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からしだね第89号

からしだね  十
二〇二〇年 一月  第八十九号
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 だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(マタイによる福音書六・二四)

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レビヤタン

 旧約聖書に出てくるレビヤタンという神話的な動物がいる。ワニ、竜、蛇のようなイメージの怪物らしい。とても人間の手に負えるようなシロモノではない。しかし、神はもっと恐ろしいお方である。レビヤタンの鼻に綱をつけ、顎にくつわをかけ、小鳥のようにもてあそばれるのである(ヨブ記四〇・二五~三二参照)。思うに、このような怪獣が世界のどこかにいるというよりも、私たちは皆、これを身の内に飼っているのではなかろうか。もっと言えば、信仰に入る前の私たちは、レビヤタンそのものだったのではなかろうか。深層心理学的に言うと、荒れ狂うリビドーであり、理性で制御できない肉的な欲望の力である。聖書の言葉で言うと、罪あるいは悪魔(人を罪に誘う者)の支配である。神はこのような私たちの鼻面を取って引き回し、打ち据え、懲らしめ、八つ裂きにされるのである。パウロは、ロマ書で自分に内在する罪について、悲痛な告白をしている。
 「たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは自分の望む善は行なわず、望まない悪を行っている。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(七・七~二四節)。
 
 パウロのダマスコ城外における劇的な回心の背後には、律法に束縛され、それを厳守しながらも、罪から逃れられないパウロの葛藤があったのである。パウロにとって、復活の主イエス・キリストとの出会いは、律法からの解放であり、罪の赦しであり、救いの出来事であった。福音であった。人は、律法によっては決して救われず、滅びるしかない。ただ主イエス・キリストの十字架の贖いによって救われる。迫害者パウロは使徒パウロへと激変した。このことが、この段落を締めくくる「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝いたします。」(七・二五)という短い言葉に込められている。嘆きから感謝への転換である。
 レビヤタンは、竜や蛇のイメージからしてサタン(悪魔)や人間の根源的な罪とつながっている。私たちが罪、つまり、神に背く得体の知れない暗い衝動から救われるためには、このオロチの頭をキリストに砕いていただくしかないのである。キリストは、そのために十字架にかかられ、蛇はキリストのかかとを砕いたのである(創世記三・一五参照)。


葬式考

 他人の葬式を心配する人がいる。余計なことである。死に際しても世間体を気にするのである。自分の生死の問題が解決できていないのに、人のことが気になる。愚かなことである。いかに豪華な祭壇であろうと、大勢の弔問客があろうと、大僧正の読経があろうと、あるいは高名な神父や牧師によって司式がなされようと、人は死ねば、その人の行くべき所へ行くのである。大臣であろうと、大学者であろうと、横綱であろうと、社長であろうと、映画スターであろうと、庶民であろうと、乞食であろうと、他に道はないのである。そしてそれは、その人の生前の生き方によって決まるのである。これを神の裁きという。
 大事なのは、自分が死後どうなるのか、死後どこへ行くのかを、今、解決しておくことである。このことさえ解決しておれば、葬式や墓などどうでもよいことである。私自身について言えば、家族と少数の友の讃美歌の他は何も必要ない。否、無理なら、それさえ必要ない。ただ一人で死ぬのみである。讃美歌は天使が歌ってくれるであろう。遺体は葬儀業者と焼き場の人が処理してくださる。骨灰は海に撒こうが、樹木の肥やしにしようが、土に埋めようが、それこそどうでもよいことである。骨や灰はもはや私ではなく、私には行くべき所があり、迎えてくださるお方がいる。主イエス・キリストは言われる、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ一四・二~三)これで十分である。これ以上のものがあろうか。


自明と証明

 創世記の初めは天地創造である。そこには何が書いてあるかというと、私たちが神によって造られ、神の命を生きているという真理である。私たちは、いかに賢明な人であっても、自分の意志でこの世に生まれてきたのではない。父母の営みによって生を享けたのである。誰もが知っているこの事実の背後に、というより根源に、神の創造行為があるのである。このことは、科学的・客観的に証明できることではなく、信知すべき事柄である。信仰によって、神から賜わる知恵によって、自明のこととなるのである。私たちが知らなくとも、認めなくとも、私たちは神によって創造され、神から命を賜って生かされている。これが神の啓示である。聖書は初めから終わりまで、神の啓示が記されているのである。
「わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊に教えられた言葉によっています。」(Ⅰコリント二・一二)


遺すもの

 子や孫たちに何を遺すか。財産や地位、家業など人それぞれであろう。無産階級の私は、こういったものを持たないゆえに、私の信じているまことの信仰を遺したい、継がせたいと思っている。折角この世に生を享けたのだから、各自が神より賜った能力や才能を生かしながら、分相応の暮らしを楽しみ、喜びのうちに人生を送ることが一番である。そのためには、まことの神を信じ、神の御前に正しい生活を送ることが大事である。平凡なことである。信仰がなければ、そこに様々の誘惑や迷いが生ずる。死を恐れ、邪教に乗ぜられるようなことにもなる。信仰があれば、死はいわゆる死ではなく、この体を離れて神とキリストのみもとへ行くことに過ぎない。まことのキリスト者は、すでにこの世にあるときから、永遠の命を生きているのである。このことが心底分かっておれば、死は恐れることでも悲しむこともない。よって信心はまた安心(あんじん)である。なにも難しいことはない。神の導きに従って生きさえすればいいのである。
 私はこのことを、とりあえず妻子や兄弟姉妹、有縁の人々に告げ知らせたいだけなのだが、信仰のことを話そうとすると一様に毛嫌いする。簡単なはずのことが極めて困難なのである。この世の人々は皆、サタン(悪魔)によって真実に目ざめることのないよう、目隠しされているのであろう。


御言葉を賜る

 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで,終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。(ヨハネ六・三八~四〇)
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 信仰とは主イエス・キリストのこの御言葉を、自分の言葉として賜ることである。それは信仰の究極であり、決して驕りや高ぶりではない。


義なる神

 この世の法律には時効制度があり、また、犯罪者が死亡した場合は刑法を適用することができない。適用しても仕方がないからである。しかし、永遠なる神の御前には時効はなく、私たちの罪や悪は、たとえ死んでも赦されない。悔い改めて神の赦しをいただくしかない。世の多くの人々は現世しか認めないから、死ねばおしまいとタカをくくっているが、果たしてどうか。来世の有様は聖書にも詳しくは記されていないが、神がいます限り永遠の世界があり、裁きがあるのである。義なる神は永遠者だからである。私たちは、そこを曖昧なままにしてこの世の生を終えるより、命のある間に主イエス・キリストの十字架を仰ぎ、赦しをいただいた方が賢いのではないだろうか。


無分別智

 神の国に入るのは死んでから後のことではない。今、ここで入るのである。信仰を賜ると、地上の暮らしが神と共に在る暮らしに変わるのである。生前であろうと死後であろうと、神がいますところが神の国である。これが私の信仰である。生前とか死後とか言うけれども、それは人間の分別に過ぎない。分別は合理的思考である。信仰は合理的思考を超えたものである。その意味で、信仰は分別智ではなく無分別智である。終末におけるキリストの再臨や最後の審判は、今ここにおける救いを黙示文学的に表現したものに過ぎない。


北斗星

 経済も健康も家族関係も、何ひとつ確かなものはない。あれこれ悩んでも考えても、どうにもなるものでもない。神にまかせまいらせるのみである。キリスト教に限っても、カトリック、ロシア正教、プロテスタントがあり、プロテスタントにはごまんの教派がある。新約聖書だけでも、四福音書、パウロの書簡、その他があって、よく読めば矛盾する点もかなりある。また、註解や解説書は汗牛充棟で、眼がつぶれるほど読んでも読み切れるものではない。たとえ読んでも到底理解しきれるものではなく、まして整合はとても図られない。まさに群盲象を撫でるで、御教えの林の中で道を見失うようなことになる。すべては神のお導き、お計らいにまかせまいらせるのみである。あれもこれもではなく、最も納得できる一つの福音書かパウロ書簡をベースに置き、その他の聖教はそれを補完するものとして読むべきであろう。自分の心にかなった一つの書があれば、それが頼るべき北斗星である。

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 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
 苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
 わたしたちは決して恐れない
 地が姿を変え
 山々が揺らいで海の中に移るとも
 海の水が騒ぎ、沸き返り
 その高ぶるさまに山々が震えるとも。(詩篇四六・二~四)

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今月の祈り

 「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。父なる神よ、「主の祈り」の第五願は、朝夕唱えがらも、守るに何とむつかしいことでしょう。私が心から人を赦すことができますように。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
[電話]080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。

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