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からしだね第88号

からしだね  十
二〇一九年 一二月 第八十八号
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 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカによる福音書一一・二七~二八)

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カリスマ

 最近、ギフテッド(gifted)という言葉をよく見聞きする。知能や才能のずば抜けている人、天才のことである。数学、科学、語学、音楽、美術、スポーツなど様々のジャンルで、生まれつきの驚くべき能力を持っている人々が紹介されている。神から特別のギフトを贈られたごく少数の人たちである。これらの人々は、ある特定の分野において、子供の時から常人とはまったく異なった次元、レベルにある。人類に尽くすべく、神から特別の使命を与えられた人であろう。社会は彼らの能力を認め、彼らの才能が十分に発揮されるように支援していくことが肝要である。ギフテッドの働きによって、私たちは様々の分野で多くの恩恵を受けることができるのだから。彼らは神から人類への贈り物である。
 ところで、生まれつきの能力ではないが、信仰者には神から様々の霊的な賜物(カリスマ)が与えられる。使徒パウロは、その具体例として、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気をいやす力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力を列挙している。聖霊は望むままに、信仰者の一人一人にそれを分け与えてくださるとしている(Ⅰコリント一二・八~一一)。これらは代表的な賜物のカタログであり、この他にもいろんな賜物が聖書に記されている。霊の働きには限界がないからである。パウロはこれらの賜物を熱心に求めるように勧めているから(Ⅰコリント一四・一)、神は求める者に対し最もふさわしい賜物をくださるのであろう。問題は、これらの霊的な賜物が今日においても信仰者に与えられるか否かであるが、聖書の御言葉に有効期限はないことから、現代の信徒も既にいろんな形でその使命に応じた賜物に与かっているものと考えられる。但し、それを見分けるのも霊の眼によるのであって、信仰の無い人にはまったく知りようがない。私たちも、それぞれ分相応の小さな賜物を賜り、与えられた使命を果たしたいものである。これこそが、この世に生まれてきた、出世の本懐というものである。


神の存在証明

 神の存在を証明してくれたら信じます、と言う人がある。気の毒なことだ。信仰が神の証明なのである。神は人間の知性や認識を超えたものであるから、信仰の他に神の証明はないのである。この私に信仰が起こったことが神の存在の証明なのである。そして、その信仰はこちらからではなく、神の方から来るのである。人間の方から信じようとして手を伸ばしても、神には届かない。信仰は神より直に賜るゆえに、信仰が神の証明なのである。信仰が救いであり、アルファにしてオメガなのである。人間が神を証明するのではなく、人間が神によって証明されるのである。その愚かさ罪深さを。


「成長する種」のたとえ

 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(マルコ四・二六~二九)
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 「神の国」についてのたとえである。まず、「神の国」とはどういう意味か、そんな国がどこにあるのかであるが、福音書でいう「神の国」は、「場所」としてよりも「神の支配」という意味合いの方が強い言葉である。分かりやすく言うと、私たちが信仰を賜るということは、「神の支配」の中に入ることであり、「神の国」の住人となることなのである。
 不信仰の人は神の存在を認めないから、その人にとって神の国は存在しない。しかし、神を信ずるようになると、その人は「神の支配」の中に生きることになり、神が王である「神の国」の民となるのである。その人は、神の導きと護りの中に寝起きする身となる。私たちは、もともと神に造られ、神の国に暮らしていながら、「神などいない」と思い込んでいただけなのである。だから、信仰とは真実への目覚めであるともいえる。信仰者は今すでに神の国に住んでいるのである。
 
 さて、少し先走り過ぎたが、掲出の聖句は「神の国」についてのイエスのたとえである。「神の国」は、現世の国と違って地図には載っていない国であり、「神の支配」も人の目に見えるものではないことから、イエスはたとえをもって教えてくださったのである。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」とあり、農夫の耕し、水遣り、施肥などの労働は副次的なものとして省かれている。確かに、種は農夫の働きによって発芽し、発育するのではなく、種そのものが持つ生命力や自然の力によって成長するのである。この人間の力を超えた不思議な力を、「土はひとりでに実を結ばせる」と表現し、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができ、最後に刈り入れるとしている。この稿を書いている今、近所の稲田には黄金の稲穂が垂れており、刈り入れを待つばかりである。イエスの御言葉を実地に味わうことができるのである。
 イエスは、「神の国」はこの成長する種のようなものだといわれる。「種」は「神の言葉」であり、種蒔く人(伝道者)がそれを人の心に蒔きさえすれば、神の言葉はその人の内でひとりでに豊かな信仰の実を結ぶのである。その人が意識して努力や精進せずとも、夜昼、寝起きしているうちに、神を深く信ずる身とならせていただく。私たちの意図に関係なく、神は神のことをなさるのである。神の言葉はそれ自体が命であり、力であるから。このようにして、「神の国」つまり「神の支配」は、おのずから成長発展するのであって、すべては神のお仕事なのである。


終わりの時

 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く。(ダニエル書十二・二~三)
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 旧約聖書のダニエル書に、「終わりの時」について上記のような記述がある。これは大天使長ミカエルがダニエルに語った言葉であるが、素直にこれを読めば、これは決して世の終わりの時の出来事ではない。即今只今の出来事である。一人ひとりが今、目覚めて永遠の生命に入るか否かである。私たちは皆、欲にはさといが、神の目から御覧になれば、眠っているのである。私たちは、自分の努力と甲斐性でこれまで生きてきた、これからもそうである、と思い込んでいるが、それは全くの間違いである。神によって造られ、生かされ、神の御手の中にあることに早く気づくことである。これを般若心経の言葉で言えば、「遠離一切顛倒夢想」(おんりいっさいてんどうむそう)という。つまり、逆立ちしたものの見方をひっくり返すのである。そして、それは今である。終末とは、いつか分からぬ時間的な未来ではなく、今、ここにおいて起こる真実の出来事なのである。


神のお仕事

 神恩キリスト教会は無事成長できるか?もちろん、必ず成長する。私の力や才覚では困難であるが、これは神のお仕事である。ゆえに、必ず成長し、教会として、教団として必ず地歩を確立する。主体は神である。私は道具に過ぎない。この教会、この教団は神の御命である。神の命は永遠である。神は、海の中に道を開き、砂漠に大河を流れさせることのおできになる方。神に出来ないことはない。神は何でもおできになる。
 
 わたしの計画は必ず成り
 わたしは望むことをすべて実行する。
 わたしは語ったことを必ず実現させ
 形づくったことを必ず完成させる。
 わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。
 もはや遠くはない。
 わたしは遅れることなく救いをもたらす。(イザヤ四六・一〇~一三)

 これこそ神の励ましのお言葉である。


神に召される
          
 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。(Ⅰコリント一・二六~二九)
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 パウロは、ここに二つのことを述べている。その一は、信仰者となることは、神に「召される」という特別の恵みであること。つまり、主体は神であり、信者の方はあくまで受身であることである。その二は、神は、世の立派な人たちを選ぶのではなく、私たちのようなつまらぬ価値なき者を選んで、お救い下さるということである。だから、自分が偉い者だとか、賢い者だとか、力や金があるとか、うぬぼれている者は神から最も遠い者であるということになる。私たちは愚者のまま、無知、無力のまま、キリスト・イエスに結ばれて救われるのであり、愚直に信仰の道を歩むのである。


聖書を友に

 視力がだいぶ衰えてきた。網膜黄斑変性という診断である。もはや、聖書のほかには読みたい本がなくなった。テレビも見たい番組が殆どなくなったから、目のためにはちょうど良い。世の中の多くのことはどうでもよいことばかりである。少しずつ、ねずみのごとく聖書をかじるとしよう。素人は素人らしく、美味い所だけ。

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 神に従う人はなつめやしのように茂り
 レバノンの杉のようにそびえます。
 主の家に植えられ
 わたしたちの神の庭に茂ります。
 白髪になってもなお実を結び
 命に溢れ、いきいきとし
 述べ伝えるでしょう。
 わたしの岩と頼む主は正しい方
 御もとには不正がない、と。(詩篇九二・一三~一六)

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今月の祈り

 神よ、私が「主の祈り」さえ忘れてしまうほど老いさらばえても、どうか私をお守りください。私を離れないでください。無力な私を見捨てないでください。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一愛媛県伊予市下吾川四八八―三
[電話]080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。

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