SSブログ

からしだね第97号

からしだね ✞
二〇二〇年 九月  第九十七号
************************  

 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイによる福音書一七・二〇)

************************

†光あれ!

 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創世記一・三)
         *
 神を信ずるとは、「光あれ!」という神の御言葉が聞こえたことである。信仰は、理屈や研究や知識ではない。神のこの御言葉によって、私たちの暗い眼が開けるのである。暗闇が光となるのである。闇であった心に光がさすのである。信じる心を賜るのである。聖パウロは言っている。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(Ⅱコリント四・六)。「光あれ!」という言葉が、魂の深奥に届いたとき、神を信ずるということが起こるのである。神がこの御言葉を私たちの耳もとに吹き込んでくださるのである。また、「神は言われた」というと、「神」と「言(ことば)」は別々のように思われるが、そうではない。神=言なのである。ヨハネ福音書の巻頭に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とあるとおりである。信仰は神の言葉によって起こる奇跡なのである。


†盲人バルティマイをいやす

 イエスと弟子たちの一行は、ヨルダン川を西へ渡り、オアシスの町エリコに着いた。目指すエルサレムはもう三〇キロほどの道のりである。一行が大勢の群衆と一緒にエリコを出て行こうとしたとき、バルティマイという盲人の乞食が「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びだし、人々が叱りつけても叫ぶのを止めようとしなかった。「ダビデの子」とは、イスラエルの人々が長い間待ち望んでいた救い主、キリストのことである。救い主が来られると、目の見えない人は見え、耳の聞こえない人は聞こえることが、古来、預言されていた。盲人は、イエスを救い主と信じてすがったのである。イエスは立ち止まって彼を呼び、「何をしてほしいのか」と言われた。彼は「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスが、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われると、盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従う身となった。(マルコ一〇・四六~五二より)
         *
 この盲人いやしの奇跡は、エルサレム入城を間近に控えての、大切な箇所に置かれており、私たちに重要な事柄を伝えようとしている。イエスは、この数日後、エルサレムで十字架につけられるのである。私は、このエピソードを単なる奇跡物語の一つとしてではなく、次のように読みたいと思う。つまりこの記事は、バルティマイの開眼という奇跡の形で、不信の私たち(つまり盲人)に信仰の眼が開けるという出来事を記しているのである、と。信仰とは霊眼が開けることで、神の奇跡なのである。イエスを神の御子、キリストと信じる眼を賜って、十字架に向かって歩まれる主の御後に従う身としていただく。盲人のいやしの出来事は、キリストの復活後、いつでも、どこでも、誰にでも起こりうる可能性と普遍性を秘めているのである。「あなたの信仰があなたを救った」という御言葉は、私たち一人一人に向けられている。    
 投書を一つご紹介したい。六月二十九日付けの朝日新聞に掲載された、五十九歳の男性のものである。この人は、昨年、再三の手術の甲斐なく全盲となったのである。詳しい経緯は省略させていただくが、彼は投書の末尾にこう記している。「全盲となったのに、私は最近見えるものがある。今まで見えなかった人からの優しさが見えるようになってきた。それは大きな希望である。」と。この人は、肉眼は失ったが、心眼が開けたのである。苦難を経ての奇跡がここにある。


†シェバの女王

 また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てか来たからである。ここにソロモンにまさるものがある。(マタイ一二・四二)
         *
 シェバの女王はソロモンの名声を耳にし、その知恵を聞くために地の果てから訪ねてきた。本当に知りたいことがあれば、特に、道を求めるときは命がけである。遠いとか、危険とか、金がかかるなどと言っておられない。我が国においても、『歎異鈔』に貴重な例が記されている。親鸞聖人の弟子数名が板東からはるばる京都の聖人のもとへ、身命を顧みずして訪ねてきた。何のためか。「往生極楽の道を問い聞かんがため」、今日の言葉で言えば、「どうすれば救われるか、永遠の命を得ることができるか」疑義を問いただすためである。それだけのためにである。鎌倉時代のこと、まだ東海道はなかったであろう。求道の真剣さには、宗教の如何、洋の東西を問わない。昔も今も変わりがない。こうであってこそ、道は開けるのである。神は、私たちに求めさせ、御憐れみくださるのである。


†希有の花―白井きく

 「白井きく 珠玉のことば」というブログを始めた。白井きく女史の著作の中から、私がメモしておいた文章を少しずつ世の中に紹介したいのである。なぜ私がそんなことをするかというと、女史の信仰に教えられるところ、共感するところが極めて大であるからである。キリスト教、特に信仰に関心をお持ちの方にはぜひ彼女の著作を読んでいただきたい。とは言っても、私が女史について知るところは、その著書を通じてのみであり、極めて少ない。ちなみに、一九九五年に発行された『神の国はどんなところか』の奥付にある略歴は次のとおりである。
 
 「一九〇五年。横浜に生まれる。一九二七年、旧制東京女子高等師範学校理科卒業、旧制埼玉県女子師範学校教諭。一九二九年、青山学院高等女学部(旧称)へ転勤。一九三一年、塚本聖書講演会に出席して聖書およびギリシャ語原典を学ぶ。一九四三年、教職を辞任、一九六一年、塚本聖書講演会解散後、独立して聖書集会をはじめ現在に至る。著書に、『ルカ福音書(上)(下)』『ローマ人へ』『使徒行伝の読み方』『マルコ福音書』『みんなで生きる』『いのちの泉をたずねて』『ヨハネの黙示を読む』『訳本・ヨハネの黙示』『聖書のこころ』『ピリピ人への手紙を読む』『夕暮れの頃に明るくなる』『ヨハネ福音書の原形』『ブルトマンと共に読むヨハネ福音書(上・中・下)』などがある。」
 
 要するに、女史は今日のお茶の水女子大学を卒業後、教職に就かれていたのであるが、十六年ほどで退職し、内村鑑三の高弟塚本虎二に師事。約三十年間、師の新約聖書の翻訳、機関誌「聖書知識」の編集等の事務を無給で手伝われた。生計は、数学の家庭教師をして立て、生涯独身で間借り暮らしだったそうである。塚本聖書講演会が解散の後は、ご自身で小さな聖書集会を持たれ、伝道を続けられた。また、塚本の元でギリシャ語をマスターし、ドイツ語にも堪能であったので、略歴にあるように聖書の翻訳や註解書、信仰書の発行にも力を注がれた。女史は一〇〇歳近くまで生きられ、『神の国はどんなところか』を出版されたのが九十歳のときであるから驚く。女史は世間的には殆ど無名であり、私も松山聖書集会の先輩が持っていた彼女の註解書によってその存在を知ったのである。私は素人ゆえに、誰にはばかることもなくここに記すのであるが、女史の信仰は、内村、塚本両師を超えた境地に達せられたものと信ずるものである。
 私は彼女の著書によって、新約聖書の要を学ぶことができた。これからも教えていただけるであろう。世の学者、専門家の註解書は難解、厖大、晦渋、煩瑣で結局何が言いたいのかはっきりしないことが多いのであるが、女史のものはそうではない。「一人びとりが自分の生活をもって神からの啓示に接して理解したものが、聖書註解につながる」と前掲書に書いておられるとおり、ご自身の信仰体験に裏打ちされた簡明、率直な、まさに珠玉のような書ばかりである。彼女に私淑するゆえんである。「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」(ヨハネ四・三八)というイエスの御言葉のとおり、私は彼女の蒔いた種を刈り取り、永遠の命に至る実を集めているのである。

  前述の通り、私は彼女のことを、その著書を通じてしか知らないのであるが、小柄で上品で知的な、名前のとおりのお綺麗な方であったろうと勝手に想像している。それで十分である。生前のイエスと面識がなかった聖パウロは、「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」(Ⅱコリント五・一六)と言っている。私も同様に、女史が著書の言葉を通じて私に語りかけるのを、聖霊の働きを介して聞くのみである。純粋な彼女の霊に出会うためには、現世の彼女の姿や暮らしぶりを知っていることがかえって邪魔になることもある。それはさておき、生涯独身であった彼女は、「天の国のために結婚しない者もいる」(マタイ一九・一二)というイエスの御言葉のとおり、神に特に選ばれ、イエス・キリストの花嫁として一〇〇年近く生き抜かれた。私のブログは、彼女がどのような信仰を持っておられたか、その精華のほんの一端をご紹介するにすぎないが、一度覗いていただきたい。どなたかこのブログをご覧になって、もっと女史の人となりなどについてご紹介いただけることを期待したい。私に力があれば、後世のために彼女の全集を発行したいものだと密かに願っているのである。


†神の領分

 先日、お隣の奥さんが亡くなられた。まだ六十代後半である。がんセンターに入院されてから容態が日に日に悪化し、二週間で急逝された。御本人も御主人も、まずは検査からのおつもりで、まさかこんなことになるとは、夢にも思っておられなかったであろう。残された御家族の悲しみはいかばかりか。うかつにも隣家の大事に全く気づかなかった私は、御逝去の翌日、御主人の口からそのことを告げられ、絶句してしまった。善い人が長生きするのでもなく、悪い人が早く死ぬのでもない。現実は、まったくその逆かもしれない。というよりも、生と死は神の領分である。人間の思いや知恵、力を超えたものである。私たちは神の命を私たちのものと思い込み、薄氷の上を大盤石のように錯覚して、その上を歩いているのだろう。
 とまれ御婦人の死は、私たちにはまだ早すぎると思えるけれども、今生の使命を十分に果たされたので、神がお取りになったと受け取るべきなのであろう。私としては、「からしだね」を一年余りお読みいただいたことに希望を持っているのである。主イエスが必ずや良きお計らいをしてくださると信じている。死は決して他人事ではない。「次はお前の番だ。覚悟はよいか」との神様の御促しである。「別に覚悟はありません。ただおまかせいたします」。信仰者は自分に恃むところは何もないのである。

*******************
 
 いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の道にとどまらず
 傲慢な者と共に座らず
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。(詩篇一・一~三)

*******************
発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一 愛媛県伊予市下吾川四八八―三
℡080・6384・8652
E-mail masa73@gc5.so-net.ne.jp
ブログ・からしだね
https://sinonkirisutokyoukai.blog.ss-blog.jp/
ブログ・今日の聖句
https://sinon-masa.blog.ss-blog.jp/
ブログ・白井きく 珠玉のことば 
https://sinon-kotoba.blog.ss-blog.jp/
《読者の皆様へ》
 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストの救いを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。神恩は無量です。キリスト者は神のめぐしごです。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

からしだね第96号からしだね第98号 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。