば、その人の行くべき所へ行くのである。大臣であろうと、大学者であろうと、横綱であろうと、社長であろうと、映画スターであろうと、庶民であろうと、乞食であろうと、他に道はないのである。そしてそれは、その人の生前の生き方によって決まるのである。これを神の裁きという。
 大事なのは、自分が死後どうなるのか、死後どこへ行くのかを、今、解決しておくことである。このことさえ解決しておれば、葬式や墓などどうでもよいことである。私自身について言えば、家族と少数の友の讃美歌の他は何も必要ない。否、無理なら、それさえ必要ない。ただ一人で死ぬのみである。讃美歌は天使が歌ってくれるであろう。遺体は葬儀業者と焼き場の人が処理してくださる。骨灰は海に撒こうが、樹木の肥やしにしようが、土に埋めようが、それこそどうでもよいことである。骨や灰はもはや私ではなく、私には行くべき所があり、迎えてくださるお方がいる。主イエス・キリストは言われる、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ一四・二~三)これで十分である。これ以上のものがあろうか。


自明と証明

 創世記の初めは天地創造である。そこには何が書いてあるかというと、私たちが神によって造られ、神の命を生きているという真理である。私たちは、いかに賢明な人であっても、自分の意志でこの世に生まれてきたのではない。父母の営みによって生を享けたのである。誰もが知っているこの事実の背後に、というより根源に、神の創造行為があるのである。このことは、科学的・客観的に証明できることではなく、信知すべき事柄である。信仰によって、神から賜わる知恵によって、自明のこととなるのである。私たちが知らなくとも、認めなくとも、私たちは神によって創造され、神から命を賜って生かされている。これが神の啓示である。聖書は初めから終わりまで、神の啓示が記されているのである。
「わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊に教えられた言葉によっています。」(Ⅰコリント二・一二)


遺すもの

 子や孫たちに何を遺すか。財産や地位、家業など人それぞれであろう。無産階級の私は、こういったものを持たないゆえに、私の信じているまことの信仰を遺したい、継がせたいと思っている。折角この世に生を享けたのだから、各自が神より賜った能力や才能を生かしながら、分相応の暮らしを楽しみ、喜びのうちに人生を送ることが一番である。そのためには、まことの神を信じ、神の御前に正しい生活を送ることが大事である。平凡なことである。信仰がなければ、そこに様々の誘惑や迷いが生ずる。死を恐れ、邪教に乗ぜられるようなことにもなる。信仰があれば、死はいわゆる死ではなく、この体を離れて神とキリストのみもとへ行くことに過ぎない。まことのキリスト者は、すでにこの世にあるときから、永遠の命を生きているのである。このことが心底分かっておれば、死は恐れることでも悲しむこともない。よって信心はまた安心(あんじん)である。なにも難しいことはない。神の導きに従って生きさえすればいいのである。
 私はこのことを、とりあえず妻子や兄弟姉妹、有縁の人々に告げ知らせたいだけなのだが、信仰のことを話そうとすると一様に毛嫌いする。簡単なはずのことが極めて困難なのである。この世の人々は皆、サタン(悪魔)によって真実に目ざめることのないよう、目隠しされているのであろう。


御言葉を賜る

 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで,終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。(ヨハネ六・三八~四〇)
         *
 信仰とは主イエス・キリストのこの御言葉を、自分の言葉として賜ることである。それは信仰の究極であり、決して驕りや高ぶりではない。


義なる神

 この世の法律には時効制度があり、また、犯罪者が死亡した場合は刑法を適用することができない。適用しても仕方がないからである。しかし、永遠なる神の御前には時効はなく、私たちの罪や悪は、たとえ死んでも赦されない。悔い改めて神の赦しをいただくしかない。世の多くの人々は現世しか認めないから、死ねばおしまいとタカをくくっているが、果たしてどうか。来世の有様は聖書にも詳しくは記されていないが、神がいます限り永遠の世界があり、裁きがあるのである。義なる神は永遠者だからである。私たちは、そこを曖昧なままにしてこの世の生を終えるより、命のある間に主イエス・キリストの十字架を仰ぎ、赦しをいただいた方が賢いのではないだろうか。


無分別智

 神の国に入るのは死んでから後のことではない。今、ここで入るのである。信仰を賜ると、地上の暮らしが神と共に在る暮らしに変わるのである。生前であろうと死後であろうと、神がいますところが神の国である。これが私の信仰である。生前とか死後とか言うけれども、それは人間の分別に過ぎない。分別は合理的思考である。信仰は合理的思考を超えたものである。その意味で、信仰は分別智ではなく無分別智である。終末におけるキリストの再臨や最後の審判は、今ここにおける救いを黙示文学的に表現したものに過ぎない。


北斗星

 経済も健康も家族関係も、何ひとつ確かなものはない。あれこれ悩んでも考えても、どうにもなるものでもない。神にまかせまいらせるのみである。キリスト教に限っても、カトリック、ロシア正教、プロテスタントがあり、プロテスタントにはごまんの教派がある。新約聖書だけでも、四福音書、パウロの書簡、その他があって、よく読めば矛盾する点もかなりある。また、註解や解説書は汗牛充棟で、眼がつぶれるほど読んでも読み切れるものではない。たとえ読んでも到底理解しきれるものではなく、まして整合はとても図られない。まさに群盲象を撫でるで、御教えの林の中で道を見失うようなことになる。すべては神のお導き、お計らいにまかせまいらせるのみである。あれもこれもではなく、最も納得できる一つの福音書かパウロ書簡をベースに置き、その他の聖教はそれを補完するものとして読むべきであろう。自分の心にかなった一つの書があれば、それが頼るべき北斗星である。

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 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
 苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
 わたしたちは決して恐れない
 地が姿を変え
 山々が揺らいで海の中に移るとも
 海の水が騒ぎ、沸き返り
 その高ぶるさまに山々が震えるとも。(詩篇四六・二~四)

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今月の祈り

 「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。父なる神よ、「主の祈り」の第五願は、朝夕唱えがらも、守るに何とむつかしいことでしょう。私が心から人を赦すことができますように。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
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からしだね第88号

からしだね  十
二〇一九年 一二月 第八十八号
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 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカによる福音書一一・二七~二八)

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カリスマ

 最近、ギフテッド(gifted)という言葉をよく見聞きする。知能や才能のずば抜けている人、天才のことである。数学、科学、語学、音楽、美術、スポーツなど様々のジャンルで、生まれつきの驚くべき能力を持っている人々が紹介されている。神から特別のギフトを贈られたごく少数の人たちである。これらの人々は、ある特定の分野において、子供の時から常人とはまったく異なった次元、レベルにある。人類に尽くすべく、神から特別の使命を与えられた人であろう。社会は彼らの能力を認め、彼らの才能が十分に発揮されるように支援していくことが肝要である。ギフテッドの働きによって、私たちは様々の分野で多くの恩恵を受けることができるのだから。彼らは神から人類への贈り物である。
 ところで、生まれつきの能力ではないが、信仰者には神から様々の霊的な賜物(カリスマ)が与えられる。使徒パウロは、その具体例として、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気をいやす力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力を列挙している。聖霊は望むままに、信仰者の一人一人にそれを分け与えてくださるとしている(Ⅰコリント一二・八~一一)。これらは代表的な賜物のカタログであり、この他にもいろんな賜物が聖書に記されている。霊の働きには限界がないからである。パウロはこれらの賜物を熱心に求めるように勧めているから(Ⅰコリント一四・一)、神は求める者に対し最もふさわしい賜物をくださるのであろう。問題は、これらの霊的な賜物が今日においても信仰者に与えられるか否かであるが、聖書の御言葉に有効期限はないことから、現代の信徒も既にいろんな形でその使命に応じた賜物に与かっているものと考えられる。但し、それを見分けるのも霊の眼によるのであって、信仰の無い人にはまったく知りようがない。私たちも、それぞれ分相応の小さな賜物を賜り、与えられた使命を果たしたいものである。これこそが、この世に生まれてきた、出世の本懐というものである。


神の存在証明

 神の存在を証明してくれたら信じます、と言う人がある。気の毒なことだ。信仰が神の証明なのである。神は人間の知性や認識を超えたものであるから、信仰の他に神の証明はないのである。この私に信仰が起こったことが神の存在の証明なのである。そして、その信仰はこちらからではなく、神の方から来るのである。人間の方から信じようとして手を伸ばしても、神には届かない。信仰は神より直に賜るゆえに、信仰が神の証明なのである。信仰が救いであり、アルファにしてオメガなのである。人間が神を証明するのではなく、人間が神によって証明されるのである。その愚かさ罪深さを。


「成長する種」のたとえ

 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(マルコ四・二六~二九)
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 「神の国」についてのたとえである。まず、「神の国」とはどういう意味か、そんな国がどこにあるのかであるが、福音書でいう「神の国」は、「場所」としてよりも「神の支配」という意味合いの方が強い言葉である。分かりやすく言うと、私たちが信仰を賜るということは、「神の支配」の中に入ることであり、「神の国」の住人となることなのである。
 不信仰の人は神の存在を認めないから、その人にとって神の国は存在しない。しかし、神を信ずるようになると、その人は「神の支配」の中に生きることになり、神が王である「神の国」の民となるのである。その人は、神の導きと護りの中に寝起きする身となる。私たちは、もともと神に造られ、神の国に暮らしていながら、「神などいない」と思い込んでいただけなのである。だから、信仰とは真実への目覚めであるともいえる。信仰者は今すでに神の国に住んでいるのである。
 
 さて、少し先走り過ぎたが、掲出の聖句は「神の国」についてのイエスのたとえである。「神の国」は、現世の国と違って地図には載っていない国であり、「神の支配」も人の目に見えるものではないことから、イエスはたとえをもって教えてくださったのである。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」とあり、農夫の耕し、水遣り、施肥などの労働は副次的なものとして省かれている。確かに、種は農夫の働きによって発芽し、発育するのではなく、種そのものが持つ生命力や自然の力によって成長するのである。この人間の力を超えた不思議な力を、「土はひとりでに実を結ばせる」と表現し、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができ、最後に刈り入れるとしている。この稿を書いている今、近所の稲田には黄金の稲穂が垂れており、刈り入れを待つばかりである。イエスの御言葉を実地に味わうことができるのである。
 イエスは、「神の国」はこの成長する種のようなものだといわれる。「種」は「神の言葉」であり、種蒔く人(伝道者)がそれを人の心に蒔きさえすれば、神の言葉はその人の内でひとりでに豊かな信仰の実を結ぶのである。その人が意識して努力や精進せずとも、夜昼、寝起きしているうちに、神を深く信ずる身とならせていただく。私たちの意図に関係なく、神は神のことをなさるのである。神の言葉はそれ自体が命であり、力であるから。このようにして、「神の国」つまり「神の支配」は、おのずから成長発展するのであって、すべては神のお仕事なのである。


終わりの時

 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く。(ダニエル書十二・二~三)
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 旧約聖書のダニエル書に、「終わりの時」について上記のような記述がある。これは大天使長ミカエルがダニエルに語った言葉であるが、素直にこれを読めば、これは決して世の終わりの時の出来事ではない。即今只今の出来事である。一人ひとりが今、目覚めて永遠の生命に入るか否かである。私たちは皆、欲にはさといが、神の目から御覧になれば、眠っているのである。私たちは、自分の努力と甲斐性でこれまで生きてきた、これからもそうである、と思い込んでいるが、それは全くの間違いである。神によって造られ、生かされ、神の御手の中にあることに早く気づくことである。これを般若心経の言葉で言えば、「遠離一切顛倒夢想」(おんりいっさいてんどうむそう)という。つまり、逆立ちしたものの見方をひっくり返すのである。そして、それは今である。終末とは、いつか分からぬ時間的な未来ではなく、今、ここにおいて起こる真実の出来事なのである。


神のお仕事

 神恩キリスト教会は無事成長できるか?もちろん、必ず成長する。私の力や才覚では困難であるが、これは神のお仕事である。ゆえに、必ず成長し、教会として、教団として必ず地歩を確立する。主体は神である。私は道具に過ぎない。この教会、この教団は神の御命である。神の命は永遠である。神は、海の中に道を開き、砂漠に大河を流れさせることのおできになる方。神に出来ないことはない。神は何でもおできになる。
 
 わたしの計画は必ず成り
 わたしは望むことをすべて実行する。
 わたしは語ったことを必ず実現させ
 形づくったことを必ず完成させる。
 わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。
 もはや遠くはない。
 わたしは遅れることなく救いをもたらす。(イザヤ四六・一〇~一三)

 これこそ神の励ましのお言葉である。


神に召される
          
 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。(Ⅰコリント一・二六~二九)
        *
 パウロは、ここに二つのことを述べている。その一は、信仰者となることは、神に「召される」という特別の恵みであること。つまり、主体は神であり、信者の方はあくまで受身であることである。その二は、神は、世の立派な人たちを選ぶのではなく、私たちのようなつまらぬ価値なき者を選んで、お救い下さるということである。だから、自分が偉い者だとか、賢い者だとか、力や金があるとか、うぬぼれている者は神から最も遠い者であるということになる。私たちは愚者のまま、無知、無力のまま、キリスト・イエスに結ばれて救われるのであり、愚直に信仰の道を歩むのである。


聖書を友に

 視力がだいぶ衰えてきた。網膜黄斑変性という診断である。もはや、聖書のほかには読みたい本がなくなった。テレビも見たい番組が殆どなくなったから、目のためにはちょうど良い。世の中の多くのことはどうでもよいことばかりである。少しずつ、ねずみのごとく聖書をかじるとしよう。素人は素人らしく、美味い所だけ。

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 神に従う人はなつめやしのように茂り
 レバノンの杉のようにそびえます。
 主の家に植えられ
 わたしたちの神の庭に茂ります。
 白髪になってもなお実を結び
 命に溢れ、いきいきとし
 述べ伝えるでしょう。
 わたしの岩と頼む主は正しい方
 御もとには不正がない、と。(詩篇九二・一三~一六)

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今月の祈り

 神よ、私が「主の祈り」さえ忘れてしまうほど老いさらばえても、どうか私をお守りください。私を離れないでください。無力な私を見捨てないでください。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一愛媛県伊予市下吾川四八八―三
[電話]080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。

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からしだね第87号

からしだね  十
二〇一九年 一一月 第八十七号
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 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(フィリピの信徒への手紙四・六~七)

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狭き門

 信仰をお勧めしても、本気に受け取る人は希である。神を信じない人は、「私たちの命は今生かぎりで、死んだらすべておしまい」と心の底で思い込んでいるからである。健康、美容、投資、年金などこの世の話なら目の色を変え、聞耳を立てるが、自分が死ぬことや来世の有無については考えたくないのである。しかし、このような人たちも、死んで後の世界があると分かったら、おのずと生き方が変わってくるだろう。神を信じなさい、キリストに救っていただきなさい、などと伝道するまでもない。永遠の命に焦がれるのは誰しも同じであるからだ。
 ところで、ヨハネ福音書によると、「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(一七・三)とある。つまり、本当に来世がある、死んでもおしまいではない、と分かるのは、神とその御子イエス・キリストを知ることによるのである。そのためには、まず信仰の道に入ることが大事である。来世があることも、神・キリストを信ずることも、人間の理性や知性を超えた事柄であるから。分かってから入るのではなく、入ってから分かるのである。学びと求道の暮しを続けるうちに、啓示によって、イエス・キリストと神を知り、永遠の命を賜るのである。もとより、こちら側にそれを求める資格があるのではない。あくまで神の一方的な恵みによるのである。「求めよ、さらば与へられん」(マタイ七・七)である。そして、この求める心も賜るのである。恵みである。よって、信仰は狭き門である。「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ七・一四)


新生の秘密

 信仰とは、何かを堅く信じることとは異なる。信仰とは、新しく生まれることである。新生である。信仰を賜った人は、昨日までの自分とまったく違う人になっている。姿形はなんら変わったところはないが、人間の内実は百八十度ひっくり返っているのである。この新生のことを、回心、悔い改め、あるいは信仰と呼ぶのである。同一の事態をいろいろの観点からそう表現するのである。信仰は、人が自分の意志や力で起こしたりするものではなく、神の意志と力によって造り変えられることなのである。神の業であるから、人間は否も応もないのである。イエスの言葉によれば、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ三・三)のである。それでは、信仰を賜るとはどういうことか、どうなることか。これは体験しない限り到底分からないし、説き尽くすことのできない事柄であるが、事例としては、使徒言行録第九章に記されているダマスコ城外におけるパウロの回心が有名である。
 パウロは熱心なユダヤ教徒で、生まれたばかりのキリスト教を迫害する急先鋒であった。その彼が、キリスト信徒を見つけ出してエルサレムに連行しようとダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らし、彼は地に倒れた。その時、「なぜ、わたしを迫害するのか」という復活の主イエスの声を聞いたのである。パウロはそれから三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかったが、当地の主の弟子によって視力が回復し、洗礼を受けるに至った。まことに驚くべき出来事であり、使徒言行録にはこの出来事が、ほぼ同内容でこの他にも二か所載っている。しかし、パウロ自身は、「ガラテヤの信徒への手紙」の中で、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた・・」と、ごく簡単に述べているに過ぎない。復活の主イエスとの出会い、回心、新生、召命といった事柄は、内的な出来事であり、詳細を記すことが不可能な秘義なのである。しかし、その体験の真実性は、その後のパウロの三度にわたる長途の宣教旅行と七つの真筆書簡に遺憾なく証しされている。
 回心、獲信、救い、新生といった事柄は、妻や夫、親や子であろうと気づかない。たとえ話しても理解できない内的な出来事である。「一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」(ルカ一七・三四~三五)。人が信仰を得る、神の国に入るという出来事は、あくまで一人一人の真実の応答なのである。自分は神の国へ入れるのか、それとも取り残されるのか、二つに一つである。決して他人事ではない。


肉の尺度と霊の尺度

 わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。(Ⅱコリント六・八~一〇)。
         *
 使徒パウロの言葉は、キリストと共に生き、聖霊と共にある信仰者の真実を述べたものである。信仰者の賜った豊かさは霊の尺度によるものであり、世の人々の肉の尺度からは到底理解されることはない。信仰者の価値観と世の人々のそれとは真逆だからである。私は、このパウロの言葉に次の言葉を加えたい。「わたしたちは一人きりでいて、孤独ではなく、暇そうに見えて、忙しく、背や腰は曲っていても、心は若鷲のようである。神やキリストについて語るが、別に狂ってはおらず、行き詰っても、くじけない。人々の誤解を恐れず、理解されなくとも希望を失わない。主よ、導きたまえ!」


友よ!
         
 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。(ヨハネ五・二四~二五)
         *
 友よ、あなたはまだ神を信じられないのか。
 私は自分の言葉ではなく
 信仰の言葉を、神の言葉を語っている。
 あなたにはそれがまだ響かないのか。
 語らせるお方がなくして
 どうして語るだろうか。
 遣わすお方がなくして
 どうして訪ねるであろうか。
 書かしめるお方がなくして
 どうして書き続けることができようか。
 私は、促され、迫られて
 書きもし、訪ねもするのである。
 その内的な力を、見えない力を
 あるお方と呼ぶ。
 私を動かすものは
 人道や慈善や功名心ではない。
 私を足として遣わし、口として語らせ
 手として書かせ
 この土の器を用いて働かれる
 お方がおられる。
 あなたはそれを悟らないのか。
 私はそのお方の使いに過ぎない。
 そのお方こそ、神、主イエス・キリスト。
 そのお方に促され、強いられて
 私は心ならずも事を為すのである。


神の愛

 キリストは私の身と一つになり給い、罪と恥を共に耐え忍び、病も障害も共に苦しんでくださるのである。これがキリストの救いであり、愛であり、奇跡である。その究極は、十字架である。キリストは、私という罪人のために、この上なく尊い命を捨ててくださった。キリストは私にとって、そのようなお方である。もとよりキリストは、み心ならば神よりの全能の力をもって、即座に私たちの病を癒してくださるであろう。しかし、私たちが苦しむことが神の御意志ならば、キリストは共に苦しんでくださるのである。そして、このような神の愛そのものであるキリストを苦しめてきた張本人、敵が、他ならぬこの私なのである。神は、私たちがまだ罪人であり敵であったとき、私たちと和解するために、御子キリストを死に渡された。使徒パウロは言う、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ロマ八・三二)


無神論と偶像崇拝

 神を信じる信じないは、どうでもいいことではない。神を信じないことは悪いことなのである。「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからである。」(使徒一七・二五)。神を認めない人は、自分が限りない恵みの中に生かされていることに考えが及ばないのである。そのような人たちの辞書には、感謝や御恩という言葉が載っていないらしい。「私は無神論者です」などとインテリぶっているのは愚かなことである。無神論者などと称しながら、その実、世間の迷信や因習に捕らわれ、偶像崇拝に陥っている人が多い。
 我が国はことに宗教的に無節操で、なんでもありの感がある。しかしながら、神でないものを神として崇めるのは、偶像崇拝といって最も悪いことである。誰もが求める富、権力、地位、健康、若さ、美などは、信仰に関係がないように見えるが、執着すると偶像崇拝になる。この世の価値は、やがて過ぎ去るもの、その意味で実体のないもの、空虚なものである。墓場の向こうまでは持って行くことができないものである。私たちは貧しくとも、あくせくしなくてよい。生きて行くのに必要なものは、神がお与えくださるのである。主イエス・キリストは言われる。
         * 
 「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ六・二五~三三)

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 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
 わたしの助けはどこから来るのか。
 わたしの助けは来る
 天地を造られた主のもとから。
 どうか、主があなたを助けて
 足がよろめかないようにし
 まどろむことなく見守ってくださるように。(詩篇一二一・一~三)

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今月の祈り

 主よ、国と国が経済や領土について自国の利益を主張し、それが国民レベルでの争いや憎しみへと拡大しつつあります。相手を非難し、報復しあうのではなく、互に相手の立場を理解し、協力しあうことによって、平和と繁栄が保たれますように。国の指導者が大局的な観点に立って、関係を修復し、誤った方向へ向かうことのありませぬように。私たちが、「隣人を自分のように愛しなさい」というあなたの掟を守ることができますように。どうか主よ、お導きください。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一愛媛県伊予市下吾川四八八―三
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E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
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