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からしだね第86号

からしだね  十
二〇一九年 一〇月 第八十六号
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 人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。(マタイによる福音書一二・三四~三五)

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アイガモ

 今年も我が家の近くにある農業高校の実習田にアイガモの雛が入れられた。生徒による田植えが終わると一枚の田をネットで囲み、田の草取りを兼ねて放し飼いにされるのだ。毎年、二十羽ほどである。たまに幼児らが来て、パン屑を撒くと大騒ぎで奪い合う。その様子が面白いので子らが喜ぶのである。お盆過ぎの一日、粗末な小屋が取り払われると、成鳥になったカモはすっかりいなくなる。食肉として処分されるのだ。この話を初めて聞いたとき、人間の身勝手さに思わず腹が立ったが、腹を立てる方が甘いのである。冬になると、生協のカタログで鴨鍋用の鳥肉を注文するのは他ならぬ私ではないか。生きることは残酷なことである。
 私たちの生は、実に多くの犠牲の上に成り立っている。すべて神がお造りになったもの、神の命である。アイガモはそのほんの一つに過ぎない。それにつけても、と私は思うのである。神は、私のような罪悪深重のつまらぬ人間のために、独り子の主イエス・キリストさえ犠牲にしてくださったのである。心も言葉も及ばぬ神の恵みである。この真実に絶句するほかない。


真理とは何か

 イエスはお答えになった。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」(ヨハネ一八・三七~三八)
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 真理とは何か。それは神がいますことである。神は創造主にして、この世もあの世も、世界も宇宙もすべて支配されているのである。私たちはすっぽりと神の御手の中にあるのである。神は私たちの造り主であり、命の源であり、私たちのことを常に見守り、導いてくださっている。神は私たちが道に迷い、罪に沈み、悪にまみれて苦しみのたうち回っているのを憐れみ、子なる神、主イエス・キリストをお遣わしになられたのである。私たちが自力では到底救われぬことを見抜かれたゆえである。主イエス・キリストは人間の姿をとって私たちの世に降りたまい、父なる神の御旨に従い、御言葉と御業によって人々を教化し、ついには十字架につけられ、私たちの罪を贖ってくださったのである。しかるに、この驚くべき恵みを世の殆んどの人は知らないし、たとえ聞いても信じようとはしない。キリスト者といえども、真の信仰をお持ちの方は極めて希である。雨夜の星である。


イザヤの幻視

 イザヤ書の第六章には、預言者イザヤの召命の出来事が神秘的に、かつ恐るべき神聖さをもって描かれている。天にある御座におられる主なる神、神殿いっぱいに広がる衣の裾、飛び交い、呼び交わす六翼の天使セラフィム・・・。イザヤは見てはならないものを見、聞いてはならないことを聞いたのである。

 災いだ。わたしは滅ぼされる。
 わたしは汚れた唇の者。
 汚れた唇の民の中に住む者。
 しかも、わたしの目は
   王なる万軍の主を仰ぎ見た。

 古来、旧約聖書の世界では神を見た者は死ぬとされてきたのである。すると、セラフィム(六翼の天使)のひとりが飛んで来て、祭壇から火鋏で取った炭火をイザヤの口に触れさせて言った。
 
 「見よ、これがあなたの唇に触れたので、
 あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
 「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」
 わたしは言った。
 「わたしがここにおります。
 わたしを遣わしてください。」 

 これは預言者イザヤの幻視を伴った霊的体験であり、イザヤが賜った啓示である。召命と派遣命令は、神とイザヤ当人のみの秘義なのである。天上の消息、つまり、見えない世界の消息だから、その領域外にいる人々には理解できない。神の霊によって、つまり神からの知恵の賜物をいただいた者が、その真実を悟ることができるのである。主なる神はこの後、イザヤに告げるのである。

 行け、この民に言うがよい
 よく聞け、しかし理解するな
 よく見よ、しかし悟るな、と。
 この民の心をかたくなにし
 耳を鈍く、目を暗くせよ。
 目で見ることなく、耳で聞くことなく
 その心で理解することなく
 悔い改めていやされることのないために。(イザヤ六・一~一〇より)

 神は、初めからお見通しなのである。イザヤが派遣されて、預言しても、かたくなな民は決してイザヤの語る言葉を聞こうとしないことを。しかし、神はイザヤを通して民に語られるのである。これは何も、紀元前七〇〇年ころのイザヤの時代だけのことではない。神の御言葉に耳を傾けないのは、今日の私たち、現代人もまったく同様なのである。


「からし種」のたとえ

 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それはからし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(マルコ四・三〇~三二)
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 イエスは神の国をからし種にたとえられた。からし種は微小なものであるが、パレスチナにおいては、茎高は三~四mにもなるそうで、空の鳥が巣を作れるほどにまで成長するという。日本の鷹の爪などとは種類が違うのであろう。イエスが、神の国をからし種のようなものであるとたとえられたのは、その偉大な成長力を言わんとされたのである。神の国は場所的に考えるよりも、神の支配と考えた方が分かりやすい。神の支配は、具体的には、信徒の集りや共同体、教会などの形でこの世に現実化しているのである。神の御力によって、信者が生まれ、集り、共同体を形成していく。今はいかに小さな信徒の共同体であろうと、神の導きと恵みによってその成長発展は極まりないのである。信徒の力ではなく、すべて神の御力によってなされることだからである。私どもの取るに足りない神恩キリスト教会も、小冊子「からしだね」も、文字どおりその小さな粒の中に秘められた可能性を保有しているのである。


地図にない国

 信仰とは、神の国の住人となることである。この国は目に見えず、地図にも載っていないが、確かに存在する。まことの信仰者しか住むことのできない国である。信者は、身はこの世にあっても、魂は神の国にあるのである。これは当人のみが知っていることである。信仰を賜った者は、この世が仮の国であり、神の国こそが実在の国であることを知っている。彼は、いわば派遣社員のようなものであって、この世へ派遣されて来ているのである。派遣先の仕事は神の御命令であるから、この世の尺度とは異なって業務に大小や尊卑はない。また、脇役より主役の方が偉いということもない。いずれも神から与えられる小さな特命である。そして、彼は使命を終えると、元の神の国へ帰るのである。それをこの世では死と呼ぶのである。神の国は永遠の命の国であるから、この世での死は彼にとって使命の終了、任務完了という以上のものではない。彼は、現住所はこの世で本籍は神の国というよりも、二重国籍者のごとく神の国の住人のままこの世に住んでいるのである。彼にとって王は神であり、この世の大統領や首相や国王ではない。彼は、身はこの世にありながら天に属しており、地には属していない。従って、この世の富や地位や名誉は彼にとって何の意味もない。それらが無であることを彼はこの世の民に告げ知らせるのである。彼の魂は神の国にあり、日々、神の命に従っているのである。ヘブライ書に次のような言葉がある。「この人たちは、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです(一一・一三)」。この人たちとは、信仰者のことである。信仰者とは不可思議人間である。


ひきこもり

 イエスがナインという町に行かれたとき、やもめの一人息子が死んで、棺が町の人々によって担ぎ出されるところに出会われた。イエスは、その母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、棺に手を触れられ、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。       
(ルカ七・一一~一五より)
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 二十年以上もひきこもりの一人息子を持つ老婦人がいる。この息子がそうなったのは、それなりの理由があってのことだろうが、社会的には死んだも同然の状況にある。自立することができない、自分の力では働くことはおろか、外出もできないのである。母親の悩み、苦しみ、息子の将来についての不安は察するに余りある。これまでに医療機関や公的機関への相談をはじめ、考えられる限りのことはやり尽くしたが、何の効果もなかった。人間には限界がある。しかし、私たちの知恵と力が尽きた時こそ、神の出番である。神は、かたくなで愚かな私たちが、その御前にひれ伏して、助けを求めるのを待っておられるのである。神はそれまでの私たちの不信や愚かさをお怒りにはなるまい。私たちの肉の目には見えなくとも、復活の主イエスは生きておられるのである。その神の御子が、ひきこもりの息子に向かって、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と呼びかけてくださるのである。否、すでに呼び続けておられる。その御声が、縮こまっている不安な心に届いたとき、息子は即座に立ち上がることができるのである。あきらめずに、共に祈ろう!神にできないことは何一つない。主に助けを求めよう!

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 わたしの魂よ、主をたたえよ。
 わたしの内にあるものはこぞって
   聖なる御名をたたえよ。
 わたしの魂よ、主をたたえよ。
 主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
 主はお前の罪をことごとく赦し
 病をすべて癒し
 命を墓から贖い出してくださる。
 慈しみと憐みの冠を授け
 長らえる限り良いものに満ち足らせ
 鷲のような若さを新たにしてくださる。(詩篇一〇三・一~五)

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今月の祈り

 主よ、多くの人々が罪無くして様々の病で苦しんでいます。ついに、難病との戦いよりも安楽死を選ぶ人さえ現れました。どうか御父さまとあなたの御力によって、医薬の格段の発達を促してください。あらゆる病が、根本的に治る日が一日も早く来ますように。また、私たちが病に負けず、賜った命を生き抜く力と気力を与えてください。

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発行 神恩キリスト教会  三原 正實
〒七九九‐三一一一愛媛県伊予市下吾川四八八―三
[電話]080・6384・8652
E‐mail m.masa69@m01.n-isp.net
《読者の皆様へ》 何でもない一日こそが神のみ恵み溢るるありがたき一日です。聖書の学びをとおして、主イエス・キリストを信じさせていただきましょう。この小冊子が聖書に親しむきっかけになれば幸いです。

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