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からしだね第82号

からしだね  十
二〇一九年 六月 第八十二号
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 心の清い人々は、幸いである。
 その人たちは神を見る。(マタイによる福音書五・八)

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福音

 マルコによる福音書によると、イエスは郷里のガリラヤで伝道を開始されたとき、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(一・一五)と言われた。「福音」という言葉は、英語の聖書には「グッド・ニュース」と訳してある。つまり、良い知らせである。キリスト教は難しいことを学んだり、守ったり、わけの分からないことを無理に信じたりすることではない。何よりもそれは、私たちにとって嬉しい良い知らせなのである。一言で言えば、私たちは皆、神の恵みの中に生かされているということである。イエスは、宣教のまず最初に、そのことを信じなさい、気づきなさいと言われた。私たちは神の恵みの中で、神に護られて生かされている。しかし、そのことを知らず、認めず、自分の力に頼って懸命に生きている。そこに無理があるのである。だから、しんどい。自分を造り、育て、導いてくださっている神を認めないということは、御恩を御恩と思わず、自分の甲斐性だけで生きていると思い込んでいることである。これを「罪」という(キリスト教で言う「罪」とは社会的犯罪のことではない)。我慢という。自己中心主義である。このような生き方はやがて行き詰まる。この世が悩みと苦しみに満ちたものとなる。イエスはこのようなあくせく生きる私たちに対して、次のように伸びやかな教えを語られた。
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「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だがあなたたちの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』 『何を飲もうか』 『何を着ようか』と言って、思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」(マタイ六・二五~三二)
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 このイエスの御言葉が語られた時処を指して「ガリラヤの春」と名づけたキリスト者がいる。肥沃なガリラヤは、そのとき湖水からの心地よい微風が吹き渡っていたことであろう。時あたかも、我が国は、春爛漫。神の恵みのさなかにある。何を心配することがあろう。何を恐れることがあろう。野に出でて命の息吹きを満喫しよう。

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 わたしの慈しみに生きる人は
 喜びの叫びを高くあげるであろう。(詩篇一三二・一六)

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嗣業

 「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」(マルコによる福音書三・二〇~二一)
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 イエスの伝道の初期のことである。イエスは、汚れた霊に取りつかれた男や様々の病人をいやしたりしながら、故郷のガリラヤ地方を巡回し、神の福音を宣教しておられた。イエスのしておられる奇跡を聞いて、人々が遠くから集まってきた。掲出の記事は、そのころの興味深いエピソードである。イエスは大変な人気と評判で、弟子ともども食事をする暇もないほどであった。しかしその一方で、「あの男は悪霊(ベルゼブル)に取りつかれている」と学者たちは言い、「あの男は気が変になっている」と言う者もあった。そこで、身内の者、つまりイエスの母と兄弟たちが心配してイエスを取り押さえに来たのである。家族の者は、イエスがとうとうアタマに来たと思ったに違いない。主イエス・キリストにして伝道の初めはこのような有様だったのである。
 なぜこの記事を取り上げたか、何が言いたいのかというと、他でもない。この「からしだね」のことである。私のような罪にまみれた無学の凡愚がこのような小さな伝道冊子を作成配布すると、とうとうあの変人も気が狂ったか、認知症ではないかと、妻子はじめ兄弟姉妹、ご近所の方々が思うに違いないからである。御心配には及ばない。もうこの歳(七十二)になって、野心もなければ欲もない。頭はまだ暫くは大丈夫のようである。私は、愚かな、失敗だらけの人生の果てに、神さまから賜ったものを、有縁の人々にお裾分けしたいだけなのである。子や孫に残すべき財産のない私には、これが唯一無二の嗣業(相続財産)である。それでは、神さまから賜ったものとは何か。一言で言えば、それは救いであり、永遠の命である。別の言葉で言えば、信仰(神)である。おいおい「からしだね」の誌面を通じ、それをお伝えしていきたいと考えている。私の話には、種も仕掛けもない。「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ四・九) 


救いの風景
 
 旧約聖書の第二イザヤ書をもとに、救いについて考えてみたい。次に引用するのは、その掉尾を飾る有名な預言で、イスラエルの民が六十年の長きにわたったバビロン捕囚から解放され、故国へと行進する有様を人々に告げたものである。

 あなたたちは喜び祝いながら出で立ち
 平和のうちに導かれて行く。
 山と丘はあなたたちを迎え
   歓声をあげて喜び歌い
 野の木々も、手をたたく。
 茨に代わって糸杉が
 おどろに代わってミルトスが生える。
 これは、主に対する記念となり、しるしとなる。
 それはとこしえに消し去られることがない。(イザヤ五五・一二~一三)
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 二千五百年も前の預言を私たちは昔の物語としてでなく、現代の私たちの救いを告げる神の御言葉として読むことができる。私たちの傲慢や自己中心主義が打ち砕かれて、心から悔い改めることができたとき、つまり自分が囚われていた罪から解放されたとき、悩み、苦しみ、そねみ、ねたみ、怒り、失望などに覆われていた、暗鬱なこの世の風景は一変する。見る目が変わるのである。私たちは神に造られ、育まれ、今日までその導きの中にあったのだ。私たちは気がつかなかったが、人生はもともと恵みと祝福に満ちていたのである。そのことを認めず、他と比較して不平を言い、神の恵みを撥ねつけ、我欲を追及してきた自分の罪に気づかされる。このような悔い改めを体験し、そこで生れ変わって初めて、私たちは何の憂いも心配もなく、平安に、感謝の日暮しをすることができるようになる。これがまことのキリスト者の信仰生活である。富が増えたり、もっと健康になったり、人間関係がすべて解決したりするのではない。そうではなくて、今のままで何の不足もなくなるのである。それまで、自分の妨げや障害となっていた山や丘さえ懐かしく、親しみに満ちたものとなり、野の木々も喜々とした姿を現わす。荒れ地には雑草に代わって美しく芳香のある灌木ミルトスが生えてくる。それまで呪い、嘲り、非難、恨み、ののしり、嘆きなど口汚い言葉しか出なかったこの口から、温和な美しい、心地よい、感謝の言葉が出てくるようになる。これが神に救われたしるしである。ひとたび救われた者は、二度と捨てられることはない。しかし、悔い改めなければ救われることはない。悔い改めはそれまでの人生観や考え方が打ち砕かれ、根底からひっくり返るのであるから、反省などというものとは本質的にレベルが異なる。つらい、苦しい体験である。しかし、それは神からの賜物である。よって、救いは確かである。悔い改めは、自分の努力や精進、心がけで起こすものではなく、神の力によって否応なく起こるのである。しかし、これを経て初めて真の喜びに至ることができる。自分がいかに神に恵まれ、愛されてきたか、身の奥底から知らされる。喜びの生活が始まるのである。


世の終り

 終末、世の終りについては、旧約聖書の黙示文学や新約聖書において、様々の形で述べられている。特に新約聖書では、神の国の到来、主イエス・キリストの再臨と結びつけられて、鮮明に描かれている。世の終りは、私たちの合理的な知識や想像力を超えた事柄であることから、黙示文学的な象徴的言語やイメージでもって現象的・即物的・絵画的・ドラマ的に表現されたものである。つまり、形無きものごとを形あるものごととして描き出したものである。代表的なものとしては新約聖書の「ヨハネの黙示録」や共観福音書の記事がある。旧約聖書では、ダニエル書が有名である。
 天地に始まりがあるのだから、その終わりである終末があるのは当然である。しかし、私は福音書においてイエスの説かれる終末は、今日の私たちが想像するような自然科学的な終わりを言われたものとは思わない。聖書は歴史や科学の本ではない。人間の救いが書いてある信仰の書として読むべきものである。即ち、終末に関する記事は、自然科学的終末ではなく、宗教的終末、つまり救いが記されていると理解すべきなのである。換言すれば、自然科学的表現を用いて信仰の出来事が象徴的に描かれているのである。
 
 ところで、終末に関する教説は、要は、何が起きてもうろたえることのないように、いつでも「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ二一・三六)と言うことである。人の子、つまりイエスの言わんとすることは、人は世の終りや自分の死がいつ来てもよいように、常に神の御前に義(ただ)しく生きるべきである、ということである。終末や再臨の記事は、独特の黙示文学的表現方法をもって、このような生き方を教えたものと受け止められる。
 ところが、私たちは、終末とか再臨という言葉を聞くと、それはいつ来るのか、その前兆や徴は何かと問う。それが私たちの知識欲であり人間性である。これに対してイエスは、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マルコ一三・三二~三三)。また、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」(使徒一・七)と、そのような問い自体を無効として退けておられる。このように問うこと自体、イエスの言葉を本当には理解していない証拠だからである。

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今月の祈り

 天にまします御父さま、私たち一人一人が罪を悔い改め、誰もがあなたの恵みの中にあることに気がつきますように。心からあなたの御名を賛美し、今日一日を感謝して生きることができますように。私たちの驕り高ぶりや利己心を懲らしめて下さいますように。アーメン。

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 いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の道にとどまらず
 傲慢な者と共に座らず
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。(詩篇一・一~三)

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一愛媛県伊予市下吾川四八八―三
[電話]080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
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《読者の皆様へ》  
 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストを信じさせていただきましょう。まことの信仰による喜びの生活を求める方のご入会をお待ちします。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。

 質素こそ豊か、平凡こそ非凡、一病ありて息災、何の足らざるところやある。すべては神の大いなる恵み。大事なのは、我、人、共にご恩を忘れぬことである。

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(解題)「からしだね」は「くろがらし」の種子。主イエスは極めて小さなものから偉大な成長をとげる譬えとされています。 

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